13 薔薇の丘で
【2025年7月28日14時23分 コンスタンティノープル、首席審問卿執務室】
ヴェシリアは、デスクトップのモニターを見ていた。四分割マルチビューの左上に聖テレーザ教会の礼拝堂、祭壇上部に仕掛けた170度広角HDRのライブ。右上は礼拝堂入り口の監視カメラをハッキングした画像、左下は何も映っていない。
そして右下は、ギュネルとのビデオ・ミーティング画面だ。スペクルムの保安庁専用バージョンを使っている。
今、右上の映像から、ズィヤ・シムシェキ少佐が保安員たちに連行されてフレームアウトしたところだった。礼拝堂ではエキンジが葬儀ミサを再開していた。
「ギュネル?」
ヴェシリアは無感情に言った。
「ずいぶんと、予定とちがいますわね?」
■警告:戦術的整合性喪失
認知的不協和:0.96(深刻)
現実逃避衝動:0.82
対人恐怖:0.74(上昇中)
ヴェシリアは表情解析AIを切った。もう必要ない。
「……か、閣下!これは、あの……アクシデント!そうです、アクシデントがありましたので!」
モニターの中のギュネルには、もう演技の余裕もないようだ。
「よろしくてよ。それで?」
「……それ……で?」
「わたくし達は神に仕える身。神ではないのです。不測の事態は想定内ですわ」
ギュネルの口角がひくひくと痙攣した。瞬きの回数が増える。
「……は……はい……閣下。おっしゃる――」
「ですが。未遂のままではいけません」
ギュネルは唾を飲んだ。
「か……閣下!今一度私にお任せください!このギュ――」
「そうですわね。あなたがなさいませ」
「も、もちろんです!支局最高の部下――」
「もう一度いいますわ。あなたが、やりなさい」
ギュネルの瞳孔が散大した。それを見届けもせず、ヴェシリアは通話を切断した。
そしてほくそ笑むと、ギュネルの人事ファイルを検索し、開きもせずにゴミ箱へドロップした。
依然として全てコンシリウム通り。進捗率は、80%。
役者は揃った。
【15時30分 アンキュラ、アルトゥンダ区上空】
聖堂の鐘が高く長く鳴った。アリーは鐘楼に止まっていたが、動かない。少し前から30秒ごとに一回鳴るようになり、もう慣れたからだ。中庭を見下ろすと、礼拝堂入り口の前に黒くて長い車が停まって、後ろのフタを開けっ放しにしている。
黒い服の人間たちがぞろぞろ出てきた。四角い箱と一緒に。人間たちが箱を積み込むと、長い車はゆっくりと教会から出ていった。その後、ジェイと"いらつきおんな"が、教会の前に止まっていた、ロルフじゃない車に乗って後についていく。公園の通りを北に向かってゆっくり走っていく。ジェイたちの車の後にももう1台。さらに、通りに止まっていた車が何台か後について行った。
猫人間たちは葬儀の間ずっと公園にいた。おとなしかった。ただそこに、道路際に並んで、じっと教会を睨んでいた。
アリーにとって猫の一番恐ろしいところは、あの眼だった。
アリーは飛びかかってきたあの猫をその後も何日か観察していたのだが、ある日奇妙なことがあった。猫はベランダに座って、隣の家の軒先の鳥かごを、ただ見ていた。ただ見ていただけなのに、そのかごの中のカナリアは日に日に弱っていき、そして動かなくなった。
猫が睨み殺したのだ。
第三勢力は教会から出てくる人間たちに、片っ端から光を浴びせていた。ジェイにも。アリーはその光に害がないことは知っていたが、ジェイはいつも嫌がっていた。今も。
30秒に1回鳴っていた鐘が鳴るのをやめた。その鐘の音の残響が消えると、辺りはまたいつものように、とても静かになった。
アリーは鐘楼の木枠を蹴り、ジェイの乗った車の列を追いかけて、聖テレーザ教会を後にした。
【15時33分 特別使徒保安庁アンキュラ支局長専用車】
「この辺りです」
運転手はRoggを路肩に寄せた。高台の斜面の道路。西側にアンキュラの街を見下ろせる。
ギュネルは高い所が大好きだった。街を見下ろすのが大好きだった。アンキュラでも、ジュムフリエット・タワーとかコジャテペとか、高い所から街を見下ろすのが唯一の趣味とさえ言えた。
アッカレからの景色も大好きだ。来月末には年に一度のマラーズギルト和睦記念日だ。保安庁管理下で行われる式典の主催はもちろんアンキュラ支局だったから、ギュネルも当然、毎年アッカレの頂点から街を見下ろしてきた。今年も式典の準備は部下に任せっきりだが、スピーチの練習はそろそろ始めなくてはと思っていた。
来月か。今年は出席できないかも知れない。
首席審問卿とのビデオ・ミーティングは最悪だった。まずスーツのトマトスープの汚れが、完全には落とせなかった。回線が繋がるギリギリまで擦り続けたが、汚れの色は薄くなったものの面積は逆に広がってしまった。
もっと濃い色のスーツなら目立たなかったのに。ギュネルは明るいベージュを選んだ自分自身を呪った。ミーティングが始まってもしみが気になって仕方なかったが、同時視聴していたクルチュの葬儀ミサで柩が落ちた瞬間から、そんなことを気にしている余裕など微塵もなくなった。
あの脳筋の馬鹿者が晒した醜態。
なぜすぐ撃たないのか。せっかくあんなに素敵な銃を用意してやったのに。撃つどころか抜いてさえいなかった。なぜだ。ギュネルには全く想像もできない事態だった。
しかも、ギュネルの忠実な部下だったはずの、礼拝堂に配置した保安員たちが、ギュネルの命令に背いてシムシェキ少佐を取り押さえた。シムシェキの行動予測はちゃんと伝えてあったのに、シムシェキが動いたら事をなすまでは手を出すなと、あれほど厳命してあったのに。
おかげでギュネルは今ここにこうして居なければならなくなったのだ。
あなたが、やりなさい。
なぜだ。なぜ私が。
スリックバックの髪はあちこち乱れて毛がはみ出していた。上着の襟はトマトスープのしみで汚れていた。真紅のタイは緩み、山吹色のシャツは汗で冷たかった。顔はやつれ、憔悴していた。
「すぐに準備しないと間に合いませんよ?」
運転手がルームミラー越しに言った。今日はずいぶん喋るな。いつもはあんなに無口なのに。
ギュネルは外の様子を見回そうと、パワーウインドウを下ろした。途端に、ひと昔前の非常ベルのような、ジリリリリ……という音が耳に突き刺さった。蝉だ。
蝉しぐれが降り注ぐ真夏のアンキュラ。真西にアッカレ、その影にアウグストゥス神殿。南西には支局、使徒の丘の4本の十字架が見える。ここも絶景だったが、蝉しぐれがうるさ過ぎた。今のギュネルには、絶景を堪能する余裕もない。
車から降り、東側、斜面の上方に目を向けた。暑い。陽炎に歪んだ、正方形の区画分の後方に、糸杉が密生している。ここからの距離は200〜300メートル。この距離なら私でも大丈夫だろうか。あそこからなら失敗はしない。出来ない。それにしてもこの音と暑さは、どうにかならないものか。
「ここでいい。トランクを開けろ」
運転手が降りずに運転席のスイッチでトランクを開けた。今までなかったことだ。降りてきて恭しくトランクを開け、荷物を取り出すのがこいつの仕事のはずだ。まあいい。それどころではない。後方に回ってトランクの中に屈み込む。
大きな、黒いタクティカル・ケース。取手を掴んで持ち上げようとしたが、重い。一旦手前に引き寄せ、両手でケースを持ち上げてやっと車外に取り出した。持ち歩けない重さではないが――
トランクが自動で閉まった。と同時に、Roggが静かに走り出した。EVの走行音は蝉しぐれにかき消された。
「お、おい!どこへ行く!」
嘘だろう。私をこんなところに置いて行く気か。
慌ててiPortaで運転手に電話しようとしていると、Roggは100メートルほど先の角を曲がり、霊廟らしき建物の駐車場に入った。運転手が降りて、こちらに歩き始めた。ただ駐車しに行っただけらしい。
運転手は歩いて戻ってくると、タクティカル・ケースを持ち上げた。軽々と。
「行きましょう。ベストな場所を案内します」
運転手がか?だが、こうして車外でこの男をちゃんと見るのはこれが初めてかも知れなかった。もう2年、この運転手はギュネル専属だったが、1人の人間として見たことがなかった。こうしてみると、背もギュネルより高く、がっしりしている。
運転手はギュネルの返事も許可も待たず、道路を外れて区画を横切り、どんどん歩いて行く。ギュネルは後をついていくしかなかった。
運転手とギュネルは、CNG-90、通称ボラが入ったタクティカル・ケースと共に、糸杉の林に向かって歩いた。
ジェベジ墓地で、最も高い位置にある区画を抜けて。
【15時48分 アンキュラ、ギュルテペ通り】
「お父様のお墓は、一番高い丘の斜面にありますの……」
ヴィは会話をしていなかった。ただ、車外を流れて行く街並みを見ながら、時々ぼそっと呟くだけで。ジェイは黙ってそれを聞いていた。
クルチュの葬列は、彼の遺骸を載せた霊柩車を先頭に、ゆっくりとジェベジ墓地に近づいていた。
「この道路。ギュルテペ通り……」
ヴィは振り向いて、ジェイを見ながら言った。
「薔薇の丘、という意味ですわ。ご存知?」
「いや。知らなかった」
「そう……」
ヴィはまた、車外に目を向けた。
ジェイも、景色を眺めていた。不思議な景色だった。四車線の広い道路。右側は、もうジェベジ墓地の緑地で、緑葉の生い茂ったトネリコの並木が、墓地を隠すように連なっていた。そして左側には、近代的な高層マンションが何棟も建っている。
どこに薔薇があるのか、ジェイは懸命に探した。ロルフのトランクに残された、2本の黒い薔薇を持ってくれば良かったと、後悔していた。
少し走ると、右手はレンガ造りのフェンスになった。このフェンスの向こうが、ジェベジ墓地の広大な敷地だった。
「さっきはどうなさったの?」
「……さっき?」
「あの頭のおかしい軍人が暴れた時ですわ。あなたから、アッカレの時と同じ熱を感じたわ」
「うん……わからない。突然、ああなった」
「まあ。あなたでも、わからないことがあるのね。なんでもお見通しなのかと」
皮肉にも聞こえたが、わからないのは本当だった。ジェイエルの力があんなふうに暴走しかけたことは、かつて一度だけあった。だがあれは、本当に特殊な事だ。さっきのが同じ理由だとは、とても信じ難い。だが、もしそうなのだとしたら――
「着きましたわ」
霊柩車が墓地の門へ右折していく。2人を乗せた車も、それに続いた。時刻は16時ちょうどだった。
ギュネルは、裸で蝉しぐれを浴びていた。比喩ではなく、本当に下着まで脱いで全裸になっていた。暑いからではなかった。
運転手が案内したのは、30度近い急斜面の途中の、糸杉が密集している林の中だった。登る距離は短かったが、慣れない足場にギュネルはすぐに息を切らした。運転手はほとんど速度を緩めずに10数歩で登ると、2本の太い糸杉が縦に並んでいるところでタクティカル・ケースを下ろした。
「手をお貸ししますか?」
汗ひとつかいていない。上から見下ろされるのは、ギュネルが最も嫌いなことだった。だがこの状況では、背に腹はかえられない。ギュネルが差し出された手を握ると、運転手は力強く引き上げた。そして言った。
「では、裸になってください」
ギュネルは耳を疑った。蝉のせいでよく聞こえなかったのか。
「……は?なんと言った?」
「今すぐ、着ているものを全部脱ぎなさい。下着もです」
「……き、きさま……何を言っているのだ?」
「時間があまりありません。葬列が到着します。その前に狙撃体制を整えます」
「な……貴様!私を愚弄する――」
「黙りなさい」
ギュネルは、これは夢に違いないと思った。ありえない。そうか、全ては夢だったのか。あの筋肉馬鹿の失敗も、全て――
突然、運転手がギュネルに平手打ちをした。蝉しぐれが一瞬止んだ。痛みが、これが現実であることをギュネルに宣告した。
「早くしなさい。間に合わない場合、あなたを処分するよう命じられています」
「だ、誰に――」
あなたが、やりなさい。
あの女。あの女が、命じた。この運転手は、あの女のスパイか。最初から、ずっと。
「いいですか?あなたの服装は、ここでなくても目立ち過ぎる。この糸杉の林にいくら隠れても、その格好ではネオンサインを光らせているようなものだ。あなたが任務を果たすためには、今すぐ裸になるしかありません」
今この瞬間も、あの女は私を見ているのか。この運転手を通じて。
「誰も見ていませんよ。私だけです」
運転手はギュネルの目の動きから、彼が隠しカメラを探していると察したようだ。
「時間がない。早くしなさい。60秒で」
「ろ……」
ジリリリリリリリリリリ――
ギュネルは、最早言われた通りにするしかないとわかっていた。もうどこにも逃げ場はない。蝉しぐれが、まるで音の牢獄だった。半ばやけくそになり、ボタンを引きちぎる勢いで服を脱ぎ始めた。運転手は、ギュネルが脱いだ服を、いつの間にか掘ってあった穴の中に放り込んでいく。そして、ギュネルが上半身裸になると、その穴の淵にある排土をギュネルの肌に擦り付け始めた。排土といってもそのままではなく、既に砂などと混ぜて周囲に溶け込む色になっていた。
「パ……パンツもか?」
運転手は返事をせず、ギュネルをカモフラージュする作業を続けた。ギュネルはやむなく、パンツも脱いだ。
運転手は土に塗れた手を払い、少し離れて成果を確認すると、タクティカル・ケースを開けてボラを取り出した。サプレッサーをねじ込む。バイポッドは使用せず、糸杉の幹を利用して銃身を安定させる。その一連の動作を、ギュネルは呆然と見ていた。全裸で。
「ここに座りなさい。背中を幹に押し付けて」
ギュネルは言われた通りにしようとした。だがまず剥き出しの尻肉に、木の冷たさと落ち葉の湿り気が気持ち悪い。虫を潰したような感触もあった。すると、運転手はボラの銃尻をギュネルの右肩に強く押し付け、背中を糸杉の幹に密着させた。背中に、ささくれだった木の皮が刺さる。
「い、痛い!やめてくれ!」
運転手はギュネルの悲鳴を無視する。
「両膝を立てて。肘を膝の上に」
言われた通りにすると、ギュネルは座射の姿勢になった。
運転手はギュネルの左手をストックにあてがい、また一歩下がって体制を確認する。今やギュネルの裸身は背景の糸杉と一体化していた。
「スコープを調整しなさい。ターゲットはあそこの墓穴に合わせて。できますか?」
ギュネルは泣きそうだった。泣きたくなかったが、涙が溢れた。鼻を啜りながら、小さく頷く。
「顔の泥は後で塗り直します。レティクルは垂直ですか?」
嘔吐きながら頷く。
「よろしい。では空撃ちして引き金の感触を掴みなさい」
ギュネルは震える指で何度か、ボルトと引き金を交互に引く。カチン、カチンと、無機質な手応えを感じるたびに、ギュネルはビクっとし、全身が震え始めた。
「なあ……頼む。私が悪かった。お……君を蔑ろにしていた。許して欲しい。頼むから……助けてください」
運転手は銃身を避けてギュネルの正面にしゃがんだ。
「ギュネル支局長。私はあなたには別に恨みはない。嫌悪感は認めます。あなたに嫌悪を覚えない人はこの世にはいませんよ。吐きたいのはこっちです」
運転手はもう一度泥を掬うとギュネルの頭に乗せ、スリックバックをぐしゃぐしゃにしながら泥を練り込んだ。それから、銀縁の眼鏡を外す。
「……頼む……眼鏡がないと、見えないから……」
涙のせいで崩れたギリー・メイクを塗り直す。そして、眼鏡のフレームに丁寧に泥を塗りつけ、何度か光の反射を確認すると、ギュネルの顔にそっと戻した。
「そろそろターゲットが来ます。時間はまだある。少しリラックスしなさい。顔をあげて、肩の力を抜いて。ただし」
運転手は立ち上がって、ギュネルが背を預けている太い糸杉の後ろに隠れた。それから、いつの間にか握っていたポケットナイフを、ギュネルの首筋に当てた。
「声を出してはいけません。喋ったら舌を切り落とします。いいですね?」
葬列は、頂上付近の埋葬区画を目指し、斜面をじぐざぐに蛇行しながら、ゆっくりと登っていった。霊柩車が、ギュネルの潜む糸杉の林から200メートル離れた路肩に停止した。後続の車も次々と停車し、エンジンが切られると、蝉の声だけが唯一の音となった。
それは真夏の絶叫だった。車から降りた人々は暑さよりもまず、耳を塞いだ。エキンジは顔を顰めて毒づき、ヴィはコイフを耳に押し付けた。
ジェイは、聴力をアリーとの精神リンクに集中させたが、結果は同じだった。
アリーは最初、この内耳を削られるような音のヤスリから逃れるため、高度を上げてみた。しかし、150メートル程まで上がっても音の暴力が止まないのがわかると、再び降下した。アリーの聴力がどれだけ細かく音を聴き分けても、その全ての周波数で蝉が鳴いていた。
蝉しぐれが、世界を支配していた。
ギュネルは無言のまま、片目を泥で汚された眼鏡越しに、柩が運ばれ、エキンジが聖水を振り撒きながら墓穴に近づくのを見ていた。
これが夢であって欲しいと、まだ心のどこかで思っていた。視界まさに夢のようだった。乾いた泥でかすみ、陽炎で揺らいでいた。
演技も、派手な衣装も、これまでの人生でギュネルを形作ってきたもの全てが剥ぎ取られた。その全てを否定され、なお今、全裸で、泥に塗れて、狙撃銃を手に糸杉の根元に座っている。
今すぐ目覚めたかった。目覚めて、柔らかなシルクのシーツの肌触りを感じ、あくびをしながら伸びをしたかった。だが尻や背中にあるのは固く冷たく汚い糸杉の樹皮。聞こえるのは爽やかな小鳥の歌声ではなく、ひたすらやかましい蝉の鳴き声。そして首筋のナイフの刃が、時々微かに皮膚を切る。
「これは仕事です。感情など捨てなさい。恥もプライドも全部捨てなさい」
背後から運転手が耳元に囁く。
「出来なければ、あなたは死ぬしかない。死にたいですか?」
わからなかった。死にたい。生きたい。わからなかった。
「もし今すぐ死にたいというなら、私が手をお貸しします。その命令も受けていますので。でもそれが嫌なら、なにがなんでもこの仕事をやり遂げなさい。少なくとも努力なさい。いいですか?」
涙が止まったのか、枯れたのか。それすらわからなかった。鼻水が垂れたのは感じた。
ヴィは、お父様が墓穴の中へ降ろされていくのをじっと見ていた。傍らでエキンジが聖書を読み上げていたが、蝉しぐれにかき消されて何も聞こえない。
今感じるのは安堵だった。やっと終わる。お父様はこの黒い穴の中で眠りにつく。
ヴィは隣に佇むジェイを見た。
お父様が眠ったら、後はこの人と一緒に——
そして、エキンジを見た。
——こいつを、地獄に落としてやる。
運転手がギュネルの肩越しに、マガジンを差し出した。
「まもなくです。全て終わります。ゆっくりと、初弾を装填しなさい。安全装置は直前まで解除しないように。私が合図します」
ボルトは真夏の陽光に晒されて高熱になっていた。火傷しそうな熱さだったが、ギュネルはその熱を感じなかった。ゆっくりとボルトを引き、ガシャンという手応えとともに初弾を薬室へ送り込んだ。もう受け入れるしかなかった。恥も恐怖も、全て。
運転手が泥をギュネルの耳に詰めた。嘘のような静寂。蝉の牢獄から解放され、ギュネルの精神は落ち着きを取り戻した。
ギュネルはスコープを覗き、引き金に指をかけると、動かなくなった。
墓地の上空で大きな弧を描きながら、アリーは聴力を諦め、その分空いた脳のリソースを、視力に全振りすることにした。旋回しながら高度を下げつつ、ジェイの周囲を上空から見回し、異常や危険の精査を始めたその時、密生した糸杉の林の影に、僅かな動きを捉えた。
自然のものではない、機械の動き。
アリーはその銀色の視線を1点に集中し、降下した。
(きのかげ。
なにかいる)
ヴィは今、修道衣の袖から取り出した腕時計を見ていた。14時11分を指して、長針と短針が重なったまま動かない文字盤を、ずっと見つめていた。
腕時計を手にする前に、ヴィは2本の黒い薔薇を袖から取り出した。萎びかけた1本はジェイに渡し、花弁が数枚しかないもう1本は自分で、そっと柩の上に置いた。それから、腕時計をどうするか悩んでいた。
本当は、柩の中に入れるつもりだった。だがなぜか、腕時計は指から離れようとしなかった。
これはわたしがお父様にあげたもの。お父様が十九年間も、大切に手入れして、修理もして、ずっと磨いて、こんなに綺麗なまま。でも。
また涙が溢れてきて止められない。もう大丈夫って、あれは嘘。ごめんなさい、お父様。どうしても、涙が止められない。
震えて、腕時計を落としそうだった。ヴィはしっかりと、腕時計を握りしめた。そして、最後にもう一度、柩を、柩の上の2本の黒い薔薇を見て、振り返って墓穴から離れると、ジェイの胸に顔を埋めて、涙を堪えるのをやめた。
ヴィの泣き声も参列者たちの啜り泣きも、全て蝉しぐれがかき消した。
ナイフが僅かに強く、首の皮膚に食い込んだ。
「セーフティ解除」
運転手の声が遥か遠くで叫んだ。
グリップを握りしめていた親指が、動くのを拒否する。ギュネルは全力で親指をレバーにかける。乾いた泥が崩れて落ちた。レバーを前に動かす。
チッと微かな手応え。ギュネルの世界はスコープの中に集中する。レティクルの十字架が、ターゲットに重なる。
ジェイは、ヴィの涙を受け止めながら、アリーの映像を見ていた。
降下していく。
糸杉。木の陰。
鈍い光。金属。
銃。
ジェイはヴィの肩を掴んで、踊るように身体を入れ替えた。背中が疼く。筋肉が膨張する。
ギュネルは無の中にいた。
何も聞こえなかった。蝉も、風も、鼓動さえ聞こえなかった。
人差し指に、力を入れた。
その時。
視界が闇に覆われた。スコープが真っ黒になり、ターゲットも十字架も、何も見えなくなった。
「なんだあれは」
運転手が叫んだ。
その声に、ギュネルは思わず振り向いた。銃ごと。
空から、黒いものが突撃してきた。引き金にかかった人差し指が反射的に動いた。
アリーは上空から、糸杉の林に突っ込んだ。男が2人。太い糸杉の幹を挟んで、1人は幹の後ろに立ち、1人は根の上に座って、銃を構えて。その長い銃身は、ジェイの方に向いている。
アリーは銃を知っていた。火を吹くもの。小さな塊を飛ばす。その塊に当たれば死ぬ。
そのことをアリーはよく知っていた。他の烏たちと一緒に飛んでいて、撃たれたこともあった。その時は近くの仲間に塊が当たり、その烏は死んで落ちた。
撃たれたら死ぬ。ジェイもだ。
アリーは銃を構えた男めがけて急降下した。
突然、立っていた男が叫んだ。ジェイの方を見て。アリーには気づかず。
銃の男がその叫びに振り向いた。銃も。
銃が微かに光り。
震え、死が飛び出して。
風が切り裂かれる音がした。
上着を突き破り、引き裂いて、ジェイの翼が広がった。16時50分。まだ昼間も同然の明るい陽の光の中で、黒い、巨大な翼が、墓地のたくさんの参列者たちの目の前で。
教会の礼拝堂での時のような、意志に反した変身ではない。銃撃からヴィを護る。その一心でジェイは変身した。蝉しぐれは音の支配を続けていて、周囲の悲鳴は聞こえなかった。だがそこにいた全員が、それをはっきりと見ていた。
アリーはジェイの変身を感じた。プルアップ。アリーは死を地上に置き去りに、ジェイの元へ飛翔した。
ボラから発射された7.62ミリ弾が、黒いものを捉えた。
運転手の背中から血しぶきが散った。撃たれた、いや壊れた。運転手だった肉塊はすぐ後ろの糸杉の幹に叩きつけられ、そして2度と動かなくなった。
ギュネルの手は持ち主の意志を介さず、自動的に次弾を装填した。極限状態で空撃ちの訓練をさせられた結果だった。薬莢が飛び出し、どこかへ転がった。
その無意識の動作が、逆にギュネルを現実に引き戻した。自分が何を撃ったのか、ようやく思い当たった。
これで解放された。悪夢は終わった。目が覚めた。
いや、まだだ。ここから逃げなくては。服。まず服を着るんだ。文明世界に戻るのだ。
運転手が服を放り込んだ穴がすぐそこにあった。黒い穴の中に、極彩色のギュネルの衣装が見えた。これだ。これを着れば、私は――
穴に向かって手を伸ばし、一歩踏み出した。その裸足の足裏が踏んだのは、湿った地面や落ち葉だけではなかった。
「あ゙ちぃ゙っ!」
高熱を帯びていた7.62ミリ弾の薬莢を裸足で踏んで、ギュネルは飛び上がった。30度の斜面で。そのまま仰向けにひっくり返り、後ろ向きに斜面を転がり落ちた。ボラを放り出し、何度も後転を繰り返して、糸杉の間を縫って、ギュネルの身体は墓地の外れの、何年も墓参りも手入れもされていない寂れた区画に転がり出た。必死で何かに縋ろうと両手を振り回したが、虚しく空を切るだけだった。
がすっと鈍い音がして、ギュネルの後頭部が汚れた墓石に直撃した。
首がありえない角度に曲がり、全裸で泥まみれで、ギュネルの身体は冷たい墓標の上に横たわった。手と裸足の指が少しの間ピクピクと痙攣していたがすぐに止まり、やがて動かなくなった。
特別使徒保安庁アンキュラ支局長カアン・ギュネルは死んだ。
誰の目にも留まらず、彼の全てであった虚飾を剥ぎ取られて、寂れた墓石に頭をぶつけて。
ジェイは舞い上がった。他になす術はなかった。恐怖と畏怖と、ほんの少しの好奇の目から逃れるために、翼長3メートルの翼を羽ばたかせた。
右腕でヴィを抱き、左手はエキンジの襟首を掴んで。
突風が吹き、無数の枯葉と、いくつかの墓標から花束やカードが散乱した。参列者たちはよろけ、倒れそうになる老人もいた。
蝉しぐれを突き破り、ジェイは舞い上がった。
西の空へ。




