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対立

漆黒の闇が島を支配する二日目の深夜、原生林の奥深くは、帝都の夜会よりも遥かに冷酷な静寂に包まれていた。

アルベルト・フォン・ローゼンバーグは、大樹の陰に身を潜めながら、自身の呼吸の音さえも殺そうと努めていた。彼の鋭い翡翠色の瞳が、前方にある巨大な岩の裂け目――レオン一派が拠点を構える「家畜監禁洞窟」の入り口をじっと見据えている。洞窟の奥からは、松明の歪な光と共に、濁った笑い声と、肉体を嬲られる人間のくぐもった悲鳴が絶え間なく漏れ聞こえていた。

「アルベルト様、本当にやるのですね……」

背後から声を潜めて囁いたのは、彼に同行する有志の一人であり、帝都の魔導アカデミーで特待生を務めていた才女、エレナだった。彼女の高価なシルクのドレスは引き裂かれ、泥を塗ることで月光の反射を防ぐ偽装が施されていたが、その眼鏡の奥にある瞳だけは、不条理への激しい怒りで燃えていた。

「ああ。これ以上時間をかければ、あの洞窟に囚われている者たちは文字通り『出がらし』にされ、肉の泥水に変えられる。奴らにこれ以上の数値を蓄えさせるわけにはいかない」

アルベルトは腰の長剣の柄に手をかけた。彼の首輪に刻まれた数値は、生存税によって【80】にまで減少している。タイムリミットは確実に、彼らの精神を削り取りながら迫っていた。だが、彼の心に焦りはない。なぜなら、その視線の先、音もなく夜霧に溶けるように佇む「絶対の盾」がいたからだ。

レイナ。銀髪の少女は、煤けた灰色のボロ布を夜風に揺らしながら、ただ静かに洞窟を見つめていた。そのプラチナブルーの瞳には、これから始まる凄惨な戦いへの恐怖も、昂ぶりも、一切存在しない。ただ世界を冷徹に観測する硝子玉のまま、彼女はそこにいた。

「レイナ、作戦通りに頼む。俺たちが合図をしたら、まずは君が正面から突入し、敵の迎撃魔法の『指向性』をすべて引きつけてくれ。君が避ければ、奴らの攻撃はすべて自滅の凶器へと変わる」

アルベルトの言葉に、レイナは言葉を返さず、ただ銀色の睫毛をわずかに伏せることで応じた。承諾の合図だった。彼女にとって、他人のために命を張るなど、これまでの奴隷人生ではあり得ないことだった。しかし、アルベルトが自分に向けた「戦友」としての敬意、そしてその真っ直ぐな瞳の光が、彼女の閉ざされた心の一部を、僅かに動かしていた。

「よし……反撃を始めるぞ。帝国の誇りを、この地獄で証明する」

アルベルトの鋭い呟きと共に、レイナの華奢な身体が、まるで重力を失ったかのように滑らかに前方へと動き出した。

洞窟の入り口を守る二人の私兵貴族は、退屈しのぎに、昼間に仕留めた別派閥の貴族の遺品である金時計を弄びながら下卑た笑い声を上げていた。彼らの首輪の数値はすでに【200】を超え、強者の全能感に完全に酔いしれていた。

「おい、明日はどの令嬢を『搾り取る』? 侯爵家のあのアマ、泣き声が最高にそそるんだよな」

「ククク、数値が残り10ポイントになるまで追い詰めて、目の前で頭が弾け飛ぶ恐怖を味合わせてやるさ。俺たちはここでは神なんだよ」

その傲慢な言葉の途中で、夜霧の中から、ゆらりと一人の人影が現れた。

「……あ? なんだ、誰だ!」

一人が松明を掲げ、不審者を照らし出す。そこにいたのは、引き裂かれたボロ布から痛々しいほど細い四肢を覗かせた、銀髪の少女だった。

「なんだよ、昼間逃げ出したあの奴隷のアマじゃねえか! 自分で戻ってくるとは、よっぽど腹が減って俺たちの家畜になりたくなったと見えるな!」

「ヒャハハ! ちょうどいい、夜の玩具が一人増えたぜ!」

男たちは獰猛な笑みを浮かべ、腰の短剣を抜いてレイナへと突進した。だが、レイナはその場から一歩も動かず、ただ極薄の薄青い瞳で男たちの動きを観測していた。

「捕まえたァ!」

大柄な男が、レイナの細い首を掴もうと、太い腕を猛然と突き出す。その指先が彼女の皮膚に触れる寸前、レイナの頭部が、まるで最初からそこに骨が存在しなかったかのように、わずか数センチメートルだけ真横に傾いた。

「――がっ!?」

空を切った男の腕は、レイナの背後にある硬質な岩壁へと全力で激突した。激しい鈍音と共に、男の指骨が何本も砕け散り、凄惨な悲鳴が夜の静寂を切り裂く。

「この、すばしっこい小バエが……死ねぇ!」

もう一人の男が激昂し、手に魔導の炎を練り上げ、至近距離からレイナの顔面に向けて火球を放った。激しい爆炎が通路を照らす。誰もが、彼女の顔面が炭化すると思った瞬間だった。

レイナは流れるような体術で、火球の軌道から身体の軸をずらしていた。それだけではない。彼女は避けると同時に、指骨を砕いて蹲っていた最初の男の背後へと、音もなく滑り込んだのだ。放たれた火球は、レイナの残像を通り抜け、そのまま仲間である男の背中へと直撃した。

ドガァアアンッ!!

「ぎゃあああああああああああああーーーッ! 熱い、熱い! 俺の背中が、あがああッ!」

爆炎に包まれた男が、狂ったようにのたうち回り、地面の岩に身を擦り付ける。レイナは衣服の端さえも焦がすことなく、爆炎の爆風を背に、ただ静かに次の歩みを進めていた。

「化け物……化け物め! 魔法が、当たらねえ……!」

生き残った男が恐怖で顔を真っ赤にし、狂乱状態でナイフを振り回す。しかし、レイナはそのすべての刃線を、紙一重の回避で完全に無効化していく。彼女の動きには無駄な跳躍も、大振りな防御もない。ただ、敵の悪意が最も集中する一点を見極め、そこから自らの存在を「引き算」するように避ける。

「今だ! 突入しろ!」

洞窟の影から、アルベルト率いる有志たちが一斉に飛び出した。アルベルトの長剣が月光を浴びて鋭く閃き、恐怖で硬直していた男の胸元を、一撃のもとに深く貫いた。

「がはっ……お、前、たちは……」

男は血の泡を吐きながら崩れ落ちる。その瞬間、アルベルトの首輪がキィィィンと甲高い音を立てて輝き、表示された数値が【80】から【280】へと一気に跳ね上がった。

「すさまじいな……これが、他者の命の価値を貪る感覚か」

アルベルトは一瞬、脳髄を駆け巡る万能感の誘惑に眉を顰めたが、すぐに強い意志でそれを振り払った。ここでシステムに飲まれれば、レオンと同類になる。

「行くぞ。奥に捕らえられている者たちを解放する。レイナ、案内を」

レイナは血溜まりの中に佇んだまま、ただ静かに洞窟のさらに奥、闇が深くなる通路へと視線を向けた。彼女の足取りは、死地へ向かうものとは思えないほど、ただひたすらに静謐だった。

洞窟の最奥部にある広大な大空洞。そこは、人間がその尊厳を極限まで剥ぎ取られた、凄惨な家畜檻と化していた。

「ひぐっ、あ、もう、吸わないで……お父様、お母様、助けて……」

地面には、かつて帝都の夜会で華やかに笑っていた名門貴族の令嬢や若息たちが、衣服を身包み剥がされ、四肢を細い鉄鎖で繋がれた状態で転がされていた。彼らの首輪からは、周囲で酒を酌み交わしているレオンの部下たちに向けて、魔力の光が細い糸のように絶え間なく伸びている。

生贄トレード』システム。一気に数値を奪えば、首輪のペナルティで脳が弾け飛ぶか、全身が融解して死んでしまう。だからこそ、レオンたちは彼らを「生かさず殺さず」生かし続け、毎日少しずつ数値を搾り取る『魔力タンク』として扱っていたのだ。

「おいおい、このアマ、もう数値が【12】しか残ってねえぞ。明日には出がらしだな」

「ククク、じゃあ今夜のうちに限界まで使い潰して、明日溶ける姿を鑑賞しようぜ。最高のエンターテインメントだ」

男たちは、骨と皮ばかりに痩せ細り、涙と排泄物に塗れた令嬢の髪を掴み上げ、下卑た笑い声を洞窟に響かせていた。プライドを、美貌を、人間としてのすべてを徹底的に破壊され、ただの家畜へと落とされた貴族たちは、もはやまともな思考すらできず、ただ家畜のように怯え、震えることしかできなかった。

「そこまでだ、人間の皮を被った獣ども」

突如、空洞の入り口から、地を這うような重厚な声が響き渡った。

男たちが一斉に振り返る。そこには、長剣を正眼に構えたアルベルト・フォン・ローゼンバーグと、衣服を泥で汚した有志たちの姿があった。そしてその中央には、月光を反射して怪しく輝く銀髪の少女、レイナが静かに佇んでいる。

「あぁ? アルベルトの生き残りか。わざわざ俺たちの数値になりに、のこのこと歩いてくるとはな!」

「おい、あの銀髪のアマもいるぞ! 捕まえろ、レオン様への最高の貢ぎ物だ!」

空洞内にいた十数名の私兵貴族たちが、一斉に武器を構え、あるいは手から凶悪な魔導の光を放ちながら襲いかかってきた。

「レイナ!」

アルベルトの叫びと同時に、レイナが前線へと躍り出た。

「死ね、奴隷がぁ!」

先頭の巨漢が、棘のついた鉄球モーニングスターを猛然と振り下ろす。岩をも砕く一撃。だが、レイナは動かない。鉄球が彼女の脳頭を捉えるその直前、彼女はわずかに右足を半歩後ろに引いた。それだけで、鉄球の軌道は彼女の鼻先を1ミリの狂いもなく通り過ぎ、地面の岩肌へと深く突き刺さって激しい火花を散らした。

「なっ……!?」

男が驚愕し、武器を引き抜こうとした瞬間、レイナはその男の身体の影に滑り込むように移動した。彼女は攻撃をしていない。ただ、男の立ち位置を自らの盾にするように移動したのだ。

「おい、邪魔だ、どけ!」

後方にいた魔導士の貴族が、レイナに向けて複数の風刃ウィンドカッターを放っていた。見えない空気の刃が、空間を切り裂いて飛ぶ。しかし、レイナが最初の男の背後に完全に入り込んだため、その風刃は、そのまま鉄球を持った男の太い首筋へと直撃した。

ドシュッ!!

「がはっ……!? おま、え、何を……」

鉄球の男の首が半分以上切り裂かれ、大量の鮮血が噴水のように吹き出す。男は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。

「仲間を盾にしやがった……!? 違う、あの女、避けただけだ!」

「化け物め、一斉に魔法を叩き込め! 逃げ場をなくせ!」

狂乱した貴族たちが、火球、氷槍、雷撃の魔法を同時にレイナに向けて放った。空洞全体が眩い魔導の光で満たされ、爆音と共に激しい煙が立ち込める。いかに絶対の回避能力を持とうとも、空間全体を埋め尽くす面攻撃からは逃れられない――誰もがそう確信した。

しかし、煙の向こうから現れたレイナの姿は、傷一つついていなかった。

彼女は、放たれた複数の魔法の「衝突点」と「速度差」を完全に演算していた。氷槍の軌道をわずかなステップでかわし、それを火球の盾として衝突させて相殺させ、残る雷撃の指向性を、衣服の端を少しだけ引っ張ることで別の敵へと誘導していたのだ。

「ぎゃあああああッ! 雷が、俺に……!」

「氷の槍が刺さった!? なぜだ、なぜ当たらねえ!」

レイナがただその場を舞うように移動するだけで、敵の放った強力な魔法は互いに衝突し、あるいは味方を巻き込み、空洞内は一瞬にして自滅の地獄絵図へと変貌していった。彼女は一切の武器を持たず、魔力も放出していない。ただ防衛し、避けているだけ。それなのに、彼女に襲いかかった者は、自らの悪意によって自滅していく。

「今だ、無能どもを切り伏せろ!」

アルベルトが地を蹴った。彼の剣は精密かつ無慈悲だった。レイナの 回避によって完全に陣形を崩し、パニックに陥っていたレオンの部下たちを、次々と一撃のもとに屠っていく。

「がはっ!」

「ひぃ、助け……!」

アルベルトと有志たちの猛攻により、十数名いた敵は瞬く間に血の海へと沈んでいった。彼らが絶命するたび、アルベルトたちの首輪の数値が激しく跳ね上がり、洞窟内に魔力の駆動音が不気味に響き渡る。

「……終わったか」

アルベルトは長剣についた血を払い、息を整えた。周囲には、レオンの部下たちの新鮮な死体が転がっている。

そして、その惨劇の中心で、囚われていた家畜たちの時間が、静かに動き始めた。

「あ……あ、あ……」

鉄鎖に繋がれたまま、呆然とアルベルトたちを見上げていた令嬢の一人が、信じられないものを見るかのように、その割れた唇を震わせた。

「私たちは……助かったの……?」

「ああ、もう大丈夫だ」

アルベルトは歩み寄り、長剣の刃で彼女たちを縛っていた鉄鎖を次々と断ち切っていった。

「衣服を着ろ。そして、立てる者は武器を取れ。お前たちをここまで蹂躙したレオンは、まだ生きている。この島で生き残るためには、奪われた尊厳を、自らの手で取り戻すしかない」

その言葉は、絶望の底で完全に死んでいた貴族たちの心に、一筋の、しかし猛烈な「復讐」の炎を点火させた。

「レオン……ガルシア……」

一人の若息が、四肢の痛みに耐えながら、死んだ私兵のナイフを血塗られた手で拾い上げた。彼の瞳からは、先ほどまでの怯えが消え失せ、底知れない憎悪の光が宿っていた。

「あの男は……私たちを家畜と呼んだ。お茶会で笑い合っていた私たちを、泥水につけて、いたぶり殺した……!」

「許さない……絶対に、許さない……!」

ドレスの破片を身に纏った令嬢たちも、這いつくばりながら死体の武器を手に取り、その刃を凝視した。昨日までお茶会で贅沢な菓子を突き合っていた手で、今、彼らは明確な殺意を握りしめていた。

極限状態における「社会的逆転(下剋上)」。

踏みにじられた弱者が、自らの意志で「狩る者」へと変貌していく狂気の連鎖が、ここに完成しつつあった。

アルベルトは、その復讐の熱気で満たされる空洞の片隅で、ただ一人、自分の首輪を見つめているレイナに近づいた。

「レイナ、君のおかげだ。君がいなければ、この救出は不可能だった」

レイナはゆっくりと顔を上げた。彼女の薄青い瞳は、武器を手にして立ち上がる貴族たちの狂気を映していたが、やはりそこには何の感情の波もない。ただ、自分の首輪の数値が【80】のままであることを確認すると、静かにアルベルトの一歩後ろへと戻った。

「行くぞ。レオンの本陣へ。この地獄のパーティーを、今度こそ終わらせる」

アルベルトの先導のもと、復讐の鬼と化した数十人の貴族たち、そして絶対の盾である銀髪の少女は、レオンが待つ島の中央、最後の決戦の地へと向かって、闇の中を突き進み始めた。

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