黒幕の影
夜霧が完全に引き払われた無人島の中央、天を突くような巨岩がそびえ立つ広場は、今やこの島で最も濃密な死臭と魔力の残滓で満たされていた。
レオン・フォン・ガルシアは、即席で作られた岩の玉座に深く腰掛け、己の右腕に伝わる強大な魔力の波動に陶酔していた。彼の首輪に表示された数値は、すでに【800】を超えている。島全体の貴族たちの命の価値を効率的に貪り食った証であり、その身体からは、目に見えるほどの赤黒い魔力のオーラが陽炎のように立ち上っていた。190センチメートル近い巨躯、後ろに激しく掻き揚げられた赤髪、そして爬虫類を思わせる冷酷な黄金色の瞳。今の彼は、一国の軍隊すら蹂躙しかねない「暴虐の魔人」そのものだった。
「レオン様、監禁洞窟の連絡が途絶えました。おそらく、アルベルトの残党どもが動いたものかと」
側近の男が怯えながら報告する。だが、レオンは果物をナイフで切り裂き、口へ放り込みながら獰猛に笑った。
「ふん、あの生真面目だけの無能騎士が、家畜どもを連れて反旗を翻したか。身の程を知らん。家畜はどれだけ集まっても家畜だ。俺の【800】の魔力の前に、一瞬で消し飛ぶと知れ」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、広場の入り口を塞いでいた巨木が、凄まじい爆音と共に内側へと弾け飛んだ。
「――その家畜に噛み殺される準備はできているか、レオン!」
砂煙の向こうから現れたのは、長剣を正眼に構えたアルベルト・フォン・ローゼンバーグだった。彼のアッシュブラウンの髪は夜露に濡れ、翡翠色の瞳には、決して揺らぐことのない強固な意志の光が宿っている。
そしてアルベルトの背後からは、衣服をボロボロに引き裂かれ、泥と血に塗れた数十人の貴族たちが、獣のような足取りで姿を現した。彼らの手には、死体から奪い取ったナイフや手斧、折れた魔導杖が握りしめられている。昨日までお茶会で笑い合っていた彼らの顔には、高貴なプライドなど微塵も残っていない。あるのは、自分たちを蹂躙したレオン一派への、底知れない、狂気的なまでの「殺意」だけだった。
「ヒャハハ! 見ろよ、あの無様に這い出してきた家畜どもの面を! 衣服も着ずに、よくまあ俺の前に立てたものだ!」
レオンは玉座からゆっくりと立ち上がった。彼が動くだけで、周囲の空気が重圧でミシミシと軋む。
「アルベルト、お前がその無能どもを率いて何ができる? この島は強者が弱者を間引く狩り場だ。俺という絶対的な強者の前に、ひれ伏して数値となれ!」
レオンの黄金色の瞳が怪しく輝き、その全身から圧倒的な熱量が放出される。彼の手には、軍用ナイフではなく、巨大な大剣が握られていた。蓄えられた膨大な魔力が刃に収束し、不気味な赤黒い炎となって揺らめいている。
「俺たちがただの弱者かどうか、その身で確かめるがいい」
アルベルトの鋭い呟きと共に、復讐の軍勢が一斉に地を蹴った。
「殺せ! あの男の肉を削ぎ落とせ!」
「私の尊厳を返せ! 死ね、レオン!」
狂乱した令嬢や若息たちが、理性をかなぐり捨ててレオンの私兵たちへと突撃する。極限状態における下剋上の幕開けだった。刃と刃がぶつかり合い、粗暴な魔法が炸裂し、一瞬にして広場は血飛沫が舞い散る地獄絵図へと変貌した。
「失せろ、ゴミどもがぁ!」
レオンが不快そうに大剣を真横に一閃した。蓄積された【800】の魔力が放つ、圧倒的な衝撃波。並の貴族であれば、触れただけで肉体が消滅する凶悪な一撃。その破滅の軌道の前に、滑り込むように立ちはだかる一人の影があった。
引き裂かれた灰色のボロ布、月光を浴びてプリズムのように発光する純銀のストレートヘア。
レイナ。
彼女は、自分を消し去らんばかりの勢いで迫る赤黒い大剣の刃を、ただ感情の消え失せた、極薄のプラチナブルーの瞳で見つめていた。
ドォオオオンッ!!
凄まじい爆発が広場を揺らし、周囲の岩壁に無数の亀裂が入る。誰もが、銀髪の少女が跡形もなく吹き飛んだと確信した。レオンの側近たちから下卑た歓声が上がる。
しかし、立ち込める爆煙が風に流された瞬間、レオンの黄金色の瞳が驚愕に、そして怒りに見開かれた。
「……何だと……?」
レイナは、そこにいた。傷一つなく、衣服の端さえも焦がすことなく、ただ静かに佇んでいた。
彼女は大剣を受け止めてはいない。レオンが放った一撃の、極大の魔力が生み出す「指向性」と「空気の歪み」を、放たれる一瞬の予備動作から完全に演算していたのだ。大剣の刃が彼女の皮膚に到達する直前、レイナはわずかに上体を斜めに傾け、爆風の圧力を利用して、自らの身体を風に舞う木の葉のように後方へと「逃がして」いた。それは防御ではない。世界のあらゆる暴力を無効化する、絶対的な盾の技術だった。
「すばしっこいアマが……! ならば、避き切れんほどの暴力で叩き潰してやる!」
レオンが激昂し、蓄積された魔力をさらに解放した。大剣を猛然と振り回し、火柱のような連続斬撃をレイナに向けて放つ。赤黒い炎の刃が空間を埋め尽くし、逃げ場を完全に奪い去る。
だが、レイナの動きはさらに研ぎ澄まされていった。
彼女の体術には、一切の無駄な跳躍も、大振りな身のこなしもない。敵の悪意が最も集中する一点を見極め、そこから自らの存在を引き算するようにかわす。それだけではない。レイナは避けると同時に、レオンの背後にいた彼の部下たちの立ち位置を冷徹に観測していた。
レオンが放った凶悪な火柱の斬撃は、レイナが紙一重でかわした瞬間、その背後にいたレオン自身の私兵たちへと容赦なく直撃した。
ガァアアンッ!!
「ぎゃあああああああああああああーーーッ! レオン様、なぜ俺たちを!?」
「熱い、身体が溶ける、あがああッ!」
強力な身内の魔法によって、レオンの部下たちが次々と肉体を炭化させ、悲鳴を上げて崩れ落ちていく。レイナはただその場を舞うように移動しているだけ。それなのに、レオンの放つ圧倒的な暴力は、すべて味方を間引く最悪の凶器へと変換されていった。
「おのれ……おのれぇええええッ!」
レオンの理性が、恐怖と屈辱で完全に吹き飛んだ。目の前にいるのは、魔力も持たない、武器も持たない、ただの奴隷の少女のはずだ。それなのに、自分の【800】の魔力が、かすりさえもしない。
「今だ、レオンの隙を突け!」
アルベルトの声が響き渡った。レイナの回避によって完全に攻撃の軸を乱され、味方を誤射して動揺していたレオンの懐へ、アルベルトが電光石火の踏み込みを見せた。
長剣が鋭く閃き、レオンの強固な魔力オーラを切り裂いて、その太い右腕へと深く突き刺さる。
グシャリッ!
「がはっ……!? アルベルト、貴様ぁ!」
レオンが苦悶の声を上げ、大剣を落とす。右腕から大量の鮮血が噴き出し、彼の誇る無敵の全能感が、音を立てて崩壊し始めた。
その瞬間、広場全体の空気が一変した。強者として君臨していたレオンが血を流した。その事実が、囚われていた貴族たちの狂気を極限まで加速させた。
「レオンが負傷したぞ……!」
「今だ! あの男を切り刻め!」
衣服を剥ぎ取られ、泥水に塗れていた令嬢たちが、獣のような咆哮を上げてレオンに掴みかかった。一人がレオンの負傷した右腕に噛み付き、肉を引きちぎる。別の若息が、死体から奪った短剣をレオンの太ももへと何度も何度も突き立てる。
「ひぅ、あ、止めろ! 離れろ、この家畜どもがぁ!」
レオンは狂ったように暴れ、周囲の貴族たちを殴り飛ばしたが、復讐の鬼と化した彼らは、骨を折られながらも執念深くレオンの身体に縋り付き、その肉を刃で、爪で、歯で削り取っていった。
踏みつぶされ、尊厳を失った弱者たちが、絶対的な強者をなぶり殺しにする、凄惨極まりない下剋上。
「あ、がああッ! 俺は……俺は帝国のエリートだぞ! こんな、ゴミどもに……!」
レオンが地面に膝を突き、大量の血の海の中に沈んでいく。その瞬間、彼の首輪がキィィィンと不快な駆動音を立てて輝き、蓄積されていた【800】の数値が、彼に縋り付いている貴族たちの首輪へと、光の糸となって一気に分配されていった。数値を吸い尽くされたレオンの肉体は、みるみるうちに水分を失い、枯れ木のように干からびていく。
「ひ、ひぃ……助け……」
かつての暴君は、言葉にならない命乞いを残し、最後には首輪のペナルティによって、眼球が内圧で破裂し、ドロドロの肉液へと融解して消滅した。広場に残されたのは、悪臭を放つ肉の泥水と、返り血を浴びてハァハァと荒い息を吐き出す、復讐を遂げた貴族たちの姿だけだった。
「……終わったな」
アルベルトは長剣を鞘に収め、激しい疲労感と共に空を見上げた。レオンは死んだ。彼らの首輪の数値は大幅に増加し、当面のタイムリミットからは解放された。しかし、彼らの表情に歓喜はない。生き残るために互いを家畜化し、貪り食い、最後には身内をなぶり殺したという消えない狂気の傷跡が、彼らの心に深く刻まれていた。
アルベルトは、血溜まりの中にただ一人、自分の首輪を見つめているレイナに近づいた。彼女の数値は【80】のまま。この地獄の宴の中で、彼女だけが唯一、誰の数値も奪わず、誰の命も汚さずに生き残っていた。
「レイナ。君のおかげで、俺たちは人間の尊厳を……いや、生き残るための切符を手に入れた」
レイナはゆっくりと顔を上げた。彼女の硝子玉のような薄青い瞳は、血塗られた広場を等価に映していた。彼女は何も答えない。ただ、アルベルトの一歩後ろへと静かに戻り、再び世界の悪意から身をかわすための佇まいを取った。
しかし、地獄のパーティーは、まだ終わっていなかった。
『――あはははは! 素晴らしい! 最高、最高のエンターテインメントだ!』
脳を直接かき混ぜるような、あの不快な道化の高音が、広場にいる全員の頭の中に再び響き渡った。
『まさか、あのレオンが家畜どもに下剋上されて溶かされるなんてね! 予想以上のカタストルだよ! 君たちは最高だ、帝国の大層偉い、豚の子供たち!』
貴族たちが一斉に虚空を睨みつけ、武器を握り直す。
「道化め……どこに隠れている! レオンは死んだ、今すぐ私たちを本土へ帰せ!」
一人の若息が怒鳴り散らす。
『帰す? あはは、何を勘違いしているのかな? ルールは最初から言っているはずだよ。【この島を脱出できるのは、最後に生き残った1名のみ】。レオンが死んだなら、次は……君たちの番だよね?』
その言葉が響いた瞬間、広場にいた貴族たちの間で、一瞬にして冷酷な沈黙が走った。
最後に生き残るのは、1人。
今、レオンを倒すために共闘していた彼らは、次の瞬間には、互いの首輪の数値を奪い合う「敵」同士に戻ったのだ。
「あ……あ……」
一人の令嬢が、隣にいる戦友のナイフを見つめ、ゆっくりと距離を置く。誰もが互いを牽制し、狂乱の第二幕が始まろうとした、その時だった。
「――待て! 誰も動くな!」
アルベルトが地を這うような怒号を上げ、全有志を威圧した。
「道化の言葉に踊らされるな! このデスゲームのシステムそのものを破壊しなければ、俺たちに未来はない。黒幕の居場所は、すでに分かっている」
アルベルトの翡翠色の瞳が、島の中央にそびえ立つ巨岩の頂点、怪しく紫色の魔力を放ち始めた「中央転移陣」の方向を鋭く見据えた。
「レイナ、行くぞ。この狂った庭の主人を、引きずり下ろす」
レイナは言葉を返さず、ただ銀色の髪を夜風に揺らしながら、アルベルトと共に巨岩の頂へと歩み出した。最強の盾である銀髪の少女と、正気を保ち続けた騎士。最悪のデスゲームを完全に逆転させるための、真の反逆の物語が、今、最終局面へと突入しようとしていた。




