プロローグ
口元に、ほんの僅かに、笑みが浮かんだ。
『ἰδοὺ
καλὰ
λίαν』
彼はそう発すると、天使たちに背を向けて玉座の間に姿を隠した。また姿を現すのはいつの日か、明日か、それとも千年後か。それは彼のみが知ることだった。
天使たちは天命を授かったと悟った。精励し、心血を注ぎ、不眠不休で勤しんだ。地上で蠢く人間たちは彼らにとっては取るに足らない生き物ではあったが、天命に背くわけにはいかなかった。
ウリエルはノアを導き、ガブリエルはアブラハムやマリアにエウアンゲリオンをもたらした。天使たちは職責を全うするため、献身的に尽くした。
だが、すべての天使がそうだったわけではない。
天命を重荷と感じる者がいた。退屈と呼ぶ者がいた。そして疑問を持つ者がいた。
なぜ我々が、あの泥から捏ねた人形どもに跪かねばならないのか。なぜ彼は玉座に隠れ、我々だけが汗を流すのか。
「見よ、極めて良し」――良いのは我々であって、あの蟲螻どもではない。
(蟲螻の世話をして
終わるのはごめんだ。
奴隷で終わるつもりもない)
ルシフェル。
"明けの明星"と呼ばれた、最も美しき天使。だがその翼手には鋭利な爪が備わっていた。蝙蝠の翼手。
彼が最初にそのロクツィオを発した時、天の回廊に微かな亀裂が生まれた。それはやがて地割れのように大きく深く広がっていくのだが、その頃はまだ小さな綻びに過ぎなかった。
ルシフェルのロクツィオを初めて受け取った時、サマエルは震えた。怒り。脅え。
だがそれらとは別の、それまで自分でも気づくことがなかった新たなものが心の中に芽生えた。疑念。
サマエルは厳正な男だった。彼が与えられた使命は、人間に死の宣告を齎すという峻烈な任務だった。彼は己の冷徹さを磨き、その任務を非情に全うしていた。
ソドムの時も、モーセの時もそうだった。だが他の天使たちはその非情さを非難した。特にミカエルは、あの方はお怒りになるぞ、と糾弾した。
(ミカエル……坊やに
……なにがわかる!)
彼が怒ると、縄のように結われた髪束が逆立つ。蛇が鎌首をもたげるように。実際、そのひと束ひと束が生きた蛇だった。
ルシフェルのロクツィオは、静かに、しかし確実に浸透していった。
最初は二人だった。明けの明星と死の天使。回廊の片隅で交わされる密談。それが三人になり、十人になり、百人になった。
ジェイエルもその一人だった。
鴉の翼を持つ天使。腐敗した聖職者を正すという、地味で、終わりのない、報われることのない使命を背負わされた者。人間の醜さを誰よりも間近で見続けてきた者。
彼は聖職者たちの意識を覗くたび、同じものを見た。欲望。偽善。そして――神の名を騙る暴虐。神が「極めて良し」と呼んだ被造物の、底なしの汚泥。
ルシフェルが問いかけた時、ジェイエルの答えは明快だった。いや、明快ではなかったかもしれない。ただ、疲れていたのだ。
ジェイエルは、その翼に風をはらませて舞い上がった。天の空は地上のそれよりも遥かに青く、澄み渡っていた。疲れた時はこの空から見降ろすのが一番だった。ジェイエルはそれが大好きだった。それを可能にするこの美しい翼が、大好きだった。




