14 星を仰いで
西の空へ。
まだ白熱に輝く太陽に向かってジェイは飛んだ。
地上の人々が目で追ったとしても、逆光に阻まれ黒い影としかわからなかっただろう。
クルチュの墓から約100メートル離れたところに公営霊廟があった。逆光の中、ジェイの影は霊廟の四角い影に溶け、すぐに見えなくなった。
右腕でヴィを抱き、左手でエキンジの襟首を掴んで。それはジェイにとって、肉体の限界を超える飛翔だった。霊廟がなかったら、近くの墓の上に墜落し、ギュネルのように頭でも打って命を落としていたかもしれない。ジェイはかろうじて霊廟の屋根に着地した。
「なにしてるの!」
ヴィは激怒していた。
「またわけもわからず翼がでちゃったの?!みんなに見られた!」
ジェイは返事が出来なかった。手をつき、肩どころか全身で酸素を求め、激しく呼吸する。ヴィは腕を振り解いてジェイから離れたが、エキンジは首根っこを掴まれたまま失神していた。
「どうするの!大騒ぎになる!」
蝉しぐれはまだやかましかった。それに負けない大声で、ヴィは怒り狂って両手を振り上げ、歩きまわって――
ガラスが割れる音。そこは天窓だった。
ジェイは、どこにそんな余力が残っていたのか、ヴィに向かって再び羽ばたき、右手でヴィを掴んだ。そしてそのまま、天窓をぶち破って落ちた。襟首を掴まれていたエキンジも一緒に。
ガラスの雨が降る中、3人は霊廟の中へ落ちていく。すぐ真下に四角い柱のようなものがあり、ヴィとジェイはそれにしがみついた。それは3人の体重に耐えられず、大きな軋みとともに傾いてゆっくりと倒れた。
ズズンという重い音、ガラスの破片と埃。柱のようなものは、巨大な十字架だった。
霊廟のホールの中央の祭壇に聳えていた、黒い巨大な十字架。2人は倒れた十字架の上でへたり込んだ。エキンジは失神したままだ。
ジェイも気を失いそうだった。肺が激しく空気を求め、心臓は破裂しそうだった。胸の中から拳で叩かれたような痛み。音が消え、エキンジの襟首を掴む左手が痺れて、感覚が無くなりかけていた。
十字架の上でそのまま仰向けになった。右腕で天窓から差し込む陽光を遮る。少しずつ、音が戻ってきた。蝉しぐれではなく、ヴィの息づかい。
「なにこれ。信じられない」
頬に小さな傷があった。修道衣のおかげか、それ以外は無傷だった。エキンジは失神したままだが、やはり法衣がその身を守ったらしい。
だがジェイは血だらけだった。ガラスの切り傷だけではなかった。全身の皮膚があちこち裂け、血が滲んでいた。依代の身体が限界に達している。もう翼は収縮し、消えていた。
ヴィはすぐにその血に気づいた。袖からハンカチを出してジェイの横に跪く。
「どこが痛いの?」
「……大丈夫。いつもの……だ」
「馬鹿じゃないの!血だらけよ!」
言われて初めて気がついた。
「ああ……大した傷じゃない。あなただって」
そう言って自分の頬を指さす。ヴィはハンカチで頬を抑え、ついた血を見た。
「わたしだって、こんなの大したことじゃない。もっと酷いケガしたことだってあるし」
ジェイは微笑んだ。それを見て、ヴィも少しだけ笑った。そして気づいた。
わたし、笑った。いつぶり?
頭上で烏が鳴いた。アリーが破れた天窓から覗き込んでいた。アリーは舞い降りてきて、ジェイの顔のすぐ横に止まった。その途端十字架が揺れ、大きな音をたてて床に落ちた。まだどこかが引っかかっていて、少しだけ浮いていたのだろう。また埃が舞った。天窓からの陽の光に、金色に煌めいて。アリーが驚いてバサバサとホバリングし、大声で鳴いた。ジェイが笑った。
ヴィは、今度は声を出して、朗らかに笑った。
「それで?これからどうするの?」
「少し休めば――」
「もう、馬鹿なこと言うのはやめなさい。あなたのその状態、普通じゃない。まあ元々普通じゃないけど」
ヴィの言う通りだった。ここまで消耗したのは、この依代に限らず初めてだった。死んだ時以外では。
「ここにそう長くはいられない。外は大騒ぎのはず、あなたのせいで……なに?」
ジェイはまたにやにやしていた。
「いや……言葉使いが変わった」
ヴィは顔が紅潮するのを感じた。そう言えばすっかり、丁寧な喋り方を忘れていた。
「どうでもいいでしょ、そんなの。めんどくさい」
その時だった。ピピッという電子音が聴こえた。解放されている正面玄関から。外だ。蝉しぐれに混じって、この場に不釣り合いな電子音だけが聞こえたのだ。あれは、車をロックする音か。
「やばい。人が来たかも」
隠れなきゃ。でもどこに?
ヴィは周囲を見回した。霊廟。ホール。地下がある。でもたぶん鍵がかかってる。それにエキンジ。失神したままでも動かすのは大変だが、目を覚まされたら終わりだ。
他にどこかないかと立ち上がろうとした。足元の十字架が軋んだ。板張り。
ヴィは十字架から飛び降り、十字架の周囲を調べた。根元に扉。引っ張ると上に開いた。中は空洞だ。たぶん点検用かなんかだろう。
「ジェイ。こっち。この中に入れる」
話し声と足音が聞こえる。近づいて来る。
ジェイは身体を起こした。動ける、少しなら。エキンジを引きずって、ヴィの呼ぶ方へ連れて行く。
「あなたが先に入って。休まなきゃ。エキンジを引っ張って」
アリーが十字架にちょこんと止まって、小首を傾げている。
(アリー。空から見てて)
アリーは即座に飛び立ち、天窓から出て行った。すぐにロクツィオがくる。男が2人、駐車場から正面玄関に歩いて来る。
「全く。あとちょっとで定時だったのによ。ついてねえ」
「……いや、悪魔がいたらどうすんだよ。ロザリオ、持ってるか?」
ジェイは映像を切り、十字架の狭い入り口に身体を捩じ込んだ。中は思ったより広い。これならしばらく大丈夫かも知れない。
エキンジの身体を無理矢理引き摺り込む。法衣が引っかかった。
ヴィがエキンジの足を持ち上げ、力任せに押し込んだ。法衣が破ける音にビクッとする。
ヴィは自分の姿を見下ろした。
……なんでわたし、こんなもの着てるの?
急いで胸元のホックを外し、脱皮するようにローブを脱ぐ。落ちたローブを足で十字架の影に押し込みながら、スカプラリオに手をかける。
「――だからよ。大騒ぎで……なんだこりゃ!」
正面玄関から声がした。中年の男の声。
ヴィは十字架の内部に滑り込んだ。
「――おいおい!どういうこった!」
ドカドカと、足音。
「やべえぞこれ!こんなのどうすんだよ!」
男が小走りで十字架に近づく。
ヴィが扉を閉めた。息を潜める。
ガラスを踏む音。もうすぐ側まで、男が2人。
ジェイは光が漏れる板張りの隙間から様子を伺う。1人が十字架の、ジェイの顔のすぐそばの縁に手をかけた。
「ふんっ!……だめだ、動かねえ」
人間3人の体重が入っているのだから無理もない。
「天窓が……なんだってんだ。何か落ちてきたのか?」
「――隕石か!」
「ばーか。どこにあんだよ、そんなもん」
「じゃあなんだよ……おい、まさか」
「ああ?悪魔の話か?あんなのどうせ、熱中症かなんかのアレだよ」
「まあな。今日は暑かったしな。爺婆ばっからしいし、悪魔見たとか言ってんの」
ガラスの音。男たちは十字架の周りを歩き回っている。1人が入り口の側まで来た。開けられたら終わりか。
男が入り口の前で立ち止まる。
ヴィも隙間から覗く。男が屈んだ。
「なんだこりゃ?」
ヴィのローブだ。ちゃんと隠したつもりが、足元に広がっていた。袖にお父様の腕時計とかがまだ入っている。もし持って行かれたら――
だがその時、能天気な音楽が流れた。ごそごそと音がして音楽が止まった。
「もしもし。ああ、霊廟にきたけど。こりゃダメだわ。重機がいる」
ガラスを踏む音。男はローブへの興味を失い、電話をしながら離れていった。もう1人も一緒に、声と足音が遠ざかる。そして――
「ちょっと待て」
玄関を出たところで男たちが立ち止まった。
ギギイッと、重々しい音。ガシャン、カチャリ、そして連続した電子音。
玄関を施錠した。電子ロックか何かで。
ジェイはアリー経由で、男たちが車を出し、霊廟から去って行くのを見ていた。
ジェイとヴィ、2人同時に息を吐いた。ずっと止めていたのだ。全身から汗がどっと噴き出す。暑い。
「ここにずっといたら、わたしたちも熱中症になりそう」
ヴィは慎重に外に出た。ローブを拾い、袖の中のものを全部出す。腕時計を左手首にきつめに巻き、他の物は十字架の上に並べた。ロザリオ、ハンカチ、iPorta。
ローブも無造作に置き、スカプラリオの紐を解いて、両脇から細いマチ針のようなピンを引き抜くとローブに刺した。それから長いスカプラリオを頭上まで一気に引っ張り、脱いだ。
さらに、ヴェール、ウィンプルとコイフも外した。ダークブロンドのショートボブを一度振り乱してから、少し整える。
ヴィは長袖マキシ丈のワンピースだけになった。
霊廟を探索する。ここには何度か、シスターとして来たことがあった。地下室への階段口。やっぱり施錠されている。壁際のガラス戸の棚に救急箱を見つけた。取り出して中身を確認し、十字架を振り返る。
祭壇の周りにペットボトルが数本転がっていた。ミネラルウォーターだ。全部拾いながら祭壇にに近づく。
十字架の根元にぱっくりと穴が開いていた。覗き込んで、笑顔が浮かぶ。
十字架は祭壇を貫通して床に直接設置されていたらしい。基盤ごともぎ取られて床が抜けていた。地下室に降りられる。
十字架の出口でジェイは悪戦苦闘していた。エキンジを引き摺り込むより、押し出す方がずっと難しかった。少し動いたと思ったら、法衣が引っかかって進まない。
それにしてもさっきから、引っ張ったり蹴っ飛ばしたりしているがエキンジは目を覚まさない。大丈夫か?生きているのは間違いないが。
そろそろ起こした方がいいかも知れない。そう思って、エキンジの剥き出しの頭頂部に蹴りを入れようとした。
ジェイの足が空振りした。エキンジの身体が急に動いたのだ。ヴィが外から足を抱えて、思い切り引き抜いたからだった。
「こいつ、死んでない?」
床に横たわるエキンジの頬を、軽くピシャピシャ叩く。起きない。呼吸は正常だ。
ジェイはなんとか足から十字架を出た。起きあがろうとして、頭をぶつけた。
「ちょっと。あなたまで気絶しないでよ?」
ヴィがペットボトルを差し出した。
封を切って一気に飲んだ。かなり楽になった。
ヴィは重い修道衣を脱いで軽装になっていた。白いショルダーバッグをたすき掛けしている。
「いいね、それ」
「ウィンプルとコイフで作ったの」
iPortaとロザリオをコイフに入れ、大きな四角い布であるウィンプルでくるんでねじり、肩からかけたのだ。よく見ると、あちこちをピンでとめてある。手には救急箱。
「別に驚くことじゃないわ。使徒職でたまにやるの」
それからヴィは、黒いスカーフみたいな布をジェイに差し出した。
「これはヴェール。止血帯になる」
ジェイは特に何も考えずに受け取った。軽くて柔らかい。オリーブの香りがした。
「嗅ぐなッ!」
ヴェールは引ったくられた。
「ここ。地下室に降りられる」
2人は祭壇の下の穴を覗いていた。
高さはそれほどでもない。降りるのは簡単そうだ。冷蔵庫を開けた時みたいな冷気を感じる。中は暗いが、今はまだ天窓からの陽の光がスポットライトのように照らしている。
「どうなの。すぐには無理でしょ?そんなんじゃ……"狩り"だっけ。地下室でなら少し眠れる?」
ヴィは救急箱を祭壇に置き、手にはローブとスカプラリオを持っていた。それを穴に落とす。
「まずあなたが降りて。エキンジを降ろすから下から支えて。できる?」
できる?と聞きながら、ヴィはもう準備を始めていた。スカプラリオの腰紐を十字架の基盤の枠にしっかりと結え、それから自分の腰にも縛りつける。命綱。
ジェイは地下に飛び降りた。
一瞬で鳥肌が立つほどの冷たい空気が、ジェイの身体に纏わりつく。
「先にこれ。キャッチしてね」
ペットボトル3本、救急箱がひとつずつ順番に降ってきた。次がエキンジだ。
しばらく間があった。何回か布を引き裂くような音がした。
「いい?」
見上げると、埃舞う光の柱に開いた穴から、ヴィの顔とエキンジの足が見えている。
ジェイは背伸びして手を伸ばしたがまだ届かない。上から覗いた時はそんな高さは感じなかったが、3メートルくらいありそうだった。
ヴィはエキンジの身体を穴の縁に座らせると、背後に回って両脇から支えた。そして膝立ちで少しずつエキンジを押す。すぐにエキンジの尻が縁にかかり、それからずり落ちた。ヴィの太腿から上の筋肉が張り詰める。膝が床に食い込むように押し付けられる。
落としてしまえば簡単だった。内心ではそうしたかった。だがそれで死なれたら困る。今はまだ。
「もう少し!」
ジェイが叫んだ。ヴィはおよそ70キロくらいのエキンジの身体を空中でキープしながら、じりじりと前に進んだ。膝が穴の縁まできた。
「まだ届かない!もう少し!頑張れ!」
言われなくても頑張ってる。うるさい。
ヴィは歯を食いしばり、腹筋と背筋に意識を集中して、腰をゆっくりと傾ける。
「届いた!掴んだ!」
「大丈夫?離していい?」
「オーケーだ!」
筋力を緩める。重力とジェイが、エキンジを引き摺り下ろす。少なくとも、大きな落下音とかはしなかった。
「大丈夫!いいよ!」
ヴィは腰の紐を解くと、2,3回強く引いて強度を確かめて、穴の中に垂らした。それから立ち上がり、ちょっとだけストレッチしてから飛び降りた。
脇に避けて光の当たらない闇からそれを見ていたジェイにとって、それはまさしく光臨だった。
陽光のスポットライトの真ん中を、白く細い脚が槍の穂先のように降りてくる。足首まで覆っていたはずのチュニックの裾が大きく後ろになびき、黒いマントのよう。太腿が露出し、金の埃のスパンコールを切り裂いて、床に深く突き刺さった。着地の瞬間に膝を曲げて腰を落としたからそう見えた。
ヴィは着地を決めると、優雅に立ち上がって言った。
「なにみてるの?ばか男」
それから両肩を抱いて寒そうに震えた。
ヴィはチュニックの長袖両方とも肩から破り取っていた。脚は、前に太腿までの深いスリットを入れてあった。動きやすさを優先した結果だが、シスターとはとても思えない艶やかな姿だ。そのかわり寒かった。
ヴィは床からローブを拾うと羽織った。
「さて。あなたは早く寝なさい」
子どもは早く寝なさい、みたいな言い方だった。
「そして、さっさと終わらせて」
ヴィたちが降りたのは、1階の真新しい清潔なホールとは正反対の、古い石造りの地下聖堂だった。もう10年以上使われた気配がない。ヴィも、ここに地下聖堂があるのは知っていたが、入ったことはなかった。
ヴィたちが降りて来た穴から差し込む光が当たらない場所は真っ暗だった。即成ショルダーポーチからiPortaを出し、懐中電灯アプリを点ける。
広い。見回すと仕切る壁などはなく、がっしりした太い石柱が4本あるだけ。それ以外は、見える範囲には何もない。
ヴィはiPortaの灯を頼りに暗闇へ踏み出した。
ライトが照らす光景は、舞う埃のせいでレースのカーテン越しのようだ。
ここが地下聖堂なら、三方がニシュ、東の壁に祭壇があるはずだ。ヴィは一階にいた時の方角を思い浮かべた。十字架は東側にある正面玄関の、向かって左手、つまり北に倒れた。それを背に飛び降りたから、今歩いている方角は南。ということは、90度左手に歩けば東に進む。
十数歩で祭壇らしい影が見えた。
「ジェイ!こっち来て」
どこにでもある普通の祭壇。手前がテーブルになっている。ヴィはテーブルに置かれていた燭台などをまとめてなぎ払った。この状況で役に立ちそうなものはない。けたたましい音が石壁に反響する。
ジェイがiPortaのライトで足元を照らしながら、エキンジを引き摺って来た。天井から差す光の中で、濛々たる埃を舞いあげながら歩いて来るその姿は、ボロボロになった40の男とは思えない。神々しくさえ感じた。
この人時々……いえ、このシチュエーションなら誰でも同じよね。ばかみたい。
ジェイが祭壇に着くと、今度はヴィが穴の下へ戻った。目も慣れてきたし、暗闇でも光源が2つあると全然違う。ヴィはペットボトルや救急箱など、1階から降ろしたものを全て抱えて祭壇に持っていった。
ペットボトルをラベルを剥がしてから3本をひとまとめに祭壇のテーブルに置く。そしてその真ん中に、LEDライトをつけたまま、iPortaをそうっと置いた。キャンドルに火を灯すみたいに。2年半前の2月に覚えた、簡易ランタンの出来上がり。
ペットボトルの乱反射で辺りがぼおっと明るくなる。映画で観た仄暗いシックなバーを連想させる灯だった。こういうのをロマンティックと――
「……眠い」
あくびをしながら、ジェイが言った。
殴ろうかと思った。
暗さがジェイの眠気を加速していた。なぜだかヴィは怒ってるみたいだが、この睡魔は耐え難い。
祭壇の壁に背を預け、足を投げ出す。そして瞼が落ちるよりも早く、ジェイは眠りに落ちた。
ムカつく。この男にはいつもムカつく。
ヴィは救急箱からコットンとオキシドールを取り出すと、ジェイの右側に跪き、額や、頬、鼻の頭、顎を静かに拭いてく。
髪はボサボサ。白髪も目立つ。不精髭。唇も薄いし。
コットンを変える。
血は止まってるけど傷だらけ。上着もシャツも張り裂けてずたずた。胸が規則正しく上下してる。静かな寝息。穏やかな寝顔。
胸に手を置いてみた。そうっと。固くて熱い。心臓の音が聞こえる。この人の。いえ、わたしの。
アッカレ。重力から解放された日。あれは……昨日?嘘みたい。そう、この人を初めて見た日だって、まだたったの5日前だ。
どうして?あなたはなぜ現れたの?あなたが現れてから、なにもかも変わった。
お父様。
眼球が熱い。どうして、またわたしは泣いてるの?
涙を拭った。その手を、ジェイの頬に。温かい。
アッカレで、わたしは翔んだ。このひとに抱かれて。このひとの熱を感じて。風の音。翼の音。
このひとはいつもムカつく。でも、わたしは――
私は暗闇の中で数時間、この時を待っていた。
埋葬がやっと終わり、嫌な事もこれで終わりだと安堵したあの時、突然暴風と暗黒が訪れ、化け物が私を攫った。いきなり襟首を掴まれ、次の瞬間には空中にいた。
魔物が叫んでいる。怒声が聴こえる。驚愕。恐怖。これはなんだ。私はどうなってしまうのだ。そして衝撃。ガラスが割れる音。結界が破られた。落下。死ぬのか。
黒い死。これがそうなのか。
悪魔。
轟音。
地獄。悪魔に捕えられ、地獄に行くのか。嫌だ。
絶対に嫌だ。恐い。恐ろしい。嫌だ。
だがこの悪魔は苦しそうだ。弱っている。助かるかもしれない。逃げられるかもしれない。
待つのだ。何をされても耐えろ。地獄さえ避けられるのなら、どんな事にだって耐えられる。殴られようが蹴られようが、どんな屈辱を受けようが、耐えるのだ。
嘲笑が聴こえる。魔物が嘲笑っている。
身体を引っ掻く爪。地獄への回廊なのか。恐ろしい、恐ろしくて目を開けられない。引き摺られ、押されて、物凄く熱く、苦しい。だが耐えろ。
また押され、引き摺られて、魔物が小突く。頬を叩かれる。気づかれるな。やり過ごすのだ。待て。その時を。最後まで諦めるものか。足掻いてやる。
冷気。先程までの暑さが恋しくなるような、肌に刺さる冷たい空気。
穴だ。下から冷気が、私の足を舐める。魔物が私の背中を、じりじりと穴へ押し出す。全身が強張る。恐い。嫌だ。
魔物が私を抱えて、悪魔に引き渡そうとしている。
遂に、悪魔の手に、足を掴まれた。
叫び出しそうだ。だが耐えろ。まだその時ではない。待つのだ。耐えて。
寒い。凍えるようだ。汗が引き、皮膚の上で凍りつく。
まさか。ここはあそこか。
氷獄。
"Gelidus et languidus" 冷たい、死の氷。
コキュートス。
いよいよ、その時が近いのか。氷の湖面を引き摺られ、闇の中へ。
唐突に、悪魔の手が離れた。固く閉じた瞼を透かし、仄かな灯りを感じた。悪魔の足音が遠ざかる。
まだだ……まだ……油断す……
……いかん。意識を失っていた。どうなった。
意を決し、薄目を開けた。
暗黒の中、祭壇らしき壁に、悪魔がいる。魔物は悪魔の肩に頭を預けて、私に背中を向けて動かない。
眠っているのか?
ゆっくり、慎重に、胸元を探る。その金属が指に触れ、それを掴むと、それまでの恐怖も不安も、全て忘却の彼方へ押しやられた。
悪魔と魔物。いや違う。あれは、あの男だ。ヴィルヌーヴから来たという、あの薄汚い浮浪者。シスター・ヴェシレの従兄弟。
そして今、私に背を向けて呆けているのは、シスター・ヴェシレ……クルチュ。
もう恐ろしくはない。堕落したシスターめ。この私がもう一度、お前を父親に会わせてやろう。泣いて喜ぶがいい。
エキンジは立ち上がった。ゆらりと。
その左手は、大きな銀の十字架を握りしめていた。
鈍く光るハンマーのように。
光でも、音でもなかった。殺気。ヴィの攻撃性と防衛本能、瞑想によって鍛錬されたそれが、殺気を感じた。
ヴィは振り返りすらせず、左大腿筋の筋力を爆発させた。左足が床を蹴り、瞬時に跳躍すると、スリットから白い太ももが露出し、ジェイを飛び越え、投げ出された足元に一気に着地した。
目標が唐突に消えたエキンジが状況を把握する前に、ヴィは再び飛んだ。ほぼ真横に。ペットボトルに乱反射したLEDの煌めきが、長く伸びたヴィの太ももの白さを美しく彩った。
ヴィの右脚がジェイの髪を掠めるように祭壇の壁を蹴り、反動でヴィはエキンジめがけて跳ぶ弾丸となった。ジェイの身体の真上の空中で、ヴィの左手が突き出される。
エキンジは一瞬躊躇した。ヴィが目の前から突然消え、そこには眠ったままの無防備なジェイがいる。
ヴィはエキンジの戸惑う顔には一瞥もくれず、中途半端に振り上げられた左腕のつけ根に、精神とダークブラウンの視線を集中した。
エキンジはヴィの動きに遅れて気づいた。遅い。エキンジの左腕がヴィに向かって振り下ろされようとしたその刹那、完全に伸び切る寸前のヴィの左腕から掌底が、抉るようにエキンジの左肩、鎖骨下窩の腕神経叢を撃ち抜いた。
獅子の爪。
左手首に伝わった衝撃と膨張した筋肉が、クルチュの腕時計のレザーベルトを断ち切った。
エキンジの左腕から力が抜け、銀の十字架がこぼれ落ちた。
ヴィは着地と同時に銀の塊を右手で受け止めた。仰向けに倒れようとするエキンジを逃さず、左手で胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「あら。お目覚めでしたの」
銀色の十字架を手首を返してひょいっと肩に担ぐと、にっこりした。
「地獄に堕ちろ、クソジジイ」
腕時計は、ヴィの左手首から離れ、エキンジのカズラを滑って、ジェイの太腿に落ちた。右手が、ピクっと動いた。右手が持ち上がり、腕時計を掴んだ。そして――
握り潰した。
文字盤のガラスやボディの金属のフレームが歪み、砕けてジェイの掌に刺さる。
皮膚から、汗が気化した蒸気のように、赤黒いオーラが立ち昇る。
何かに引かれたか、あるいは押し上げられるように、無機質な動きでゆっくりと立ち上がった。
「……ジェイ」
ヴィは腕時計が壊れた瞬間から、そのオーラを感じて振り返った。そして、オーラとともに起き上がるジェイを見た。
「目醒めたのね」
黒髪が逆立つ。額に血管が浮かぶ。
目が開いた。瞳が燃えている。翼が広がった。
エキンジは、動けなかった。ヴィに壊された左腕だけではなく、右腕も両脚も、指先ひとつ動かない。声もでず、呼吸さえできなかった。
燃える目が、エキンジを捉えていた。エキンジの目に、瞳に、何かが入ろうとしている。赤黒いオーラ。燃える瞳から微煙が伸び、エキンジの瞳に絡みつく。
「ビルゲ・エキンジ」
低く、太い、だが確かにジェイの声。
「見ろ」
同時に翼が、ヴィとエキンジを包んだ。
エキンジは闇にいた。真っ黒な闇。
光るものはない。空も暗黒。何も見えないはずなのに、解る。油の匂い。
足首がどろどろの油に浸かっている。冷たいが、泥の冷たさだった。黒いカズラを着ている。その下には防弾チョッキがあるのも解る。
そう感じた途端に、急に防弾チョッキが重たくなった。ストラップが肩に食い込む。
重い、耐えられないほど重い。エキンジの膝が崩れ、両手をついた。黒い油に。黒い泥に。
重さがどんどん増していく。
膝が、手が、ずぶずぶと沈んでいく。
沈んでいくだけではない。黒い油は生き物のように、地面からエキンジの身体を這い上がってくる。
沈む。油に囚われ、泥の中に。胸が、首が顎が。
這い上がる油は、遂に口から、鼻から侵入する。
尋常ではない苦さ。舌が、喉が焼ける。食道が、胃が燃えている。
油が目に達し、眼球が焼けた。
ヴィはジェイの腕に抱かれ、それを見ていた。黒い空に浮かんで。
エキンジはとうとう頭まで飲み込まれ、沈んで見えなくなった。最後に大きな泡がぼごっとはじけて、後には何も残っていない。
「……これが……エキンジの、地獄?」
「いや、まだだ」
ジェイはいきなり急降下した。いや、急上昇か。上下もなにもわからない暗黒。
ヴィはジェイの首にしがみついた。
エキンジは油の泥の中にいた。口、鼻、目、耳、そして尻まで、全身の穴という穴から、油がエキンジを凌辱していた。そしてまだ、沈んでいく。
ヴィはそれを見ていた。
「……なぜ見えるの?」
「目で見てないからだ。おれたちの肉体はここにはない」
「なに言ってるのかわからない」
「なにも言ってない。ここにあるのは、意識だけだ」
「あなたが……ここに決めたの?」
「おれじゃない。理だ。決まってるんだ」
沈んでいくうちに、エキンジの周りの泥油が、徐々に粘度を上げて固まっていった。だかそれでも、エキンジは沈み続ける。油は固まり、岩のように固い。その岩を削り、エキンジ自身も削られながら、沈んでいく。
左耳が、頬が削れ、やがて顔の半分がなくなった。
ヴィはもう直視できない。だが目を閉じても、何も変わらない。
意識。肉体ではないということか。
突然、眼下に輝くものがあった。エキンジは眩しさに目を眇めた。なぜ見えるのか。眼球が焼けたのに。
気がつくと、削れた顔も元に戻っている。口の中にも苦いあと味すらない。だが落ちていく。
輝くもの。それは、広大な水面だった。いや違う。
氷。
エキンジを恐慌が襲った。嫌だ、ここだけは嫌だ!
エキンジはそのまま、氷の湖面に激突した。
ヴィは悲鳴をあげたはずだ。わからない。
エキンジの身体は凍てついた、コンクリートよりも硬い氷面に、虫のように叩きつけられた。全身が破裂したかに見えた。だが出血は見えない。この氷の湖を汚すことは許されないのだ。
「終わった?……お願い、もう無理……」
「まだだ。最後まで見るんだ」
エキンジは目を開けた。うつ伏せのまま。全身が爆発したのに、意識があった。燃える。体中が燃えているのに、炎はなく、氷は微かも溶けていない。燃えているのではない。想像を絶する痛みだ。気が狂いそうだ。
だが意識はある。そして、氷に張り付いた頬に、震動を感じた。
低い、聴覚では感じられない震動。あのパイプオルガンのように。
どぉん。
どぉん。
顔を上げたかったが、上げられなかった。頬が氷面に凍りついていた。
「あれは……なに?!ジェイ!なにか、来る!」
氷の湖の霞む彼方に、影が見えた。
どぉん。
足音か。巨大ななにかが、一歩、また一歩近づいて来る。
どぉん。
どぉん。
霞の中で、それは近づくたびに、一歩ごとに、大きくなっていく。もう視界に入りきらない。山よりも、空よりも大きい。
ドォンッ!エキンジの身体が跳ね、皮膚がむしり取られた。そして世界が暗くなり――
エキンジは潰れた。巨大ななにかが、エキンジを踏み潰した。
その瞬間は、瞬間ではなかった。
エキンジには解った。何かが迫り、影に覆われ、そしてまず背骨がくだけ、肋骨が折れた。肺が、心臓が潰れ、破裂した。頭蓋が軋み、脳が弾けた。
エキンジはその全てを、はっきりと、ゆっくりと感じた。
そして。
「これで終わりだ。一周目が」
ジェイがそう言った次には、また暗黒と油の匂いが、ヴィとエキンジを襲った。
一周目。これを何周繰り返すのか。
永遠に繰り返すのだ。そしてそれを、この人は見続けてきた。何度も。
何度も何度も、何度も。
翼が広がった。仄かな灯り。むせかえるような空気。匂い。戻ってきた。肉体に。
ヴィは感じた。明るさを肉眼で、匂いを鼻腔で、重力を全身に。流れる血流を、ジェイの熱を感じた。
エキンジはもう、何も感じていなかった。その目は何も見ず、股間を流れる生温かさも、尻から漏れる悪臭も、もう何も感じることができなかった。
ジェイは崩れ落ちた。
膝をつき、翼は背中に消えていた。汗が吹き出し、右掌に鋭い痛み。手を開くと、捻れ潰れたクルチュの腕時計の残骸が突き刺さり、赤い血が流れていた。
ヴィは無表情で救急箱からコットンを取り出してジェイの右手を拭き、刺さっていた金属やガラスをひとつずつ、注意深く、棘を抜くように取り除いた。
ジェイはその度に顔をしかめて、呟いた。
「まだ……終わってない……エキンジに……言わなきゃ」
ヴィは無言で処置を続ける。
「エキンジ。お前には。まだ残された希望がある……」
コットンで額の汗を抑えて拭う。そっと。
「……まだ間に合うかも知れない。心を……入れ替えれば……やり直せる……」
エキンジは涎を垂らしながら、歩き始めた。灯りから離れ、暗闇に向かって。足を引き摺り。
「無駄よ。聞こえてない」
白い包帯を巻きながら、ヴィは言った。
「言い損ねたわね。決めゼリフ」
悔い改めろ。
ヴィには、聴こえていた。
天井の穴から垂れるヴィのスカプラリオの腰紐を掴んで、先にヴィが1階に上がった。腹筋を使って逆上がりのように脚を振り上げ、星明かりに太ももを晒して。それから、紐を左手で握ったジェイの身体を数10センチ引き上げると、ジェイは右手を伸ばして穴の縁に指をかけ、懸垂して地下から抜け出した。エキンジは放置した。腕時計も。
2人は天窓を見上げた。アリーがいて、その背景の紺色の空に1等星がぽつんと光っている。ヴェガだ。
もうシスターは辞めた。ヴィは唐突にそう思った。
「翔べる?」
ジェイの背中に触れる。
「うん。あの星までは無理だけど」
ジェイは翼を広げた。




