反逆の時
ヴァルハイト公爵邸の崩壊から数週間、帝都は表向きの平穏を取り戻したかのように見えたが、その内情は完全に刷新されつつあった。
アルベルト・フォン・ローゼンバーグは、公爵邸の最奥から回収された、禍々しい黒山羊の革で装丁された極秘日誌を、臨時の作戦本部の机の上に広げていた。彼のネイビーブルーの騎士服は新調され、その肩には帝国新生騎士団の総長としての階級章が鈍く光っている。彼の隣には、純白のドレスの袖を少し短く詰めたレイナが、いつものように音もなく佇んでいた。彼女の純銀の髪は月光を受けてプラチナの輝きを放ち、そのプラチナブルーの瞳は、日誌に書き込まれた不気味な術式配列をじっと見つめていた。
「――やはり、ヴァルハイト公爵やレオンの暴挙は、単なる一過性の狂気ではなかったということですね」
眼鏡のブリッジを静かに押し上げながら、エレナが冷徹な声を響かせた。彼女は今や帝国魔導院の最若手の執政官となり、公爵の残した膨大な魔導データの解析を一手に引き受けていた。エレナが指先で記憶水晶を起動すると、机の上に、帝国のみならず大陸全土を網羅した巨大な光の地図が浮かび上がった。
地図上の数十箇所――乾燥した砂漠の民の国、極寒の北海に浮かぶ監獄島、東方の巨大な宗教国家――そのすべての地点に、あの無人島と全く同じ「刻印の魔導首輪」の起動信号と、空間消滅陣の術式構成が記録されていた。
「『オロボロス』。自らを世界蛇と称する秘密結社。それが、このデスゲームを世界規模で主催している黒幕の正体よ」
引き裂かれた黒い夜会服から、帝国の隠密局を統べる影の指揮官へと身を転じたクリスティーナが、闇の中から音もなく進み出た。彼女の両手には、島で磨き上げられたあの冷酷な短剣が握られている。
「彼らは血筋や権力なんて興味がないの。世界中で組織的に『デスゲーム』を発生させ、極限状態に陥った人間の命の価値、つまり魔力数値を極限まで圧縮して吸い上げている。すべては、大陸そのものを一瞬で灰にするという古代の浮遊要塞『終末の檻』を再起動させるためのエネルギーとしてね。我が帝国の悲劇は、彼らにとって単なる『地方の実験場』に過ぎなかったのよ」
クリスティーナの言葉に、作戦室に重苦しい沈黙が走る。
ユリウスは折れた魔導杖を弄びながら、不敵な笑みを浮かべた。「世界中の術式をハッキングできるなんて、退屈しなくていいね。僕の干渉技術が、世界のシステムにどこまで通用するか試してあげるよ」。セリアは言葉を発せず、ただ愛用の巨大な手斧の刃を静かに研ぎ澄まし、その濁った瞳に世界規模の闇への「殺意」を漲らせていた。副官のラインハルトが、長剣を腰に差し直してアルベルトの前に片膝を突く。
「総長。すでに世界蛇の息がかかった特使が、隣国『バルジア帝国』の国境付近で大規模な『狩り場』の建設を始めているとの情報があります。これ以上の惨劇を許すわけにはいきません」
「ああ、もちろんだ」
アルベルトの翡翠色の瞳が、かつてないほど強固な決意で燃え上がった。
「俺たちは島で尊厳を奪われ、互いを貪り食う地獄を見た。あの狂ったルールで世界を支配しようとする奴らを、俺たちは絶対に許さない。世界の果てまで追い詰め、そのシステムごと叩き潰す」
アルベルトは長剣を抜き、その刃を地図の中心へと突き立てた。
「新生騎士団、並びに復讐の軍勢、これより出陣する。標的は世界蛇の第一幹部――バルジアの国境を血で染める『傀儡師』だ」
その瞬間、作戦室の重厚な窓ガラスが、内側へと激しく弾け飛んだ。
バリィィィンッ!!!
「――あはははは! 素晴らしい、素晴らしい決意だね、帝国の小さな英雄たち!」
引き裂かれた夜風と共に、天井の梁から、数十本の不可視の「魔力糸」に吊るされた不気味な操り人形が、生き物のように滑り降りてきた。人形の顔には、あのデスゲームの道化を思わせる、裂けた笑みが描かれている。
「ヴァルハイトの田舎公爵を倒したくらいで、世界の理に届いたと思っているのかな? 君たちの命の数値、すべて我が世界蛇の糧となれ!」
人形の指先が動いた瞬間、回廊の影から、衣服を剥ぎ取られ、虚ろな瞳をした数百人の「他国のデスゲームの生還者(奴隷)」たちが、獣のような咆哮を上げて突入してきた。彼らの首には、帝国のものよりも遥かに巨大で、禍々しい紫色の魔導首輪が嵌められていた。世界蛇によって精神を破壊され、戦闘人形へと改造された、悲しき犠牲者たちの軍勢。
「くっ、正気を失っているのか……! 迎撃しろ!」
ラインハルトが叫び、長剣を構える。しかし、操られた奴隷たちの動きは神速であり、その全身から放たれる魔力数値は、かつてのレオンをも凌駕する【1500】を超えていた。
その圧倒的な暴力の津波の前に、一歩前へと踏み出す影があった。
純白のドレスの裾を翻し、純銀の髪を夜風にたなびかせた少女。
レイナ。
彼女は、自分たちを肉片へと変えんばかりの勢いで迫る、数百人の戦闘人形の一斉突撃を、ただ冷徹に、そのプラチナブルーの瞳で観測していた。
ドガァアアアアンッ!!!
作戦室全体が、凄まじい大爆発と共に激しく揺れ動き、石造りの壁が次々と崩落していく。操り人形の道化が、勝利を確信して甲高い笑い声を響かせた。
「あはは! 圧殺だ! どれだけ優れた盾だろうと、この数の暴力の前には――」
「――数の暴力? それが彼女に通じないことは、あの島で証明済みだ」
崩落した瓦礫の向こうから、静かだが地を這うようなアルベルトの声が響いた。
道化の操り人形の顔が、驚愕に歪んだように見えた。
煙が吹き払われた瞬間、そこにいたのは、傷一つなく、ドレスの白ささえも汚されることなく、ただ静かに佇むレイナの姿だった。
彼女は、襲いかかる戦闘人形たちの刃を受け止めてはいない。数百人が同時に放つ突撃の「速度の差」、魔力糸が空間を引く「空気の微振動」、そのすべてを、脳内で冷徹に演算していたのだ。刃が彼女の皮膚に到達する直前、レイナはわずかに上体を斜めに傾け、流れるようなステップで敵の突撃の「軸」から自らの存在を完全に引き算していた。
それだけではない。レイナは避けると同時に、魔力糸の交差点へと自らの身体を滑り込ませていた。
戦闘人形たちが放った凶悪な一撃は、レイナが紙一重でかわした瞬間、彼女の後方で交差していた「別の操り人形の魔力糸」を容赦なく叩き切っていった。
ブチブチブチッ!!!
「な、何だと!? 僕の操り糸が、互いに切り合っている……!?」
道化の動揺の声が響く。レイナはただその場を舞うように移動しているだけ。それなのに、世界蛇が放つ絶対的な数の暴力は、すべて味方の連携を崩壊させる最悪の自滅因子へと変換されていった。
「今だ、ユリウス!」
アルベルトの声と同調するように、青年ユリウスが魔導杖を地面に叩きつけた。
「世界蛇の術式コード、書き換え完了。……バイバイ」
ユリウスの干渉により、戦闘人形たちの首輪の数値が一斉に逆流し、彼らを縛っていた魔力糸が木端微塵に爆発した。呪縛から解放された他国の奴隷たちは、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ち、深い眠りへとついた。命を奪うことなく、システムだけを無力化する圧倒的な逆転劇。
「おのれ……おのれぇええ! よくも僕の芸術を!」
梁の上の操り人形が激昂し、自ら大鎌を構えてアルベルトへと飛びかかった。
だが、その軌道の前に、すでにアルベルトの長剣が閃いていた。レイナの完全回避によって完全に動きを制限され、ユリウスのハッキングで硬直していた道化の人形は、アルベルトの電光石火の一閃によって、縦真っ二つに一刀両断された。
パァアンッ!!!
引き裂かれた人形の奥から、大量の紫黒の魔力残滓が霧となって消え去っていく。遠隔操作していた本体の精神にも、凄まじいフィードバックが届いたはずだった。
「……まずは一匹。世界蛇の尻尾を捕らえたな」
アルベルトは長剣を鞘に収め、激しい疲労感と共に、壊れた窓から差し込む本物の月光を見上げた。
彼の隣には、月光を浴びてただ一人佇んでいるレイナがいた。彼女の銀髪が、夜風の中でプリズムのように美しく輝いている。アルベルトは真っ直ぐにレイナの瞳を見つめ、そっとその右手を差し出した。
「レイナ。世界は思ったよりも広くて、そして思ったよりも歪んでいる。だが、君が俺の傍にいてくれるなら、どんな世界のルールだって覆せる」
静寂の中、レイナはアルベルトの差し出された手をじっと見つめていた。彼女の感情の消え失せていたはずのプラチナブルーの瞳に、確かな、そして温かい信頼の光が宿る。
レイナは、ゆっくりと、その華奢な右手を伸ばした。
そして、アルベルトの手を包み込むように、静かに、だが力強く握り返した。
世界のあらゆる悪意から身をかわす絶対の盾と、正義を貫く騎士。そして地獄を生き抜いた5人の戦友たちによる、世界そのものを変革するための新たなる反逆の進撃が、今、ここに幕を開けたのだった。




