1 Job & Vocation(職務と天命)
【2025年7月23日 ローマ共和国、アンキュラ】
夏の澄みきった空の青。
その下には、ところどころ黄金に輝く茶褐色に乾燥した丘陵や、公園の深い緑に囲まれたオレンジ色の屋根の家々が、複雑な幾何学模様を描いている。北の方角には、銀色の高層ビルが立ち並ぶ近代的な都市が見え、真下の古い街並みとのコントラストが鮮やかだ。
鮮やかだが無機質な景観の中心に、周囲の喧騒から置き去りにされたかのように、歴史に育まれた静謐な建物がある。長方形の屋根、小さな十字架。控えめな尖塔。クリーム色の外壁に、整然と縦長の窓が並ぶ。
聖テレーザ教会。
ジェイ・ロルトは教会の正門の前に立っていた。
影。
強い日差しでてきた影が、生命を得てゆらりと立ち上がったかのよう。
古びた黒のスーツ、黒髪はボサボサに伸び、不精髭が目立つ。
ジェイは胸ポケットからiPortaを取り出し、スワイプする。頭上で烏が鳴いた。それを見上げて何か呟く。烏は西の方へ飛んでいく。
教会の、厳しい鉄の門の格子越しに、警備員が蔑みの表情でジェイを睨んでいた。ジェイは警備員を一瞥すると、教会を離れて西へ歩いて行った。烏の後を追うように。
ヴェシレ・クルチュは、教会の中庭の、オリーブの木の木陰で、歩き去る男の後ろ姿と、飛んでいくカラスを見ていた。交互に。
何か用だったのかな。声をかけてあげればよかった?用があるなら、警備のおじさんに言えば入れてくれるのに。
iPorta持ってたから、浮浪者じゃあないかな?。最近は物価が高くて不景気で、ある日突然失業しちゃう人も多いから、見た目だけじゃわかんないけど。
コイフを直して、木陰を出た。別に隠れていたわけじゃない。中庭の掃除の途中、7月末のアンキュラの灼熱の太陽を避けてサボってただけ。夏に修道衣は暑すぎる。正面玄関から礼拝堂に入ると、直射日光がないだけましだけど、やっぱり暑い。
「やあ、ヴィ。何かあったのかい?」
ダニエル・クルチュ神父が、礼拝堂脇の螺旋階段を降りてきた。老齢の神父は、窓から差し込む陽の光を反射して琥珀色に輝くオーク材の手摺に左手を添え、一歩一歩確かめるようにゆっくりと階段を降りる。手摺の上の左手首の腕時計の文字盤が、キラキラと光った。
「神父様。なんでもありませんわ」
ヴィはクルチュ神父に小さく会釈すると、コーヒーを淹れるために厨房に向かった。平日の15時で、昨日は祝日で忙しかったけど、その分今日は特に予定もなく、のんびりしたいい午後だった。
厨房には、お昼のあとに飲んだテュルキエ・コーヒーの残り香が、まだ芳ばしく漂っていた。普段は一日一杯と決められているが、かまうもんか。もう一杯飲んでやる。あの小煩いエキンジ司祭もいないことだし。
グラスに冷水を注ぎ、その水をジェズベにも入れる。微細な砂のようなリオ・ミナスのコーヒー粉をステンレス製ジェズベに山盛り入れて、IHクッキングヒーターの黒い天板に置く。ヒーターの電源を入れ、火力を微小にセット。セラミックガラスの上で、ジェズベがゆっくり加熱されていく。
ヴィは丸椅子をヒーターの前に置き、ちょこんと腰掛けてジェズベの水面を見つめた。数分で、透明な水がコーヒー色に変わり、ジェズベの縁から生まれた小さな気泡がちょっとずつ水面を覆っていく。コーヒーの芳醇な香りが立ち昇る。そして水面の真ん中から、泡のドームが盛り上がり始める。
ヴィはこの瞬間を待つのが好きだった。熱いコーヒーを間近にしているのに、さっきまでのうんざりする暑さがすーっと冷めていく。落ち着く。
きめ細かな茶色の泡が溢れる寸前でジェズベを持ち上げ、ヒーターを切った。カップに注ぎながら、グラスの冷水を一口、口に含む。冷たさが広がるのが気持ちよかった。それからおもむろに、コーヒーを音を立てて啜る。冷えた口内にコーヒーの熱と苦味が行き渡る。うん、美味しい。
「ヴィー!」
背後から大声で呼ばれて、ちょっとだけビクッとして振り向くと、クルチュ神父が戸口にいた。顰めっ面をしていたが、すぐに笑顔になって、
「私にも淹れておくれ」
それだけ言うと中庭のほうへ歩いて行った。
Peder。優しいお父様。
この教会で、わたしを育ててくれた父。優しすぎて偉くはなれそうにないけど。それでも大好きな父。
今から19年前、ヴィの10歳の誕生日に、クルチュ神父は教会の中庭に古くからあったKelliを綺麗に掃除し、信徒の水道業者に頼んでちゃんとした湯沸器とシャワーまで付けて、「ヴィ。おまえの家だ」と言った。
「これからは、ここで一人で暮らしなさい」
最初はびっくりして涙が出てきた。
「……お父様は?どこかに行っちゃうの?」
「私はどこにも行かないよ。今まで通り、教会の2階にいる。いつでも遊びに来ていいんだ。だけど、おまえの家はここだ」
そして、左手でヴィの頭を優しく撫でた。手首には、先日のクルチュの誕生日にヴィがプレゼントした腕時計をしていた。10歳の子どもが小遣いで買えるような安物だったが、クルチュの宝物だった。
「お聞き、ヴィ。私はおまえの本当の父親じゃない。おまえは主が授けて下さったんだよ。教会の門の前で、私が見つけるように」
つまりわたしは捨て子だったんだ。そうか……でも、お父様が見つけてくれてよかった。お父様はそれでもわたしの、本当のお父様。
ヴィはテュルキエコーヒーのカップを二つ持って、中庭のクルチュ神父のところへ行った。そして二人で木陰に座って、まろやかな午後とコーヒーを楽しんだ。
ジェイもコーヒーを飲んでいた。教会から西へ数百メートル離れた、小さなカフェのテラスで。
白い丸テーブルに黒い影が差し、烏がバサバサと舞い降りて来た。
ニシコクマルガラス。翼さを広げても70センチほどの、小柄な烏。テーブルの上に立ち、小首を傾げて、銀色の瞳でジェイを見つめる。
(ジェイ
おなか
すいた)
(ビスケット食べる?アリー)
ジェイがビスケットのかけらを掌に乗せて黒い嘴の先に差し出すと、アリーは素早く咥えてまた舞い上がって行った。
「ちょっと!だめだよ餌なんかやっちゃ」
店の奥から店主が叫んだ。ふらっと表れて、コーヒー一杯でテラスで休んでいる浮浪者みたいな男。教会のすぐ側で長年商売していると、たまにこういうのが来る。見た目で決めつけるのは良くないとはわかっているので、サービスでお菓子を出してやったのに。
ジェイは片手で返事して、欠けたビスケットを口に放り込む。それから、黒い瞳が虚になった。
脳裏に映し出される映像。カフェの上空数10メートルからの街並の俯瞰映像が、アリーの目を通して脳内に直接送られてくる。使い魔との精神リンク。インウェニ・ハリタの航空写真のような映像が、カフェから教会の方へ流れて行く。
アリーは教会の門を超え、外からは見えない中庭を見せてくれる。小さな小屋、その近くの1本の木の陰に、2人分の脚だけが見えた。神父とシスター。シスターの脚の方が長い。たぶん、さっきも木陰にいたちょっと怖い顔の女だろう。ヴェシレ・クルチュ。神父はダニエル・クルチュ。父娘だ。カトリック教会では貞潔の戒めのもと、神父は独身でなければならないはずだが、この父娘は教皇庁が特例として認めている。
(アリー。そのまま建物の裏を見せてくれ)
アリーは尖塔に1度止まり、くるりと1回転すると、教会の裏の細い路地へと降下する。教会に隣接した四階建のがっしりしたビルは、フランク王国領事館だ。周囲にマッチしたレンガ造りに不釣り合いな監視カメラが2台。警備の目が厳しくて、普通の人間は入ることができないが、小さな烏が1羽迷い込んだところで、警備員は気にも留めない。
(アリー、裏口のドアノブを見せて)
アリーは路地をトットットッ、と数歩歩き、裏口で羽ばたいてゆっくり上昇した。ドアノブがアップになる。教会の裏口は木製の扉だったが、最新の電子ロックが装備されていた。カードキーがいる。たぶん、ここら辺の建物には皆、領事館のセキュリティ対策が施されているのだろう。
(OK、アリー。ビスケットをもうひとつあげるから戻っておいで)
アリーは嬉しそうにひと声鳴くと、薄暗い路地から明るい青空へと舞い上がった。映像を切る。
侵入経路。ビスケットを割りながら考える。
明日エキンジが帰ってきたら、夜中に教会に侵入し、エキンジの寝込みを襲って"狩り"を済ませる。すぐ終わる、そう思っていたが、少し手間取りそうだ。
使命を果たすため、いつも大雑把な計画は立てるが、細部は行き当たりばったり。これまでだいたい、それで上手くやってきたし、今回もまあ何とかなるだろう。
コーヒーを飲み干した。店主が見ている。ジェイは小銭を置いて席を立つと歩き出した。アリーが降りて来て左肩に止まった。
肩に烏を乗せた長身の男の背中を、カフェの店主が見送っていた。安堵のため息をついて。
【7月24日】
朝5時。ヴィはいつも、この時間に目が覚める。ここでの生活が始まってから24年間、もう体内時計のアラームが固定されている。寝過ごしたことは一度もなかった。
ひとつしかない窓のカーテンの隙間からは、まだ朝日は差し込まない。日の出は約30分後だ。
ヴィはいつも、右向きに、胎児のように丸まった姿勢で目覚めた。ベッドに入る時は仰向けなのに、朝起きると必ずこうなっている。長い手足を縮こませて。上体を起こして無言で十字を切ってから、ようやく両手を広げて伸びをした。
ベッドから降りると、簡素な洗面台に向かう。壁にかかったシンプルな鏡を見ると、ダークブラウンの髪が、寝癖で爆発していた。
ふーっ、と小さなため息をついて、洗面台の前のトイレに腰を降ろす。
朝の祈りは7時から。早起きのおかげで、シャワーをゆっくり浴びる時間はある。
ヴィの小屋。
外観はシンプルで、15メトレカレのワンルームだが、ちゃんとシャワーもトイレもある。その分狭くてベッドの他には小さなデスクがあるだけだが、シスターの個室としては贅沢な方だ。この教会にはシスターはヴィひとりきりだし、当然と言えば当然の配慮だった。熱いお湯もちゃんと出る。
トイレを流すと、その場で裸になってシャワーを浴びた。肩にかからない長さに切り揃えたショートボブを、ゆっくり時間をかけて、丁寧に洗う。シャンプーやコンディショナーは安物だけど。
地産のオリーブ石鹸で身体を隅々まで洗う。泡まみれになるほどは使えないが、これで充分だった。
バスタオルを頭に雑に巻き、裸のままクローゼットから修道衣一式を取り出すと、それをベッドの上に放り投げ、髪をバスタオルで拭きながら、また鏡を見る。
もちろんシスターはメイクはしない。つまりヴィは、29歳にしてまだ一度もメイクというものをしたことがなかった。口紅すら。夏のアナドル高原はひどく乾燥しているので、保湿クリームだけは丁寧に塗る。これも地産オリーブオイル配合。
ヴィが身だしなみを整え終わる頃、ようやく朝日が差し込み始める。
コイフを被り、まだ少し湿り気のある髪を隙間に押し込んで、もう一度鏡を覗く。素顔のままでも、目力が強くてキリッとした顔が映っている。
昨日のお父様の顰めっ面を真似してみる。自分の顔はあまり好きじゃなかったが、この顔に産まれたんだから仕方ない。部屋を出て礼拝堂へ向かう。みんなが起きてくる前に、礼拝堂を軽く掃除しておくために。
礼拝堂の木製のベンチを乾拭きし、専用モップで身廊を一往復。床の大理石を磨いたりするのは、ミサが終わった後だ。
ヴィの掃除が終わる頃、螺旋階段の上の方から、修道士たちの足音が聞こえてきた。朝の祈りの時間。祭壇の蝋燭に火を灯し、クルチュ神父の典礼書を準備する。
礼拝堂で朝の祈りが粛々と行われていた頃、ジェイはアナドル文明博物館の駐車場に停めたレンタカーのファルトの運転席で、まだ眠っていた。この駐車場は、聖テレーザ教会正面の道路を挟んで向いにある。鬱蒼とした草木が駐車場と道路を仕切っており、教会からは車が見えない。
アナドル文明博物館は、古代ローマ時代までのこの地方の歴史の縮図が展示された、世界でも有数の考古学博物館だ。1万年前の旧石器時代に始まり、A.D.330年のコンスタンティノープル建設までの、歴史的価値のある様々な展示が、年代順に並べられている。
コンスタンティノープル。
現在までこの国、ローマ共和国の首都であり続ける、あの"聖都"。その名実ともに中心である"聖座"、別名"大宮殿"に住まうカトリック教皇庁の人々は、テュルキエ民族が大多数を占めるようになった現在でも、自分たちはローマ人であると公的に宣言している。
A.D.449年、カルケドンで開催されたあの会議を、ジェイエルは見ていた。トラキア人の"狩り"の後だった。カトリック第一の教会がコンスタンティノープルに決まり、教皇もコンスタンティノープルに引っ越してきた。
"狩り"。
いつからだったか、使命をそう呼ぶようになったのは。
ウル、バクトリア、アテネやスパルタ、ローマ、イエロソリマ。きりがない。
マラーズギルト、ビハール、アヴィニョン、アネガワ、サンクトペテルブルク、ナミビア。"狩り"、戦い、また"狩り"。
そしてベルリンに落ちた"天罰"。
もうやめようと思った。地獄の方がマシだった。
ウインドウをコンコンとノックされて、ジェイは目を覚ました。アリーだ。
iPortaの時計を見る。八時五分。メモアプリを開く。
エキンジが今日、ここに戻ってくる最速の時刻は、コンスタンティノープル空港とエセンボア空港間のフライトダイヤを考慮すると九時四十分。まだ余裕がある。朝のコーヒーには充分だ。
「アリー、教会を見てて」
ジェイは車を降りると、また昨日のカフェに歩いて行った。
「エキンジ司祭のお戻りは10時半頃とのことです」
朝の祈りが終わり、解散する前に、クルチュ神父が付け加えた。数人の修道士が返事をしたが、ヴィは黙ってクルチュ神父の表情を伺っていた。
お父様。無表情だけど、内心あまり嬉しくなさそう。そうよね。エキンジ司祭はとにかく小煩くて、いつも小言や文句ばっかり言って。今回出張行く前も、何か言い争ってたみたいだし。
ううん、言い争ってたわけじゃない。お父様は誰かと言い争ったりしない。あのジジイが一方的にお父様を怒鳴りつけていた。ここには、お父様の方が長いのに。
クソジジイ。エキシジ。陰で、エキンジ司祭をそう呼んでいた。人の粗探しをして、いつも不平不満ばかり、という意味のテュルキエ語。我ながら上手いこと言う、と独りごちていた。
「"Kusursuz dost arayan dostsuz kalır." 欠点のない友人を探す者に、友人は出来ないよ、ヴィ」
お父様はわたしの陰口を聞きつけると、テュルキエの古い格言を引用して諭してくれた。陰口は良くないっていうのはわかってる。だからそのうち、面と向かって言ってやる。あんな友人ならいない方がまし。
友人?そう呼べる相手はいなかった。学校にはちゃんと行ったが、同年代の子はみんな小さくて、わたしは飛び抜けて背が高い。教室でも他の場所でも、わたしの周りには誰もいなかった。
別にいじめられていたわけじゃない。近寄り難かったのね、わたしに。
「神父様。使徒職のため外出いたします」
「シスター・ヴェシレ。わかりました、Dualarım seninle.」
「連帯センターに寄って、家庭訪問を数軒。お昼過ぎには戻りますわ」
お父様が、わたしの手にレモンのコロンヤを振りかける。
「Allaha emanet ol.」外出の挨拶を交わすと、教会を出た。
空は今日も、青くて高い。太陽も既に高く昇り、強い陽射しが教会や他の家々の壁を白く塗り変えている。だがまだ気温は20℃くらいで、そよ風が気持ちよかった。
少し大きめの、アイボリーのキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、一人で歩き出した。トートバッグからiPortaを出す。教会の、というか教皇庁から全国の教会に、人数分支給されたiPorta。使徒職での交通費その他の経費、途中の食事まで、全部これで決済できる。今日の使徒職の予定を確認しながら、領事館の前を通り過ぎて突き当たりを右に曲がると、カフェがある。ここでアチュマを一つ買って、朝食代わりに食べながら行くつもりだった。
今朝は黒オリーブのアチュマにしよう。まだiPortaを片目に、カフェに入ろうとして、足が止まった。
テラスに、男が座っている。背中を向けているので顔は見えないが、ヴィの記憶力はとても良かった。ボサボサの頭、古臭い黒スーツ。カフェのチェアの背もたれから大きくはみ出している背中。
昨日の男。
テラスを迂回して店内に入る。ドアの上の鈴がチリン!と鳴ったが、男は振り向かなかった。
「シスター・ヴェシレ!おはようございます」
店主が挨拶した。
「おはようございます」
「今日はなんにします?アチュマ焼き上がったばかりですよ?」
「黒オリーブのアチュマをひとつ、いただきますわ」
「はいよ!黒オリーブひとつね」
店主は背後の厨房を振り返り、長めのトングでアチュマを掴むと、紙袋に入れてカウンターに置いた。ヴィがiPortaをPOSにかざし、会計を済ませる。
「毎度ありがとうございます!」
ヴィはアチュマの紙袋を掴むと、テラスに出た。あの男はまだ座っている。
また迂回してもよかったけど、テラスを真っ直ぐ突っ切った方が近い。踵を鳴らして男のすぐ後ろを歩く。狭い。
「ごめんなさい……通してくださいます?」
男はピクリともせず、返事もしない。
トートバッグが男の肩に掠った。そのまま、靴音を響かせたまま、店から、男から離れて行く。
返事もしないなんて。居眠り?顔を上げすらしなかった。失礼なやつ。
歩きながら、無意識にアチュマをかじる。
この辺じゃ見ない顔。観光客って感じでもない。昨日見た時、背が高いなとは思った。退役軍人?軍人ぽくもなかったけど。
気がつくと、もうアチュマがない。数分で、歩きながら全部食べてしまった。味もわからない。
紙袋をくしゃくしゃに潰し、目に入ったゴミ箱に通り過ぎ様に放り込む。紙袋は無情にも、縁に当たって路上に転がった。立ち止まる。あーもう!
紙袋を拾って今度はちゃんとゴミ箱に入れた。振り返ってカフェテラスを見る。
男はまだ、顔を上げない。
やっぱり寝てるのか。でもなんで気になるのかな。知らない顔だからか。わたしは一度見た顔は忘れない。
修道衣の袖で雑に口を拭った。通りすがりの観光客ぽい2人組が見ている。ヴィがそちらを見ると、2人組は慌てて踵を返し、立ち去った。急に冷静になる。
ふん。ばかみたい。あんな男に構ってやるほど、わたしはヒマじゃないんだから。ばか。ばか男。
ヴィは再び向きを変えると、本来の目的に立ち返って、数10メートル先の連帯センターに向かって歩き出した。大股で。
ジェイは寝てはいなかった。iPortaを見ていた。特別集中していたわけではない。ニュースサイトを流し見していただけだった。元々、周囲を気にかけるタイプではない。別に、警戒しなきゃならない状況でもない。
「物価高騰続く 生活を直撃」
「希望の使徒 教皇説話」
「イェニ・ハチュル、マスム港駐留続く」
目新しいニュースはなかった。"希望の使徒"というのは、マグダラのマリアのことだ。一昨日22日は、"聖マリアの祝日"だった。
物価は、2年前から上がり続けていた。
2年前の3月、第2回イェニ・ハチュルが、スヴェイシュ運河の北の玄関、マスム港に駐留してからだ。エジプトのテロ組織からスヴェイシュを防衛するため、という建前の元、軍による通行検閲が開始され、通行料金が跳ね上がって、そのままありとあらゆる物の値段に上乗せされた。
ニュースサイトを閉じて、エーミットを開く。
『大宮殿の闇』
『イェニ・ハチュルの真実』
『スヴェイシュ通行権は免罪符か?』
扇情的なサムネイルとタイトルが並ぶ。ほとんどが誇張された陰謀論だが、最近はこの手の動画の本数も再生数も増加傾向にある。
2年前。
ジェイが死んだのも2年前だった。
ジェイことジャーレ・ロルトは、2年前の5月のある雨の朝、セーメンレル・パークでランニング中に、急性心不全を起こして倒れた。すぐに救命処置が取られたが、鼓動は戻らず、6時46分、救急車のストレッチャーの上で死亡と判断された。その2分後、突如として息を吹き返し、アジルには運ばれたものの、そこから歩いて帰宅した。
ジェイ・ロルトは浮浪者ではなく、株で一発当てて早期退職した自由人だった。この日を境に、別の意味で自由になったのだ。
ジェイエルがジェイ・ロルトについて知っているのは、そのくらいだ。
堕天使が地獄から地上に来て活動するためには、死亡した直後の人間の身体を"借り受け"、その身体を"依代"として地上に"転生"しなければならない。ジェイエルは2年前に、ジェイ・ロルトを依代としたのだった。
転生したのは80年振りだった。80年前、転生していた依代が酷い目にあって死んで地獄に送還された時、もう二度と転生すまいと決めていたのに。
『―異教の民、光を知らぬ蛮族に、神の教えを説かなければならないのだ!そのためには、聖地イエロソリマを護らなければならない!悪魔の手先から‼︎』
天使に、グリゴリというグループがある。グリゴリの天命は、地上、そして人間を観察することだった。彼らは文字通り"神の目"で、地上で起こる全ての出来事を観察し、記録している。天では天使たちは、グリゴリの記録を元に人間たちを導いている。
ルシフェルの叛乱で地獄に堕とされた天使たちに、このグリゴリが数人いた。地獄でも彼らは、地上の観察と記録を続けた。他にすることが何もなかったからだった。
ジェイエルはグリゴリの記録を、地獄でずっと見ていた。教皇インノケンティウス14世の演説も。
『―スヴェイシュ運河は我が国の動脈である!その生命線を、今、光を見失った異教の者が脅かしているのだ!異教の神?いいや!それは神ではない。なぜなら、神は我々の信ずる神唯ひとりである!ならば、それは何者か?みなさんはおわかりのはずだ。そう、悪魔である!』
『我らがイェニ・ハチュルの、勇敢なる光の騎士たちよ!今こそ、神の御言葉を伝えよう!』
『神は、望んでおられる‼︎』
なぜだ。なぜまた繰り返すのか。
2年前に再び転生を決意した時、グリゴリの1人、アザズェルという堕天使が、ジェイ・ロルトの死を教えてくれた。
依代は、誰でもいいというわけではなかった。転生後も依代の身体は人間以上の何者でもない。性別は無関係だが、若過ぎたり老い過ぎた身体だと活動に支障があるし、不健康だったり疾病や障害があってもだめだ。そして、一度転生したらその身体が再び死ぬまでは、自分の意志では抜け出すことができない。
ルシフェルなどは、転生は終身刑、木偶は牢獄だと言って、決して転生しようとしなかった。ルシフェルは依代のことを木偶と言った。
「正気の沙汰とは思えん」
ルシフェルはよく言っていた。
「なぜわざわざ蟲螻に身を窶さねばならんのだ?」
ルシフェルは本気でそう思っていたし、他のほとんどの堕天使も天使もそうだった。
だから転生するなら、依代との相性はとても大事だ。それは転生してみないとわからないのだが。
ジェイ・ロルトとの相性は悪くなかった。だがこの時代の地上との相性は最悪だ。何をするにもまず金がいる。80年前もそうだったかも知れないが。
依代となる前にジェイ・ロルトが住んでいたマンションは家賃が信じられないほど高かったので、すぐに引き払った。クレジットカードとiPorta以外はそのまま置いてきたが、今は金に換えておけば良かったと後悔していた。口座の預金額は充分だと思っていたのに、減る速度がジェイエルの予想を遥かに上回っている。なにしろ物の値段が高過ぎる。
この時代で気に入ったのは、iPortaだけだった。コンピュータをポケットに入れて持ち歩けるとは。おかげで、ターゲットの事前調査がずいぶん楽になった。iPortaの回線を維持するために、身体の維持コストを減らした。寝泊まりはレンタカーが最も効率的だった。そのせいで今や外観は浮浪者だったが、仕方ない。シャワー毎日浴びてるし。なるべく。
連帯センターに着く頃には、ヴィは落ち着きを取り戻していた。入り口の前で、以前にも何度かペアを組んだ年配のシスターと会った。シスター・デフネ・カヤ。この人とは馬が合う。
「おはようございます、シスター・ヴェシレ」
「シスター・デフネ。おはようございます。お体は」
「大丈夫よ、まだちょっと、立ったり座ったりの時に痛むけど」
シスター・デフネは腰に手を添えながら笑った。前回、半月ほど前にペアを組んだ時、訪問先の家で支援物資のダンボール箱を持ち上げようとしてギックリ腰になったのだ。まだ痛むだろうに、明るいおばあちゃん。シスター・デフネは60歳でお話し上手で聞き上手。もちろんわたしもメンタルケアはできるけど、このおばあちゃんとなら、今日のわたしはナースだ。
シスター・デフネのためにドアを開けて、彼女の後からセンターに入る。
窓口で、今日訪問する家庭のファイルと、消耗品の支援物資が入った大きなダンボール箱が2つ、彼女たちを待っていた。それとレンタカーのキー。ヴィはキーを取り、シスター・デフネはファイルに目を通す。
聖務の間を縫って、18で運転免許、7.5tのトラックを運転できるCクラス免許も21で取得した。災害が起きた時、支援の役にたつと思ったからだ。今日運転するのは、たぶんいつものルノーだけど。
「一軒目はデミルさんね」
シスター・デフネがファイルを読みながら言う。
「前回は却って心配かけちゃって。私ももうお婆ちゃんね」
「今日は重い物は任せてください」
ヴィはケアパッケージを2つ重ねて持ち上げる。
「あらまあ、力持ちね。助かるわ」
2人は並んで駐車場まで歩いた。178センチのヴィの隣だと、シスター・デフネはずっと小さく見えた。
ウルスの狭くて坂だらけの旧市街地を、シスター2人を乗せたルノーが軽快に走って行く。まるで迷路のような、初見殺しの道だが、ヴィにとっては庭みたいなものだった。スピードは控えめだったが、数分でカイセル・バクシュの煩雑な住宅街に入り、デミル家に着くと、玄関前に路駐しているダキアのSUVの後ろにルノーを停めた。レンタカー。先客か。
ヴィが荷物を降ろしている間に、シスター・デフネが玄関の小さなライオンのドアノッカーを叩く。2階の窓から男が顔を出した。初めて見る顔。
同時に、簡素な木製のドアが開いた。
「シスター。どうぞ」
ドアを開けたのは見知らぬ若い軍人だった。ダキアの先客か。
「シスター!上がって?」
2階から女性の声。デミルさんのお母さんだ。
「すみません、我々は軍の殉教者事業部です。戦友のお母様にご挨拶に」
2階に上がる階段の上に、さっきの窓の男が立っていた。濃いネイビーブルーの詰襟に銀のボタン。肩や胸にはハチュルの十字架。勲章もいくつもつけている。ハチュルの礼服だ。見上げているせいもあるが、デカい。190はある。がっしりしていて、印象的な四角い顎。
「こんにちは。お邪魔しますね」
シスター・デフネが朗らかに言い、階段をゆっくり上がっていく。ヴィも続いた。
二階に上がると、すぐSofaになっており、手前に靴やサンダルが数足並んでいる。テュルキエでは一般的な家造り。だがその中で大きな黒い軍靴が目立つ。
「エモのお友だちなの」
奥の方に敷かれた布団で上体を起こして、アイシェ・デミルがいた。センターのファイルの記載では、昨日から体調が悪いらしい。傍らに、軍服姿の写真立て。エムレ・デミル少尉。2014年、フィリスティンで戦死。
「こちら、シムシェキ少佐。エモの話をしに、よく来てくれるのよ」
「ズィヤ・シムシェキです。殉教者事業課長を勤めさせていただいております。初めまして」
狭い部屋ではちょっと大き過ぎる声。
「シスター・デフネです。初めまして。こちらはシスター・ヴェシレ」
ヴィは軽く会釈だけして、デミルさんの側に跪く。殉教者か。自分たちから戦争を仕掛けておいて、戦死したら殉教者。神がお赦しになると思っているのか。それとも、自分たちが神になったつもり?傲慢にもほどがある。
「シスター・デフネ、シスター・ヴェシレ。ご苦労様です」
ヴィは返事をせず、トートバッグを置いて座った。
「アイシェ。体温測りますね」
トートバッグから非接触体温計を出し、アイシェ・ハヌムのおでこにかざす。
「平熱ですね」
「ちょっと疲れただけよ。一昨日、聖マリア様の日だったでしょ?」
「行進なさったの?」
シスター・デフネが、さも驚いた、という顔をする。ここからはメンタルケアの時間だ。2人のお喋りが始まったので、ヴィには少佐を観察する時間ができた。
短く刈り込んだ銀髪。奥まった細い目。顎の真ん中が割れていて、その横に古傷。典型的な軍人顔。写真立てをじっと見ている。眉間に皺。悲しげな顔。
「さて、我々はそろそろ」
デミルさんには、微笑みを向けた。
「アイシェおばさん。また来月も来ますね」
毎月、来ているのだろうか。
「少佐。エモが喜ぶわ。いつでもいらして……それで、スヴェイシュには行かれるの?」
「いえ、自分は行きません。招集されたら……まあ、スヴェイシュでは戦闘にはなりませんからご心配なく」
少佐は微笑みを浮かべたまま、階段の降り口で敬礼した。視線はまた写真立てに向けられていた。それから胸で十字を切ったが、その仕草は敬礼と比べると、どこか義務的に感じられた。
「よくいらっしゃるんですか?」
お喋りは続いていたが、話題は少佐のことになっていた。
「ええ。優しい方よ、見た目はあんなだけど」
陽気に笑った。
「エモとは、入隊した時から仲が良いのよ?手紙に書いてある。最近は全然寄越さないけど」
遠い目。
シスター・デフネはにっこり頷きながら、静かに聞いていた。
シスター・デフネのメンタルケアは、1時間ほど続いた。息子が手紙を寄越すことはもう2度とないのだということは言わない。ヴィは支援物資の薬や日用品、シンクの洗い物とかを片付けて、部屋を簡単に掃除した。
「Allahaısmarladık.また来ますね」
聖テレーザ教会の薔薇のカードを渡す。遺族たちにもう何枚も渡してきた、「独りではない」という思いを込めたカードだった。
次の家に向かう車内で、シスター・デフネが独り言のように呟きを漏らした。
「――いつになったら、終わるのかしら……」




