2 Zulüm(弾圧)
【2025年7月24日 アンキュラ、カイセル・バクシュ】
「……エモが喜ぶ、か……」
ダキアの助手席で、ズィヤ・シムシェキは呟いた。
「少佐?」
「いや、独り言だ。気にすんな」
運転に集中している伍長の横顔を見る。若い。フィリスティンに派遣された頃のエモ・デミルよりも、ずっと若い。20代前半。ズィヤたちはその頃、30だった。この先ハチュルが続けば、兵隊はもっと若くなる。そして、年を取らずに死んでいく。
「ここら辺は歩行者が飛び出してくるからな。気をつけろ」
そうだ、気をつけろ。死ぬなよ。可能なら。
現在派遣されている第2回イェニ・ハチュルは、今のところスヴェイシュに駐留しているだけで、戦闘はしていない。だが国境は越えているし、いつエジプトと開戦してもおかしくない状況だ。テロの可能性もある。
11年前の第1回ではそうなった。教皇庁は戦死者を3%と発表した。たった3%、と。約2,000人。フィリスティン・ゲリラは8,000人、戦地で犠牲になった民間人は15,000人だ。25,000の命が、2年半で失われた。
エモの母親は、息子にもう会えないということを受け入れられていない。もう11年になるのに。彼女の戦争は、いつまでも終わらないだろう。ズィヤが殉教者事業部に配属されて3年。ああいう母親は初めてではなかった。
『我らがイェニ・ハチュルの、勇敢なる光の騎士たちよ!今こそ、神の御言葉を伝えよう!』
『神は、望んでおられる‼︎』
そうか、望んでおられるか。これをか?多数の若者が死に、その母親の心が壊れるのをか?
インノケンティウスは、フィリスティンの兵や人々のことを、悪魔に誑かされたと言った。それを信じたわけではないが、ローマのため、カトリックのためだと信じて彼らを攻撃し、殺し、奪った。フィリスティン・ゲリラを殲滅し、聖地イエロソリマの確保が決定的になった時は嬉しかったし、笑った。酒を飲まない異教徒の地で、祝杯をあげた。だが隣にエモはいなかった。たくさんの同僚たちがいなかった。嬉しかったのは戦闘に勝ったからじゃない。生きて家に帰れるから嬉しかっただけだ。
疲れ切ってフィリスティンを後にし、それでも無理矢理笑顔を浮かべて帰って来た。妻が、エラが待ってる我が家に。
エラは死んだと聞かされた。
エラは、2週間も前に飲酒運転の車に轢かれて死んでいた。
これを神が望んだというなら、神なんかクソ喰らえだ。
「気をつけろ!」
子どもがダキアの前に飛び出した。ズィヤが叫ぶのと、伍長が急ブレーキを踏むのとはほぼ同時だった。狭い道で速度も出ていなかったので、ダキアは子どもの少し手前で止まった。
気をつけろ。そうだ、気をつけろ。フィリスティンに悪魔はいなかった。悪魔だけじゃない。
神も、どこにもいやしない。
飛び出した子どもの後から、母親にしては若い女が歩いてきた。手にプラカードを持っていて、それを俺たちの方に振りかざす。
"BU DÜNYA BOZUK"
(この世界は壊れてる)
ごもっとも。
"Sahte tanrıya inanma."
(偽の神を信じるな。)
これまた、ごもっともだ。
グノーシス主義者か。
2世紀頃に、霊肉、善悪2元論を唱え、現実のこの世界は偽の神デミウルゴスが創ったとする思想だ。当時のキリスト教会から異端とされ、焚書、弾圧されて、13世紀のアルビジョア・ハチュルで絶滅したと言われているし、現代でも保安庁に見つかれば異端審問会だ。だが、いくら書物を焼こうが信者を殺そうが、思想が根絶することなどありえない。その証拠が今目の前にあるわけだ。こういうプラカードや貼り紙は、これまでいくつも見たことはあったが、心から同意したのは初めてだった。
手書きで、乱暴な字体で書かれた文字のその下で、2匹の赤い蛇が、互いの尻尾を咥えて円になっている。これも手書きで書かれていた。
赤いウロボロス。
肉体、ひいては物質世界の限界、無限や永遠、完全性の象徴。
プラカードの女は、子どもを抱き上げて路地へ入って行く。やはり母親か、それとも姉か。子どもの靴の片方が脱げ落ちたが、女は気づかず行ってしまった。
「伍長。ここで待ってろ」
「……は?少佐?」
ズィヤはダキアを降りて、路上に転がっている靴を拾い上げた。この靴は知っている。"Büyüyen(大きくなるやつ)"と呼ばれる、子どもの成長に合わせてサイズを5段階調整できる、貧困支援物資だ。まだ新しい。ズィヤはプラカードの女を追った。
ズィヤが路地に入ると、プラカードの女の姿はもうなかった。路地を走って、反対側の道路に出ると辺りを見回す。左方50メートルほど先を、子どもとプラカードを抱えた女が歩いて行く。追いかける。ズィヤは41歳だったが、走るのは苦ではなかった。兵士だし、高校までの12年間はサッカー部だった。
「待て!」
ズィヤは小さな靴を振り上げながら走った。半分ほど距離を詰めたところで、女は建物に入って行く。
すぐにその建物に着く。簡素な扉が閉まっており、貼り紙がある。KK、とだけ書かれている。
ドアを開け、中に入った。廊下。女も子どももいない。どうしたものか。
話し声が聴こえる。奥の方だ。誰かいるのか。話し声がするのは、ガラス窓のあるドアの中だった。10数人の男女、プラカードの女もいた。もう子どもは降ろしている。女に向けて靴を振るが、こちらを見ない。ズィヤはドアを開けた。
全員がこちらに振り返った。いや、全員ではない。部屋の奥に、金髪で長髪の若い男が一人、壁を背に立って既にこっちを見ていた。何かの集会か。若い男がスピーチかなにかをしていたようだ。
「――なんですか?あなたは?」
「あー、失礼」
言いながら、プラカードの女に靴を見せる。
「――あ。ありがとう」
「落としたから」
女は靴を受け取り、隣に立っていた男の子に渡した。
「ほら。ちゃんと履いて」
「ありがとう、おじさん」
ズィヤは頷いたが、男の子の顔が汚れているのに気づいた。
「いいんだ。顔になんかついてるぞ」
そう言ってから更に、顔だけではなく服も汚れているのに気づく。何かついているというか、洗わずに何日も着替えていないらしい。見ると、プラカードの女の服も、他の数人の男女も、皆小綺麗とは言えない格好だ。
「みんな、ハチュル遺族なんですよ。あなたもハチュル?」
小柄な男が言った。
「よかったら少し、話を聞いていきませんか?ハチュルの兵隊さんなら、ぜひ聞いて欲しい。偽の神について」
「――いや、俺は……」
ポケットのiPortaが振動した。
「失礼」
メールだ。伍長から。停車無理です、少し離れます。ご連絡ください。
ズィヤはため息をつくと、小柄な男を見た。手元のテーブルにノートPCがあり、画面に動画が流れている。音声はミュートされているが、動画はニュース映像で、ズィヤもよく知っている映像だった。インノケンティウスの、イェニ・ハチュルの演説だ。偽の神。
「……じゃあ少しだけなら」
ズィヤが言うと、小柄な男は笑顔になった。
「Kadim Kehribar。聞いたことありません?」
小柄な男が、PCを触りながら早口で話し始める。ドアの貼り紙のKKか。
「いにしえの琥珀。まあカルト教団みたいなやつ。最近巷で流行ってる。ここにも何人か信者の人が来てます」
プラカード。グノーシス主義か。
「僕は違いますけど。あ、パヴル・エルギュンっていいます僕の名前。名乗ってなかった。パヴルって変な名前でしょ?ほんとはパウロってつけたかったらしいけど父さんが綴り間違えたって。ウケる」
早口で、口を挟む隙がない。
「ほらこれ見てください。エーミット」
やっと口を閉じ、ノートPCを操作して別の動画を開く。ちゃちな虎のマスクをつけた人物が映る。目の前の男と同じTシャツ。
「これ僕。パヴルとバビュール(Babür、虎)、しゃれです。バビュール!カッケぇ!Tシャツはこれがお気に入りで」
動画が進むと、全面にあのマークが表示された。赤いウロボロス。
「これ見たことありません?ウロボロスっていうんですけど、古代ギリシア時代から――」
「失礼、出来れば手短かに話してもらえるかな?もう行かないと」
パヴル、と名乗った男が慌てる。
「あー待って待って待って!もう少しいいでしょ?まだ本題もなんにも話してない。ほら見て」
また別の動画を再生する。"スヴェイシュ通行権は免罪符か?"
「どうですこれ!僕の動画で再生数ナンバーワン!もうすぐ10万超えますよ!すげえ!これでチャンネル登録もガッツリ増えたんです。待ってろ銀の盾!」
ちょっと興味を惹かれた。内容は、スヴェイシュ運河の通行権をローマ教皇庁が高額で販売しているのではないか?という告発。陰謀論ぽい語り口だが、実はこれは事実なのだ。一般市民は知らない事実。パヴルがミュートを解除した。
『――えーおそらくですね、まあこれは推測の域を出ないんですが、教皇庁。教皇庁はやってます、これ。金額は、えー、金額まではわかんない。でも絶対バカ高いですよね。そりゃそうだ。これでガバガバ儲けてるわけですよ』
PCの中でパヴルが虎のマスクで熱弁する。
『――で、儲けてどうすんの?って話ですけどね。まあ僕らにまわってくるわけはないっすよね。たぶん、あー、これ以上言うと危ないかも?いやBANどころか命の危険が……でもね、バビュールはバビュッと言っちゃいます。ええ言っちゃいます。このお金。教皇がこれ――』
片手を胸の辺りで動かす。懐に入れた、と言いたいのだ。
『――はい!ここまで!危ない。危ないっす!もし今後、僕の動画がこれが最後になっちゃったら、察してくださいね!というわけで、今日の動画は以上になります!高評価、チャンネ』
動画が止まった。パブルが停止ボタンをクリックしたからだった。
「へへー。これ先週アップしたんですけどもう再生すごくて。まあ陰謀論なんで、BANされるわけないんですけどね。スリリングなのがウケるんです」
驚いた。この男は陰謀論だと思っているらしいが、ほぼ事実だった。軍の上級将校の間では周知の事実。保安庁の目を盗み、基地のバーで声を潜めて語られる類いの事実だ。2回目のハチュルの真の目的、とさえ言われている。
「パヴル、と言ったな。どこでこの話を――」
「はい!どうですかみなさん。兵隊さんもびっくり!」
パヴルが、ラップトップに向かって喋っている。いつのまにか虎のマスクを被って。
「これはリアリティあるでしょ?まあ信じるか信じないかはあなた次第――」
ズィヤが手を伸ばしてノートPCを閉じる。
「おい、まさか録画してたのか?」
「あ、ちょっとちょっと!なにしてるんですか!もちろん撮ってますよ?今日はライブなんで」
顎が落ちる。ライブだと?
即座に踵を返し、部屋を出た。迂闊だった。俺が来た時もう撮っていたのだろうか?下手すれば俺も審問会送りだ。
「兵隊さん!待って待って!急に入ってきたのはあんたなんだから!肖像権とかで訴えないでくださいよ!」
パヴルが追いかけてきた。
「てかもう世界に発信されちゃってるんで……でもあんたはほんのちょこっとしか映ってないから!大丈夫!」
無視してiPortaを出し、伍長の番号を探す。見つからない。運転手、で探すとすぐに見つかった。
「――待ってってば!でないとあの動画、続きでもっとヤバいこと言っちゃいますよ?あんた、撮られてたってわかる前から、血相変えてた。なんかヤバいんでしょ?」
伍長に送るメッセージを打つ手が止まる。振り返ってパヴルを睨んだ。
「ほーらやっぱり。もうちょいお話ししませんか?もっとおもしろいネタもあるんで」
ニヤニヤしながら息を切らしているこの男に、妙な凄みを感じた。
「へへー。実はあの、ライブって言っても、まだ間に合うんですよ、削除。こういうこともあるんで、タイムラグ設定してるんで。さあ、あっちでお話ししましょう?」
「どういうつもりだ?」
見下ろして睨む。さっきは演台かなにかに乗っていたのか、パヴルは背が低かった。およそ165くらいか。しかも猫背だ。
「さすが兵隊さん迫力あるなあ。いやエーミッターやってると、いっつも動画のネタ探しちゃうんですよねー。さっきのあんたの顔、なんかあるなーと」
「なにもない。俺が映ってる部分は削除しろ。以上だ」
「いやいやいや。じゃあこういうのはどうです?教会の裏金疑惑!――」
「なんだそれは。興味はない」
「あれ?ひよっとしてGTが恐いんですか?兵隊さんでも」
GTはÖzel Apostolik Güvenlik Teşkilatı(特別使徒保安庁)の略称だ。
教皇庁直轄の治安維持機関。ここの捜査員は"審問官"の肩書を持つ。表向きはローマの公序良俗の是正を行う機関とされているが、要するに秘密警察だ。軍でさえ、彼らの監視下にある。
「――ハチュル遺族は搾取されてるんですよ!」
こいつは審問官が恐くないのだろうか?パヴルは上目遣いでこちらをみている。眼鏡の奥の、遊んで欲しがってる犬みたいな茶色い瞳。悪いやつではないのかもしれない。
「――わかった。5分だ。スヴェイシュは無し」
「了解しました!」
パヴルは下手くそな敬礼をした。背が低いせいで子どもと遊んでいる気分だ。
「じゃあこちらで。あ、みなさん、今日はもう終わり!動画また見てくださいね?高評価と、まだの人はチャンネル登録よろしくお願いしますねー!」
部屋にいた10数人を帰してしまう。プラカードの女も、ズィヤに小さく会釈して帰っていった。男の子は手を振って。
「さて、と」
パヴルが椅子を勧め、ズィヤは腰を降ろした。なにしてるんだ、俺は。
「で。なんだ」
「いや、さっきも言ったけど、動画のネタが欲しいだけなんで。黙って聞いててくれるだけでいいですから。あんたの顔色見て、僕が勝手に判断しますから。だって――」
「勝手に判断?それでまた誇張した陰謀論でもくっちゃべろうってのか?動画で」
「そんな感じっす。陰謀論なんて全部そんなもんでしょ?もちろんあんたのことにはひとことも触れません」
「スヴェイシュの話は……」
「はいはいわかってますって。スヴェイシュはナシで。僕も噂で聞いただけだし」
「噂?それだけであんなに話を盛ったのか?」
人差し指を左右に振る。ちっちっち。
「だからスィビラなんてそんなんばっかですから。まあたまに、真実にブチ当たることもありますけど」
あの動画はたまたまだ、と言いたいらしい。
「でもこれは噂じゃない。事実です」
そう言うと、PCのキーボードを叩く。
「これ見て。僕の本業」
表計算ソフトが開いている。金銭出納帳らしい。
「派遣社員でして。経理事務。これは今の派遣先の不動産会社」
「そんなもの、持ち出していいのか」
「いやもちろんバレたらクビですよ?バレたらね。でもこのPCは僕の私物。古い会社で、ネビュラもわかんないんですよ、この会社の人」
「これがどうした」
「この会社、教会所有の不動産の管理を任されてるんですが、預り賃料を教会に送金してない。現金で出金されてるんです。その金額、ざっと計算したらなんと、2,000万リラ。ヤバいでしょ?」
2,000万。贅沢しなければ一生遊んで暮らせる金額だ。
「2,000万の現金をこの時代に手渡し。確かにヤバそうな話だな。だがそれが俺に、なんの関係がある」
「別に、あんたが悪いことしてるって言ってるわけじゃないっすよ。そういうタイプじゃないでしょ」
「ならなんで俺に話す」
「あんた、子どもの靴を届けるためにこんなわけのわかんないとこにいきなりやって来た。見た感じ、家族でも知り合いでもなさそうなのに。いい人なんだな、と思って」
「それで?」
「このIT時代に、2,000万リラを現金で。もちろん一度にまとめてなわけはないけど、それはどうでもいい。大金を不正に動かしてる。誰かがそれをやった。誰なのかはわかりません。でもひとつ、はっきりわかってることがある」
「教会か。どこのだ?」
「その前にもう少し。わざわざ現金で、ということは、横領か隠し金ですよね。ただ教会の口座に入れるだけなら、ネットで送金すれば5秒でおわるんだから。じゃあ2,000万はどこにいったのか?」
パヴルはわざとらしく間をとって、言った。
「コンスタンティノープルの大宮殿。教皇庁だと思います。違法献金。賄賂」
「どこの教会だ」
また間を開ける。
「――聖テレーザ教会です」
【同時刻 アナドル文明博物館駐車場】
ジェイは、聖テレーザ教会の周りをぶらついていた。まだ侵入経路は決まっていない。迷った浮浪者ぽくあの裏の路地にも入ってみたが、3歩で警備員が飛んできた。やっぱり、空から行くしかない。
iPortaで、今夜の天気をチェックする。午後から雲が出てきて、夜には雨の可能性もあるらしい。この季節には珍しい。空から行くなら、雨は好都合だった。強風はめんどうだが、雨だけなら飛行には大した影響はないしシャワー代わりになるし、雨の日は普通の人間は空を見上げることは少ない。どうせ今夜は、教会の敷地に入るためにちょこっと飛ぶだけだ。
歩いて駐車場のファルトまで戻った。9時半。ちょうどいい。
(おそいよ!)
アリーが教会正面の木の上から降りてきた。少し怒ってる。言われた通り、ずっと教会を見ていたらしい。
(ごめん、ありがとうアリー)
ポケットから胡桃をひとつ、掌に乗せる。すかさずアリーは、タッチアンドゴーで胡桃を奪取し、近くの木の枝に止まって食べ始めた。食べ終わる頃には、放って置かれたことは忘れてるだろう。たぶん。
ニシコクマルガラスはとても知能の高い鳥だが、中でもアリーは頭がいい。ロクツィオも、まだ拙いが使えるようになった。使い魔がみんな使えるわけじゃない。
今2歳でちょうど成鳥になったところだが、ジェイと行動を共にするうちにいろいろ学んだようだ。精神リンクを通じてロクツィオで指示すれば、ボルト錠を開けたり欲しいものを取ってきたりもできる。生後2ヶ月くらいから自分でノネズミなんかも獲って食うようになった。
アリーが初めて狩りに成功した時のことはよく覚えている……捕食動物目線で獲物を生きたまま喰うというグロ映画が、強制的に脳内で上映されたからだ。匂い、感触、味付きで。それ以来、お互いのプライバシーには配慮するようにしている。
10時を過ぎた頃、エキンジが帰ってきた。
教会の前に、Roggの電動SUVが停まった。ローマ唯一のEVメーカーのフラッグシップだ。この会社の設立には教皇庁が多額の援助をしている。
運転手が降りてきて後部座席のドアを開ける。VIP待遇。清貧を心がける教会の司祭とはとても思えない。
こちらからは車の陰になって顔は見えないが、エキンジだろう。念のため、アリーに飛んでもらって顔を確認した。間違いなかった。
エキンジは、目の前を烏が横切ったので少し驚いた様子だったが、修道士が一人迎えに出てきて門を開けると、そそくさと教会へ入っていった。
(アリー。教会の屋根へ)
ジェイのロクツィオが届いた瞬間、アリーは空中で向きを変え、真っ直ぐ教会の屋根に飛ぶ。修道士が見上げたが、一瞥しただけだ。
(よし。そこで待機してて)
(たいき。いつまで?)
さっき待たされたことを根に持ってるらしい。
ジェイは教会の玄関が見える位置で駐車場の木陰に身を隠し、目を閉じた。聴覚に集中する。ジェイ自身の耳で何かを聴こうというのではない。精神リンクを通じてアリーの耳で、微かな音も拾おうとしていた。
鳥類の聴覚は非常に優れているが、犬のように人間には聴こえない範囲の音が聴こえる、というわけではない。犬笛のような高周波の音は全く聴こえない。だが、人間が普通に会話する際の周波数帯、約4キロヘルツまでの低周波は、鳥にとって最も聴こえやすい音なのだ。高周波が聴こえない分ノイズが少ないし、人間にとってはひとつにしか聴こえない音を、非常に細かく分解して聴くことができる。中でもニシコクマルガラスは、その分解聴覚が特に優れている。
具体的に何ができるのかというと、教会の屋根に止まっていれば、中にいる人間の会話を個別に聴き取れる。もちろん内容まで理解できるわけじゃないが、ジェイが聴き逃した会話もアリーの記憶には残っているので、精神リンクで記憶を辿れば後から確認できる、生きた超高性能盗聴器だ。
逆にアリーは、ジェイの意識を知ることができた。ジェイの思考や感情を感じとり、これまで共に過ごしてきた経験で、彼がしたいこと、して欲しいことを理解していた。上手く出来たら、褒めてもらえることも。
使い魔。魔というが、魔物ではない。元は死んだ人間だ。人間の魂が天、または地獄から地上に戻る唯一の方法、それが使い魔になることだった。
ただし、元の身体に戻ることも、別の人間に生まれ変わることもできない。使い魔が地上で存在するためには、鳥や猫、鼠や蛇、蜘蛛、蜥蜴といった、特定の動物に転生するしかない。そして、転生しても、その動物の身体構造や能力はなにも変わらない。人間の膨大な知能や記憶は維持できない。舌や喉の構造上喋ることもできない。その動物の生態そのままで誕生し、成長し、死んでいく。
そういうことを理解した上で、それでも地上で生きたいと思ったとしても、使い魔として必要としてくれる堕天使や天使が、その身体の一部を鍵として使ってくれなければ、使い魔にはなれない。そもそも地上に転生する堕天使も天使も滅多にいないので、使い魔とは非常に稀有な存在だった。
アリーの場合は、ちょっと違う。使い魔になることをアリーが望んだわけではなかった。アリーが死んだ時、彼女はたった7歳の少女だった。
アリーヤ・ムトルは、目が大きくて色白の、ブロンドの巻き毛の少女だった。健康で、勉強もでき、両親に溺愛され、世界で一番幸せだと感じていた。
両親は敬虔なカトリックで、日曜日には必ず親子3人揃って教会に通った。父に右手を、母に左手を預け、教会へ向かう姿は、幸せで理想的な家族愛の象徴のようだった。
ある日曜日、新任の神父がアリーを見て、彼の奥底に眠っていた悍ましい欲望を滾らせた。その神父はアリーを個室に誘い込み、嬲りものにした。アリーは驚き、恐れ、傷ついて両親に訴えたが、敬虔なカトリックである両親は、娘の言うことが信じられなかった。アリーは身も心も傷だらけになり、絶望して、穢れた身体を清めるため自ら浴槽にお湯を張り、その小さな体を沈めて溺死した。
自殺した人間は天にはいけない。地獄に堕ちる。
ジェイエルは全てを見ていた。あまりの理不尽さに、ジェイエルはアリーを憐れんだ。使い魔になるということがどういうことか、出来る限りわかりやすく説明したが、7歳の少女には難し過ぎた。
ジェイエルはアリーを使い魔にした。自らの鴉の羽根を鍵にして。
2年前のことだ。ジェイ・ロルトが死ぬ10日前だった。ジェイ・ロルトに転生するとまずアリーを探し、それからアリーを地獄に堕とした神父を探した。その神父は、ジェイエルがジェイを依代にして行った、最初の"狩り"の獲物となった。
彼はその後自殺したが、アリーが行くはずだったあの森ではなく、煮えたぎる血の川に頭まで沈められて、身体の内外から焼かれている。それは永遠に終わらない。




