自由とは
帝都の北部に位置するヴァルハイト公爵邸は、城砦とも見紛うほどの巨大な石壁と、不気味な魔導障壁によって完全に要塞化されていた。
アルベルト・フォン・ローゼンバーグは、夜の帳が下りた公爵邸の正門を見据え、腰の長剣の柄に静かに手をかけた。ネイビーブルーの制服が夜風に激しく翻る。彼の傍らには、純白のドレスの裾を夜露に濡らしながら、レイナが音もなく佇んでいた。月光を浴びた彼女の純銀の髪は、闇の中で冷徹なプリズムの輝きを放ち、そのプラチナブルーの瞳は、公爵邸を包む禍々しい因果の糸をじっと見つめていた。
「ここから先は、帝国の歴史そのものを覆す戦いだ。全員、準備はいいな」
アルベルトの低い声に応じるように、闇の中から5人の影が音もなく並び立つ。
「公爵邸の防衛陣式のコードは、すでに9割方掌握しました。いつでもいけます」
魔導アカデミーの才女エレナが、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ、手元の記憶水晶を操作する。彼女の指先が動いた瞬間、公爵邸を覆っていた不可視の魔導障壁が、ガラスが割れるような乾いた音を立てて一斉に霧散した。
「門番たちの配置は頭に入っているわ。……さあ、お茶会の時間よ」
引き裂かれた黒い夜会服を纏ったクリスティーナが、両手の短剣を妖しく交差させ、下卑た笑みを浮かべる。
「内側の自動迎撃術式は僕がすべて逆流させてあげる。彼らの自慢の玩具で、自滅してもらいましょう」
青年ユリウスが、折れた魔導杖を弄びながら不敵に微笑んだ。
セリアは言葉を発せず、ただ手にした巨大な手斧を肩に担ぎ、濁った瞳に狂気的な殺意を漲らせていた。副官のラインハルトが、長剣を正眼に構えてその先頭に立つ。
「突入――! 帝国の膿を、今ここで削ぎ落とす!」
アルベルトの怒号と共に、復讐の軍勢が正面から公爵邸へと躍り出た。
「何事だ! 侵入者か!? 迎撃しろ!」
公爵家直属の私兵団、総勢百名を超える重装歩兵が一斉に現れ、鋭い槍の林を突き出してアルベルトたちを圧殺せんとする。だが、地獄の無人島を生き抜いた彼らにとって、それはあまりにも単調で、生ぬるい暴力に過ぎなかった。
シュウウウウウッ!!!
「な、に……!? 魔法が、発動しない!?」
私兵の魔導部隊が放とうとした一斉砲撃の術式が、ユリウスの干渉によってその場で足元から爆発した。爆炎が味方の重装歩兵を巻き込み、一瞬にして前衛の陣形が瓦解する。
その混沌の隙間に、黒い影が弾丸のように滑り込んだ。クリスティーナである。彼女は血飛沫の中を舞うように移動し、短剣の正確無比な一閃で、重装兵の鎧の隙間――喉元と関節だけを容赦なく切り裂いていく。昨日まで社交界で「お人形」と笑われていた令嬢が、今や一撃必殺の死神として戦場を支配していた。
「ぎゃあああッ! 離れろ、この女、化け物か!」
恐怖に駆られた私兵たちが背後を見せた瞬間、セリアの手斧が爆音と共に叩きつけられた。重厚な盾ごと肉体を真っ二つに叩き割る圧倒的な質量。言葉を失った彼女の戦いぶりは、どのような軍隊よりも冷酷で、容赦がなかった。
「アルベルト、レイナ! ここは俺たちが食い止める! 貴様たちは奥の公爵の元へ行け!」
ラインハルトが長剣で敵の隊長格の一撃を受け止めながら、大声で叫んだ。
「頼んだ!」
アルベルトは地を蹴り、レイナと共に血煙が舞う前庭を駆け抜け、公爵邸の重厚な本館の扉を蹴り開けた。
本館の長い回廊は、静まり返っていた。壁に飾られた歴代の肖像画が、まるで二人を嘲笑うかのように見下ろしている。その回廊の突き当たり、豪奢な金装飾が施された執務室の扉が開かれ、一人の男が優雅に机の前に座っていた。
ヴァルハイト公爵。
ジュリアンの実の父親であり、帝国のすべての利権を握る国務大臣。白髪の混じった金髪を完璧に整え、深いワインレッドの礼服を纏ったその姿からは、圧倒的な支配者の威厳が漂っていた。だが、その黄金色の瞳には、実の息子を失った悲しみなど微塵もなく、ただ冷徹な計算だけが宿っていた。
「ようこそ、ローゼンバーグ副長。そして、そこに見えるのは、我が愚息の最高傑作だった『絶対の盾』か」
公爵はクリスタルのグラスを置き、静かに立ち上がった。
「ジュリアンは死んだぞ、公爵。貴様が与えたルールのせいで、自らが集めた家畜どもになぶり殺され、溶けて消えた。実の息子を実験台にし、帝国の若者たちを地獄に落とした罪、今ここで贖ってもらう」
アルベルトの長剣が、鋭い怒りと共に公爵の眉間へと向けられる。
「罪? くはは、笑わせるな、アルベルト」
公爵は低く、地を這うような声で笑った。
「あれは実験だ。血筋だけでふんぞり返る我が息子を含め、帝国の貴族どもがどれほどの『命の価値(数値)』を秘めているか、それを可視化し、一つの魔導核に収束させるためのな。ジュリアンはその役割を全うした。彼が島で集めた【5000】を超える魔力残滓は、すでにこの私が回収している」
公爵が自身の胸元に手をやると、礼服の内側から、不気味に明滅する紫黒の魔導結晶が姿を現した。それは、無人島で散っていった数百人の若者たちの、怨嗟と命の輝きを強引に結晶化させた「禁忌の魔導核」だった。
「この力があれば、私は帝国の法を超え、新たなる絶対の皇帝として君臨できる。血筋による支配を、永遠のシステムへと昇華させるのだ。まずは、その牙を剥いた反逆の首を、ここで刈り取ってやろう」
公爵の胸元の結晶が、キィィィンと耳を劈くような駆動音を立てて暴走を始めた。彼の身体から溢れ出す魔力は、息子のジュリアンのそれとは比較にならないほど濃密で、圧倒的だった。執務室の重厚な本棚が、その圧力だけで粉々に粉砕され、大気そのものが紫黒の炎となって燃え上がる。
「死ね、泥に塗れた反逆者ども!」
公爵が右手を突き出した瞬間、空間そのものを消滅させるほどの、極大の因果崩壊光線が、光速を超えてアルベルトへと放たれた。防護魔法も、物理的な装甲も、触れただけで存在そのものを抹消する、完全なる初見殺しの神の暴力。
その破滅の光の前に、滑り込むように立ちはだかる一人の影があった。
純白のドレスの裾を翻し、純銀の髪を夜風にきらめかせた少女。
レイナ。
彼女は、自分を因果の彼方へと消し去らんばかりの勢いで迫る紫黒の光線を、ただ感情の消え失せたプラチナブルーの瞳で見つめていた。
ドォオオオオオンッ!!!
公爵邸の本館全体が、凄さじい地鳴りと共に半壊し、天井が崩落して大量の瓦礫が降り注ぐ。凄まじい爆風と紫黒の煙が視界を完全に奪い去った。公爵は、勝利を確信して傲慢な笑みを浮かべた。
「ふはは! 所詮は奴隷の盾か! 私の【至高の魔導】の前には、当たるも――」
「――まだ分からないのか、公爵。君たちの独善的な暴力は、彼女には決して届かない」
煙の向こうから、冷徹極まりないアルベルトの声が響き渡った。
公爵の黄金色の瞳が、驚愕と、生まれて初めて味わう「恐怖」に大きく見開かれた。
風によって煙が吹き払われた瞬間、そこにいたのは、傷一つなく、ドレスの白ささえも汚されることなく、ただ静かに佇むレイナの姿だった。
彼女は、公爵の放った因果崩壊の光線を受け止めてはいない。公爵が右手を動かす予備動作、魔導核が脈動する「因果の歪み」と「空間の熱量変化」、そのすべてを、脳内で完璧に演算していたのだ。光線が彼女の皮膚に到達する直前、レイナはわずかに首を傾け、半歩だけ重心を移動させることで、世界のあらゆる悪意の「軸」から、自らの存在を引き算していた。光線は彼女の銀髪を一筋すら揺らすことなく通り過ぎ、背後の壁を跡形もなく消し去っていた。
「な、ぜだ……! なぜ私の神速の魔法をかわすことができる! 演算など、人間の脳でできるはずがない!」
公爵が顔を真っ赤にし、理性を失って叫ぶ。
「彼女は戦わない。ただ、世界から拒絶され、虐げられ続けた結果、あらゆる暴力から身をかわすため『だけ』にその命を研ぎ澄ませた、絶対の盾だ。貴様がどれほど巨大なシステムを築こうとも、彼女の自由を縛ることはできない」
アルベルトが地を蹴った。彼の剣は、朝陽よりも鋭く、そして正確だった。レイナの完全回避によって攻撃の軸を完全に狂わされ、自らの放った絶対的な魔法の反動で硬直していた公爵の懐へ、アルベルトの長剣が電光石火の踏み込みと共に突き刺さった。
グシャリッ!!!
「がはっ……!? 私が……この、ヴァルハイトがぁあッ!」
長剣が公爵の胸元の「禁忌の魔導核」を正確に貫き、粉々に粉砕した。結晶から溢れ出した数千の命の残滓が、光の粒子となって天井から夜空へと一気に解放されていく。それと同時に、公爵の首に刻まれていた「権力の象徴」たる魔導刻印が、キィィィンと不快な音を立てて暴走し、彼自身の肉体を限界まで締め付けた。
「あ、あああッ! 私の魔力が、私を食い尽くす……! 脳が、鎔けるぅううッ!」
特権階級の頂点から世界を操っていた国務大臣は、自らが他者を支配するために作り出した魔導のシステムの前に、最後には眼球が内圧で破裂し、ドロドロの肉の泥水へと融解して消滅した。彼が消え去った瞬間、公爵邸を包んでいた不気味な紫黒の気配は完全に霧散し、帝都の夜空に本物の美しい星々が姿を現した。
完全なる下剋上。血筋による歪んだ支配の終焉だった。
「……終わったな、レイナ」
アルベルトは長剣を鞘に収め、激しい疲労感と共に、崩壊した天井から差し込む月光を見上げた。
本館の入り口からは、前庭の私兵たちを完全に制圧したエレナやクリスティーナたち5人が、傷つきながらも確かな足取りで歩いてきた。彼らの顔には、もうかつての「操り人形」としての弱さはどこにもない。自らの手で尊厳を取り戻し、世界の中心をひっくり返した者たちの、気高い誇りが宿っていた。
アルベルトは、月光を浴びてただ一人佇んでいるレイナに近づき、そっとその右手を差し出した。
「レイナ。これで、君を縛る霧はすべて晴れた。これからは、君がどこへ行き、何をしたいか、君自身の意志で決めていいんだ」
静寂の中、レイナはアルベルトの差し出された手をじっと見つめていた。彼女のプラチナブルーの瞳に、月光のような優しい光が宿る。彼女は何も答えない。しかし、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その華奢な右手を伸ばし、アルベルトの手を包み込むように、静かに、だが確かに握り返した。
それは、彼女が初めて「世界の悪意から逃げるため」ではなく、「大切な居場所と共に生きるため」にその手を掲げた、救済の瞬間だった。
帝国の歪んだ夜は明け、少女と騎士、そして地獄を生き抜いた戦友たちの、真に自由なる新たなる時代の物語が、今、ここから始まろうとしていた。




