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世界の歪

絶え間なく吹き荒れる熱砂の暴風が、バルジア帝国国境にそびえ立つ黒岩の要塞を、まるで巨大な墓標のように包み込んでいた。

アルベルト・フォン・ローゼンバーグは、砂塵を遮る防砂外套のフードを深く被り、眼下に広がる赤茶けた大地を見下ろしていた。彼の翡翠色の瞳は、過酷な環境にあっても曇ることなく、むしろ世界蛇の拠点を捉えて鋭く研ぎ澄まされている。彼の隣には、過酷な砂漠の夜風に純白のドレスの裾を激しくなびかせながら、レイナが音もなく佇んでいた。月光と砂の乱反射を受け、彼女の純銀の髪は幻想的なプリズムの輝きを放ち、そのプラチナブルーの瞳は、要塞の周囲に張り巡らされた不可視の「熱量変化」を冷徹に観測していた。

「――この砂漠一帯に展開されているのは、ただの防衛陣ではありません。侵入者の脳に直接干渉し、脱水症状の幻覚を植え付ける『感覚泥棒』の術式です」

エレナが外套の隙間から眼鏡の位置を直し、手元の魔導書に冷徹な視線を落とした。彼女の指先が古代の文字を刻むように動いた瞬間、彼らの視界を遮っていた歪な蜃気楼が、陽炎のように一瞬で霧散した。

「幻覚が消えれば、あとはただの砂の城ね。……潜入は私たちの得意分野よ」

黒い夜会服を砂漠仕様の軽装へと変えたクリスティーナが、両手の短剣の刃を妖しく噛み合わせる。彼女の背後からは、言葉を発しないセリアが、砂の重みさえ感じさせない足取りで、巨大な手斧を構えて闇へと溶け込んでいった。

「要塞内部の魔導動力源の座標、固定したよ。いつでもそっちのシステムを狂わせてあげる」

ユリウスが不敵に微笑み、副官のラインハルトが長剣を抜いて先頭に立つ。

「新生騎士団、突入! 世界蛇の歪んだ牙を、ここでへし折る!」

アルベルトの号令と共に、彼らは砂塵の壁を突き破り、要塞の正面へと躍り出た。

「侵入者だ! 帝国の生き残りどもか! 囲め、一人も生かすな!」

要塞の防壁から、世界蛇の第一幹部「傀儡師」が育て上げた精鋭の魔導工作兵、総勢数百名が一斉に姿を現した。彼らは砂漠の環境と同化する特殊な魔導具を纏い、視認不可能な位置から、空間そのものを高熱の砂へと分解する「砂葬魔法」を一斉に放ってきた。触れた瞬間に肉体も武器も砂の粒子へと還る、回避不能の初見殺し。

だが、地獄の無人島と帝都の決戦を潜り抜けた彼らにとって、その理不尽な暴力は、すでに「演算可能な領域」に過ぎなかった。

ジジ、ジジジジッ!!!

「な、に……!? 魔法が、僕たちの足元の砂を分解している……!?」

工作兵たちが放ったはずの砂葬魔法の指向性が、ユリウスの戦術干渉によって完全に逆流し、彼らが足の拠り所にしていた黒岩の防壁をサラサラとした砂へと変えて崩壊させた。前衛の陣形が一瞬にして奈落へと崩れ落ちる。

その混沌の斜面を、クリスティーナの黒い影が神速で駆け上がった。短剣の一閃が、防護服の最も薄い関節と喉元を正確に切り裂き、血飛沫が熱砂へと吸い込まれていく。間髪入れずに、セリアの巨大な手斧が空気を引き裂く爆音と共に叩きつけられた。砂の防盾ごと肉体を圧殺する圧倒的な暴力。言葉を失った彼女の執念は、世界蛇の兵士たちに本物の「恐怖」を植え付けていた。

「アルベルト、レイナ! ここは俺たちが完全に制圧する! 貴様たちは最奥の傀儡師の首を獲れ!」

ラインハルトが長剣で敵の一斉突撃を受け止め、活路を開きながら叫んだ。

「恩にきる!」

アルベルトは地を蹴り、レイナと共に崩壊する防壁の瓦礫を飛び越え、要塞の最奥に位置する巨大な円形の間へと突入した。

円形の間の中央には、数千、数万もの人間の命の数値を集積するための、不気味な紫黒の大型魔導炉が脈動していた。その炉の前で、一人の男が細い糸のような指先を踊らせていた。

第一幹部、傀儡師。

道化のような仮面はつけていない。だが、その素顔は、体中の皮膚が不自然に引き連れ、まるで自分自身すらも糸で吊り合わされているかのような、不気味な細身の男だった。彼の黄金色の瞳には、大陸を揺るがす絶対的な強者の傲慢さと、実験への異常な執着がギラギラと輝いていた。彼の首輪に刻まれた数値は【8000】を超え、その魔力の暴風が部屋の石柱をミシミシと削り取っている。

「――やはり来たか、帝国の不確定要素ども。ヴァルハイトの田舎者が集めた魔力など、我が世界蛇の壮大な計画の『一滴の雫』に過ぎんというのに」

傀儡師の指先が微かに跳ね上がった。

「ジュリアンも、その父親も、所詮は世界の理を知らぬ操り人形。この魔導炉に蓄積された大陸数箇所のデスゲームの残滓があれば、私は空間の因果すらも組み替える『神の指先』を手に入れる。お前たちのその強固な意志も、私の糸の前では無力だと知れ」

傀儡師の胸元の結晶が、キィィィンと耳を劈くような高音を放ち、部屋全体の重力を完全に消失させた。宙に浮いた瓦礫が、すべて彼の意思に従う鋭利な質量兵器と化す。

「死ね、世界のシステムに抗う虫ケラども!」

傀儡師が両手を激しく振り下ろした瞬間、空間そのものを分子レベルで砂へと分解し、因果ごと消滅させる極大の「砂葬因果崩壊波」が、光速の領域でアルベルトへと放たれた。物理的な盾も、精神的な障壁も、触れただけでその存在の歴史ごと抹消する、完全無欠の神の暴力。

その破滅の光の前に、滑り込むように立ちはだかる一人の影があった。

過酷な熱砂の風に純白のドレスを踊らせ、純銀の髪をきらめかせた少女。

レイナ。

彼女は、自分たちの存在そのものを砂の塵へと変えんばかりの勢いで迫る紫黒の崩壊波を、ただ感情の消え失せたプラチナブルーの瞳で見つめていた。

ドォオオオオオオオンッ!!!

要塞の最奥が、凄まじい地鳴りと共に完全に半壊し、天井の巨岩が次々と落下して周囲の空間を埋め尽くした。凄まじい爆風と熱砂の煙が視界を完全に遮る。傀儡師は、絶対の勝利を確信して細い身体を激しく揺らして笑った。

「ふははは! 所詮は世界の底辺で喘いでいた奴隷の盾! 私の【至高の因果】の前には、その存在ごと砂へ――」

「――まだ理解できないのか。お前たちの独善的なシステムは、彼女の『自由』には決して届かない」

煙の向こうから、冷徹極まりないアルベルトの声が響き渡った。

傀儡師の黄金色の瞳が、驚愕と、生まれて初めて味わう「屈辱」に大きく見開かれた。

風によって熱砂の煙が吹き払われた瞬間、そこにいたのは、傷一つなく、純白のドレスの裾さえも砂で汚されることなく、ただ静かに佇むレイナの姿だった。

彼女は、傀儡師の放った砂葬因果崩壊波を受け止めてはいない。傀儡師の指先が動くわずかな予備動作、魔導炉が脈動する「因果の歪み」と「大気の分子振動」、そのすべてを、脳内で完璧に演算していたのだ。崩壊波が彼女の皮膚に到達する直前、レイナはわずかに重心を後ろへと逃がし、流れるようなステップで世界のあらゆる悪意の「軸」から、自らの存在を完全に引き算していた。崩壊波は彼女の銀髪を一筋すら揺らすことなく通り過ぎ、背後の頑強な岩壁を跡形もない砂の粒子へと変え去っていた。

「な、ぜだ……! なぜ私の神の糸をかわすことができる! 数の暴力も、因果の崩壊も、なぜ当たらんのだ!」

傀儡師が髪を振り乱し、理性を失って叫ぶ。

「彼女は戦わない。ただ、世界から拒絶され、虐げられ続けた結果、あらゆる暴力から身をかわすため『だけ』にその命を研ぎ澄ませた、絶対の盾だ。お前たちがどれほど巨大な世界規模のシステムを築こうとも、彼女の歩みを止めることはできない」

アルベルトが地を蹴った。彼の剣は、熱砂の暴風よりも鋭く、そして正確だった。レイナの完全回避によって自らの放った絶対的な魔法の反動で硬直していた傀儡師の懐へ、アルベルトの長剣が電光石火の踏み込みと共に突き刺さった。

グシャリッ!!!

「がはっ……!? 私が……世界蛇の、私がぁあッ!」

長剣が傀儡師の胸元の結晶、そして背後の大型魔導炉を正確に貫き、粉々に粉砕した。炉から溢れ出した数万の人間の命の残滓が、美しい光の粒子となって崩壊した天井から夜空へと一気に解放されていく。それと同時に、傀儡師の全身を縛っていた魔導の糸が、キィィィンと不快な音を立てて暴走し、彼自身の肉体を限界まで締め付けた。

「あ、あああッ! 私の糸が、私をバラバラに……! 脳が、鎔けるぅううッ!」

世界を裏から操っていた第一幹部は、自らが他者を縛るために作り出したシステムの前に、最後には眼球が内圧で破裂し、ドロドロの肉の泥水へと融解して消滅した。彼が消え去った瞬間、要塞を包んでいた不気味な蜃気楼と熱砂の気配は完全に霧散し、砂漠の夜空に本物の美しい満月が姿を現した。

完全なる下剋上。世界蛇の第一の拠点の終焉だった。

「……終わったな、レイナ」

アルベルトは長剣を鞘に収め、激しい疲労感と共に、崩壊した天井から差し込む月光を見上げた。

本館の入り口からは、防衛網の私兵たちを完全に制圧したエレナやクリスティーナたち5人が、砂にまみれながらも確かな足取りで歩いてきた。彼らの顔には、世界の巨大な闇を前にしても、もう怯えなど微塵もなかった。

アルベルトは、月光を浴びてただ一人佇んでいるレイナに近づき、そっとその右手を差し出した。

「レイナ。世界蛇の尻尾はもう一本切り落とした。次の戦いがどこであろうと、俺は君と共に進む」

静寂の中、レイナはアルベルトの差し出された手をじっと見つめていた。彼女のプラチナブルーの瞳に、満月のような優しい光が宿る。彼女は何も答えない。しかし、ゆっくりと、その華奢な右手を伸ばし、アルベルトの手を包み込むように、静かに、だが確かに握り返した。

世界のあらゆる悪意から身をかわす絶対の盾と、正義を貫く騎士。そして地獄を生き抜いた戦友たちの、世界そのものを変革するための新たなる反逆の旅路は、今、次なる標的へと向かって力強く進み始めるのだった。

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