ゲームクリア
巨岩の頂へと続く歪な石段を、アルベルト・フォン・ローゼンバーグは一歩ずつ、確かな足取りで踏みしめていた。
彼のネイビーブルーの騎士団制服は、レオン一派との死闘による返り血と泥で見る影もなく汚れていたが、その背中から漂う威厳と、腰の長剣を握る拳の安定感は、いささかも揺らいでいなかった。彼の首輪に刻まれた数値は【280】。レオンから分配された魔力が体内を駆け巡っているが、アルベルトはその全能感の誘惑を完全にねじ伏せ、ただ冷徹に、頂上に渦巻く不気味な紫黒の魔力へと意識を集中させていた。
「レイナ、体調は大丈夫か」
アルベルトは振り返らずに、すぐ後ろを歩む少女へと声をかけた。
レイナは相変わらず、何も答えない。引き裂かれた灰色のボロ布の隙間から、長期間の飢餓を物語る細い四肢が覗いている。しかし、夜風にプリズムのようにきらめく純銀の髪と、感情の完全に消え失せたプラチナブルーの瞳は、この世のどんな至宝よりも神聖な輝きを放っていた。彼女の数値は、初期値から減少した【80】のまま。この血塗られた無人島で、誰の命も奪わず、誰の価値も貪らずにここまで辿り着いた唯一の奇跡が、そこにあった。
石段を登り詰めた先、巨岩の頂上は、直径五十メートルほどの不気味な円形の広場になっていた。その中心には、禍々しい紫黒の光を放つ超大型の魔導陣が展開されており、空間そのものがジジ、ジジと不快な電子音を立てて軋んでいる。
そして、その魔導陣の傍らに、一台の豪華な革製のソファーが置かれていた。この不毛な無人島にはあまりにも不釣り合いな、帝都の最高級サロンで見られるような代物だ。そこに、一人の男が深く腰掛け、優雅にクリスタルのグラスを傾けていた。
「――おや、まさか本当にここまで登ってくる子たちがいるとはね。それも、家畜の群れではなく、一人の騎士と、薄汚れた奴隷の少女だなんて」
脳を直接かき混ぜるような、あの不快な高音。
男はソファーから立ち上がり、手に持っていた道化の仮面を顔から外した。露わになったその素顔に、アルベルトは鋭く息を呑んだ。
「貴様……ジュリアン・フォン・ヴァルハイト公爵令息……!」
そこにいたのは、初日に砂浜で無様に泣き叫び、絹の礼服が汚れたと喚いていたはずの、あの金髪の公爵令息だった。しかし、今の彼の顔には、当時の怯えや虚勢など微塵もない。細く繊細な指先、甘やかされて育った白い肌はそのままに、その黄金色の瞳には、底知れない、狂気的なまでの愉悦と傲慢が宿っていた。彼の首輪に表示された数値は、なんと【5000】を超え、眩いばかりの紫黒の光を放っている。
「驚いたかい? アルベルト。あはは! 初日の僕の名演技は最高だっただろう? 帝国の名門貴族たちが、プライドを剥ぎ取られて互いに髪を掴み合い、目を抉り合って溶けていく……。それを特等席で観劇するためには、少しばかり泥に塗れる役を演じる必要があったのさ」
ジュリアンは両手を広げ、狂ったように笑い声を響かせた。
「なぜこんなことをした、ジュリアン! 貴様もヴァルハイト公爵家の人間、帝国の特権階級の頂点に立つ身だろう! なぜ、同じ貴族たちを拉致し、このような地獄に落とした!」
アルベルトの剣が、怒りと共にジュリアンへと向けられる。
「同じ? 冗談を言わないでくれ、アルベルト」
ジュリアンの顔から笑みが消え、凍りつくような冷酷な声が響いた。
「僕はこの退屈な帝国が、血筋だけで全てが決まるこの社会が、反吐が出るほど嫌いだったのさ。だから、最高の舞台を作った。法も、パパもママもいない、命の価値が数値として可視化されたこの『庭』をね! 偉大なる侯爵令嬢が泥水をすすり、エリート軍人が家畜に噛み殺される! これ以上のカタルシスが、この世にあるかい?」
ジュリアンはグラスを床に投げ捨て、激しく粉砕した。
「この島に設置された消滅魔導陣は、あと数時間で起動する。ここにいる全員の数値、そして命の残滓をこの魔導陣が吸い上げ、本土の帝都へと転移させる。そうすれば、帝国の歪んだ特権階級の血筋はすべて根絶やしになり、僕が新たな世界の神となるのさ! さあ、終わりの時間を始めよう!」
ジュリアンの【5000】を超える数値が爆発的に脈動した。広場全体の重力が一瞬にして数倍へと跳ね上がり、アルベルトの膝がミシミシと軋みを上げる。
「死ね、正義の騎士!」
ジュリアンが指先を突き出した瞬間、紫黒の極大魔導光線が、光の速度でアルベルトの胸元へと放たれた。初見殺しの、回避も防御も不可能な絶対的な一撃。
その破滅の因果の前に、滑り込むように立ちはだかる一人の影があった。
引き裂かれたボロ布を羽織り、純銀の髪を夜風にたなびかせた少女。
レイナ。
彼女は、自分を分子レベルで消し去らんばかりの勢いで迫る紫黒の光線を、ただ冷徹に、そのプラチナブルーの瞳で観測していた。
ドガァアアアンッ!!!
巨岩の頂上全体が、凄まじい大爆発と共に激しく揺れ動いた。爆風が周囲の木々をなぎ倒し、立ち込める黒煙が視界を完全に遮る。ジュリアンはソファーに再び腰掛け、愉悦の笑みを浮かべた。
「あはは! 呆気ないね! どんなに足掻こうと、【5000】の出力の前には、人間なんてただの塵――」
「――それは、誰のことだ」
黒煙の向こうから、静かだが地を這うようなアルベルトの声が響いた。
ジュリアンの黄金色の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
風によって煙が吹き払われた瞬間、そこにいたのは、傷一つなく、衣服の端さえも焦がすことなく、ただ静かに佇むレイナの姿だった。
彼女は、ジュリアンの放った光線を受け止めてはいない。ジュリアンの指先が動く予備動作、魔導陣の術式が収束する「指向性」と「空間の熱量変化」、そのすべてを、脳内で冷徹に演算していたのだ。光線が彼女の皮膚に到達する直前、レイナはわずかに上体を半歩横へとスライドさせ、光線が持つ直進性の「軸」から自らの存在を完全に引き算していた。光線は彼女の髪をかすめることもなく通り過ぎ、背後の虚空へと消え去っていたのだ。
「な、ぜだ……なぜ当たらん! 術式は完全にロックしていたはずだ!」
ジュリアンが立ち上がり、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「無駄だ、ジュリアン。彼女は戦わない。ただ、世界のあらゆる悪意から身をかわすためだけに研ぎ澄まされた、絶対の盾だ。貴様のどれほど巨大な魔力も、彼女には届かない」
アルベルトは長剣を構え、一歩、また一歩とジュリアンへ近づく。
「おのれ……おのれ、奴隷の分際で、僕の芸術を邪魔するなぁあ溢ッ!」
ジュリアンが完全に理性を失い、広場全体の魔導陣を暴走させた。数千の紫黒の氷槍、火球、雷撃が、雨あられのようにレイナへと降り注ぐ。逃げ場などどこにもない、空間そのものを埋め尽くす面攻撃。
しかし、レイナの動きは、ここへ来てさらに神速の領域へと突入していった。
彼女は、降り注ぐ数千の魔法の「落下速度の差」と「衝突点」を完璧に見切っていた。氷槍の軌道をわずかなステップでかわし、それを火球の盾として衝突させて相殺させ、残る雷撃の指向性を、衣服の端をほんの少しだけ引っ張ることで、術者であるジュリアン自身へと「誘導」していった。
「ぎゃあああああッ! 僕の魔法が、なぜ僕に……!」
ジュリアンは、自分が放った強力な雷撃をその身に浴び、豪奢な金髪が焦げ、白い肌が黒く焼けただれて床へのたうち回った。レイナはただその場を流れるように移動しているだけ。それなのに、ジュリアンの放つ絶対的な暴力は、すべて彼自身の肉体を破壊する最悪の凶器へと変換されていった。
「これで終わりだ、ジュリアン」
アルベルトが地を蹴った。彼の剣は、騎士団の誰よりも速く、そして正確だった。レイナの回避によって完全に攻撃の軸を乱され、自爆して動揺していたジュリアンの胸元へ、アルベルトの長剣が電光石火の突きとなって突き刺さった。
グシャリッ!!!
「がはっ……!? 僕が……神である、僕が……!」
ジュリアンが大量の血の泡を吐きながら崩れ落ちる。彼の首輪に蓄積されていた【5000】の数値が、キィィィンと凄まじい駆動音を立てて輝き、彼自身の肉体を限界まで締め付けた。
「あ、あああッ! 数値が、吸い尽くされる……脳が、鎔けるぅううッ!」
特権階級の頂点から世界を見下していた公爵令息は、自らが作ったデスゲームのルールの前に、最後には眼球が内圧で破裂し、ドロドロの肉の泥水へと融解して消滅した。彼が消え去った瞬間、広場の中央で怪しく光っていた紫黒の魔導陣が、音を立てて完全に崩壊し、島全体の「刻印の魔導首輪」が、カシャリ、という音と共に一斉に地面へと脱落していった。
タイムリミットからの、そして地獄からの完全なる解放だった。
「……終わったな、レイナ」
アルベルトは長剣を鞘に収め、激しい疲労感と共に、東の地平線から昇り始めた本物の朝陽を見上げた。無人島を包んでいた絶望の霧が、朝の光によって静かに洗われていく。
広場の入り口からは、首輪を外され、正気を取り戻した貴族たちが、涙を流しながら登ってきた。彼らはもう、互いを家畜化することもない。ただ、生き残ったことへの深い安堵と、自らの手で掴み取った尊厳の重みを噛み締めていた。
アルベルトは、朝陽を浴びてただ一人佇んでいるレイナに近づいた。彼女の銀髪が、光の中でプリズムのように美しく輝いている。
「レイナ。君は誰の命も奪わず、誰の価値も貪らずに、この世界を救った。君は奴隷なんかじゃない。誰よりも自由で、気高い、俺たちの英雄だ」
アルベルトは真っ直ぐにレイナの瞳を見つめ、右手を差し出した。
「本土へ帰ろう。君を縛るものは、もうどこにもない。もし良ければ、これからの君の自由な旅路に、俺も同行させてくれないか」
静寂が場を支配した。朝陽の中、レイナはアルベルトの差し出された手をじっと見つめていた。彼女がこれまで生きてきた世界では、差し出される手は常に暴力を振るうためか、あるいは彼女を縛り付けるためのものだった。だが、目の前の男の手からは、明確な意志と、確かな温もりが感じられた。
レイナは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その華奢な右手を伸ばした。
そして、アルベルトの手を拒絶することなく、その温もりを包み込むように、静かに握り返した。
彼女の感情の消え失せていたはずのプラチナブルーの瞳に、ほんの僅かだけ、朝陽のような温かい光が宿った。それは、彼女が初めて自らの意志で、他者と共に「自由」へと歩み出すことを決意した、美しい救済の瞬間だった。
最悪のデスゲームは幕を閉じ、少女と騎士の、新たなる自由への物語が、今、ここから始まろうとしていた。




