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デスゲーム開幕

耳障りな波の音が、頭蓋骨の奥を一定の周期で殴りつけていた。

ジュリアン・フォン・ヴァルハイト公爵令息は、不快感に眉を顰めながら顔を上げた。つい数時間前まで、彼は帝都でも最高級のサロンで、ヴィンテージの魔導ワインを傾けていたはずだった。豪奢な水晶のシャンデリアが放つ光、香水を漂わせた令嬢たちの嬌声、耳をくすぐるバイオリンの調べ。それらすべてが、まるで蜃気楼のように消え失せている。口の中に広がるのは、不快極まりない砂の味と、生臭い潮の香りだった。

「な、んだ、これは。私の、私の絹の礼服が……!」

視界がはっきりと焦点を結んだ瞬間、ジュリアンは悲鳴に近い声を上げた。最高級の魔獣シルクで仕立てられた純白の夜会服は、海水と泥に塗れ、無惨に汚れ果てていた。ジュリアン自身、公爵家特有の細く繊細な指先と、甘やかされて育った白い肌、指示通り丁寧に整えられていた艶やかな金髪を持っていたが、今の彼の姿はただの水浸しのネズミと変わらなかった。

立ち上がろうとして、周囲を見渡す。そこは、見たこともない広大な砂浜だった。鬱蒼と茂る、毒々しい紫や黒の葉をつけた不気味な原生林が背後に迫り、目の前にはどこまでも広がる昏い海。そして何より異常なのは、その砂浜に、自分と同じように着飾った男女が、ゴミのように転がっていることだった。

「ひっ……! 嫌、来ないで!」

「ここはどこだ! 誰か、誰かおらぬか!」

「お父様! お母様! 助けて……!」

次々と意識を取り戻した貴族たちが、己の置かれた状況を理解できず、無様に叫びの声を上げ始める。総勢、ちょうど100名。いずれも帝国の政財界を牛耳る名門貴族の若息や、蝶よ花よと育てられた高貴な令嬢たちだった。露出した白い肩や、豪華な刺繍の施されたドレスが、湿った砂に汚されていく。

「静かにしろ! 見苦しいぞ、お前たち!」

狂乱の渦と化した砂浜に、地を這うような鋭い怒号が響いた。声を上げたのは、帝国軍の若き精鋭であり、伯爵家の嫡男でもあるレオン・フォン・ガルシアだった。彼は190センチメートル近い圧倒的な巨躯を誇り、衣服が泥に汚れながらも、その存在感だけで周囲を圧倒していた。後ろに激しく掻き揚げられたウルフカットの赤髪は、まるで燻る炎のようであり、細められた黄金色の瞳は、爬虫類を思わせる冷酷な光を放っている。胸元の開いた上質な黒い魔導軍服からは、鋼のように鍛え上げられた厚い胸板が覗いていた。

「レ、レオン様……! これは一体どういうことなのですか!?」

一人の令嬢が涙を流し、化粧の崩れた顔でレオンに縋り付く。

「分からん。だが、これだけの数の上級貴族が一時に消えたのだ。帝国の近衛騎士団が黙って……」

レオンが言葉を紡ぎかけた、その時だった。

『――あー、あー。聞こえるかな? 帝国の大層偉い、豚の子供たち』

脳を直接かき混ぜられるような、不快な高音が全員の頭の中に響き渡った。声の主は、低俗な道化のようでありながら、底知れない悪意を孕んだ男のものだった。

「だ、誰だ! 姿を現せ!」

ジュリアンが公爵家としての虚勢を張り、震える声で虚空に怒鳴る。

『姿を見せる必要はないよ。君たちはただ、僕の用意した『庭』で、最高のエンターテインメントを提供してくれればいい。……そう、これから君たちには、楽しい楽しい【生存競争バトルロワイヤル】をしてもらう』

「バトル、ロワイヤル……? 何を馬鹿なことを!」

「私たちは帝国の貴族だぞ! 命が惜しくば今すぐ解放し――」

『あはは! 貴族? だから何? ここには法もなければ、君たちのパパもママもいない。ルールはただ一つ。【この島を脱出できるのは、最後に生き残った1名のみ】』

砂浜が、水を打ったように静まり返る。最後に、生き残った、1人。その言葉の意味が、甘やかされて育った彼らの脳にすぐには染み込んでいかない。

『親切な僕から、ルールとギミックの説明だ。君たちの首を見てごらん』

言われるがまま、ジュリアンが自分の首に手を触れる。冷たい。いつの間にか、鈍い黒光りを放つ金属製の首輪が、皮膚に隙間なく嵌め込まれていた。幅の広い不気味な首輪の側面には、鈍い緑色の光で数字が浮かび上がっている。

『それは【刻印の魔導首輪】。そこに君たちの初期値として【100】の魔力量……つまり、命の価値が刻まれている。この島でのタイムリミットはちょうど1週間。168時間だ』

道化の声が、愉悦に震える。

『この首輪はね、1時間ごとに生存税として数値を『1』ずつ強制吸収する。もし、他者から数値を奪わずに100時間が経過し、数値が『0』になった瞬間……どうなると思う?』

「な、何が、起きるというのだ……」

『百聞は一見に如かず、だね。ちょうどいいサンプルがいる。ほら、そこの隅っこで、僕の声を無視して魔法で首輪を外そうとしている、愚かな子爵家のお坊ちゃん』

全員の視線が、砂浜の端にいた青年に集まった。彼は必死に顔を真っ赤にしながら、首輪に手を当て、手から炎の魔力を放っていた。首輪を焼き切ろうとしているのだ。青年の指先から赤い火花が散る。

「あ、あ、熱い!? 魔法が、止ら、な……あが、あああああッ!?」

突如、青年の首輪が赤黒く発光した。次の瞬間、ドンッという、肉が内側から破裂する鈍い音が砂浜に響き渡った。

「いやああああああああああああああああーーーッ!!」

悲鳴が島を揺らし、木々に止まっていた異形の鳥たちが一斉に飛び立つ。青年の頭部が、熟しすぎた果実のように跡形もなく弾け飛んだのだ。首から上を失った肉体が、ドクドクと鮮血の噴水を撒き散らしながら、目の前の白い砂浜にドサリと倒れ込む。白い砂が、またたく間に赤黒い泥へと染まっていく。

「ひ、ひいいっ! ああ、あああ!」

さっきまで生きていた人間の無惨な肉塊を前に、令嬢たちは嘔吐し、失禁し、這いつくばって逃げ惑った。高級なドレスの裾が、飛び散った血と内臓の破片で汚れていく。

『あはははは! 傑作だ! 外部からの干渉や、数値が『0』になった時のペナルティはこれだよ! 脳みそが弾け飛ぶか、全身がドロドドに溶けるか、ね!』

道化の声は、狂気に満ちていた。

『数値を増やす方法は二つ。一つは、動かなくなった死体から首輪を通じて全ての数値を奪うこと。そしてもう一つは……『生贄トレード』システムだ。相手を拘束し、首輪を接触させて合意、または強制抽出を行えば、死なないギリギリまで数値を搾り取ることができる。生かすも殺すも、いたぶるのも、君たちの自由だ!』

首輪の数値は、他人の命そのもの。他者を奪わなければ、100時間後には確実に全員の頭が吹き飛ぶ。

『なお、1週間後には、この無人島に設置した超大型の消滅魔導陣が起動する。島は塵一つ残さず消滅する。生き残った1人だけが、中央の転移陣から本土へ帰れる。……さあ、地獄のパーティーを始めよう!』

プツン、と頭の中の接続が切れた。後に残されたのは、波の音と、一人の男の新鮮な死体。そして、絶望に支配された99人の貴族たちだった。

「嫌だ……嫌だ……! 私は公爵家の人間だぞ! なぜこんな目に……!」

ジュリアンは砂に頭を擦り付け、ぶるぶると震えていた。周囲の貴族たちも同様だった。誰もが互いを牽制し、あるいは怯え、狂乱の一歩手前で硬直している。

だが、その沈黙を破ったのは、やはり赤髪の巨漢、レオン・フォン・ガルシアだった。彼は無惨な死体を一瞥すると、ふっと獰猛な笑みを浮かべ、腰に帯びていた黒塗りの軍用ナイフを引き抜いた。拉致された際、大半の貴族は武器の類をすべて奪われていたが、彼のような一握りの軍事貴族だけは、身体に隠し持っていた刃物があった。

「レ、レオン様……? そのナイフをどうするのですか……?」

取り巻きの男が、怯えながら尋ねる。

「決まっているだろう。あの道化の言葉が真実なら、ここにいる者は全員が敵だ」

レオンの黄金色の瞳は、すでに完全に獲物を定める捕食者のそれに変わっていた。

「ま、待て! 殺し合いなど狂っている! 協力して脱出する方法を――」

「黙れ、無能が」

レオンは、命乞いをするように手を挙げた別の貴族の胸元を、一歩で踏み込んで正確に突き刺した。分厚い肉を切り裂く嫌な音が響く。

「がはっ……!? れ、れお……」

「お前ような魔法も使えない、ただの血筋だけの無能から死んでいくんだ。この島はな、俺たちのような強者が、お前たち無能を間引くために用意された最高の狩り場だ」

レオンがナイフを無慈悲に引き抜くと、男は血の泡を吐きながら倒れた。その瞬間、レオンの首輪がキィィィンと高い音を立てて輝く。首輪の側面に表示された魔力数値が、【99】から一気に【198】へと跳ね上がった。

「なるほど……本当に数値が奪える。素晴らしいな。これで俺の寿命はあと198時間に延びたわけだ」

レオンは血塗られたナイフを掲げ、自身の派閥の者たちや、戦闘技術を持つ数人の貴族を見据えた。

「おい、お前たち。生き残りたくば俺に続け。この島にいる無能どもを片端から捕らえ、数値を搾り取る家畜にする。逆らう者はその場で殺せ!」

「お、おお……!」

「レオン様に続け!」

恐怖は、やがて生存への熱狂へと変わる。レオンの冷徹な決意が引き金となり、砂浜は一瞬にして「狩る者」と「狩られる者」の戦場へと変貌した。悲鳴が上がり、粗末な魔法の炎が炸裂し、血が飛び散る。昨日までお茶会で笑い合っていた者たちが、生き残るために互いの髪を掴み合い、目を抉り合おうとする地獄の幕開けだった。

その血煙と狂乱が渦巻く砂浜の片隅で。周囲の喧騒から完全に孤立した、一つの異質が存在していた。

「おい、見ろ……あそこに誰かいるぞ」

レオンの手下となった粗暴な貴族二人が、原生林の境界近くに佇む人影を見つけた。

「なんだ、あの格好は……? 貴族じゃねえな」

そこにいたのは、一人の少女だった。年齢は16、7歳といったところか。特筆すべきは、彼女の身に纏っている衣服だった。貴族たちの豪奢なドレスや礼服とはあまりにもかけ離れた、泥と埃に塗れた、灰色の目の粗いボロ布。引き裂かれ、あちこちから煤けた肌が覗いている。体躯は華奢というよりは、長期間の飢餓と劣悪な環境を思わせる、痛々しいほど細い手首と四肢をしていた。

しかし、そのボロ布の間からこぼれ落ちる髪は、陽光を浴びてプリズムのようにわずかに発光する、神秘的な純銀のストレートヘアだった。少女の名は、レイナ。

彼女は、自分の首に嵌められた黒い首輪を、感情の完全に消えた、極薄のプラチナブルーの瞳で見つめていた。まるで硝子玉のようなその瞳は、周囲で人間が切り刻まれ、悲鳴を上げているというのに、恐怖も、怒りも、哀しみすらも映していなかった。

「おい、奴隷風情がなぜここに混ざってやがる」

ナイフを持った貴族の男が、下卑た笑みを浮かべてレイナに近づく。

「ま、いいさ。こいつの首輪にも【100】の数値があるんだろ? 奴隷のくせに俺たちの命を延ばす役に立てるんだ、光栄に思えよ」

「おいおい、殺す前にちょっと遊ばせろよ。顔は悪くない、いや、むしろ極上だぜ? あの銀髪、本土の奴隷市場ならいくらになるか……」

男たちは、レイナを完全に無抵抗な獲物として定め、品定めするように視線でその身体を舐め回した。レイナは何も答えない。ただ静かに、その薄青い瞳で男たちを見つめ返している。

「おい、怯えて声も出ねえのか? 痛くしてやるから、泣き叫べよ!」

男の一人が、猛然とレイナに掴みかかった。太い腕が、彼女の細い肩をへし折らんばかりの勢いで伸びる。勝負は一瞬で決まる、誰もがそう思った。

しかし、レイナの身体が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、ゆらり、と真横に揺れた。

「……あ?」

男の腕は、虚空を掴んだ。前のめりにバランスを崩した男の横を、レイナは文字通りすれ違うようにして、一歩だけ足の位置を変えていた。その動きには、一切の予備動作も、風を切る音すらなかった。

「な、んだと……!? 待ちやがれ!」

もう一人の男が、怒りで顔を真っ赤にしながらナイフを横一文字に振るう。容赦のない、首筋を狙った一撃。だが、レイナは首をわずか数センチ後ろに傾けただけで、刃を完全に紙一重でかわした。それどころか、流れるようなステップで男の懐を通り抜け、すでに数歩離れた場所に静かに佇んでいる。銀色の髪が、彼女の動きに合わせて美しく揺れた。

「この、すばしっこいアマが……! 魔法で焼き殺してやる!」

男が激昂し、手に魔導の火球を練り上げる。だが、レイナはその様子をただ冷徹に観測すると、言葉もなく踵を返し、鬱蒼とした原生林の中へと、吸い込まれるように走り出した。

「追え! 逃がすな! 奴隷の分際で舐めやがって!」

男たちが魔法を放ちながら林へ飛び込む。しかし、密林に入った瞬間、レイナの気配は完全に消えた。木の根や茂みに足を取られる貴族たちを嘲笑うかのように、彼女は音もなく、木々の隙間を縫って姿を消してしまった。それは、戦うための強さではない。ただひたすらに、世界のあらゆる悪意から身をかわすためだけに研ぎ澄まれた、圧倒的な防衛の技術だった。

開始からわずか数時間。太陽が中天に差し掛かる頃には、砂浜の掃除は概ね完了していた。死体から数値を奪い尽くし、強力な私兵集団を形成したレオンの一派は、島で最も安全で水源に近い洞窟を占拠していた。そこは今や、この世のものとは思えない階級社会の地獄と化していた。

「ひぐっ、あ、お許し、お許しください……!」

洞窟の地面には、衣服を身包み剥がされ、泥に塗れた数名の令嬢たちが、犬のように四肢を縛られて転がされていた。彼女たちの首輪からは、レオンの部下たちに向けて、絶え間なく魔力の光が細い糸のように伸びている。『生贄トレード』システムによる強制抽出。一気に数値を奪えば死んでしまう。だからこそ、レオンたちは彼女たちを「生かさず殺さず」監禁し、毎日少しずつ数値を搾り取る『家畜』として扱うことにしたのだ。

「あはは! 昨日まで俺のことを見下していた侯爵令嬢が、今じゃ泥水をすすって命乞いか!」

「いいな、このシステム。夜の相手をさせながら、少しずつ数値を吸い取る。これ以上の快楽はねえぜ」

男たちは、泣き叫ぶ令嬢たちの身体を玩具のように扱いながら、下卑た笑い声を洞窟に響かせる。プライドを、尊厳を、肉体を徹底的に破壊され、ただの魔力タンクへと落とされる。

無人島の夜は、帝都のそれのように優しくはない。明かり一つない漆黒の闇の中、原生林からは正体不明の魔獣の咆哮が聞こえ、波の音はまるで死者の呪詛のように重く響いていた。レオン一派が占拠する洞窟の奥では、数本の松明が揺らめき、壁に巨大で歪な影を落としている。そこは、昼間よりもさらに凄惨な肉の処理場と化していた。

「あ、がああッ! お願い、です、もう、魔力を吸わないで……! 脳が、脳が、鎔けるぅ……ッ!!」

狂ったような悲鳴を上げているのは、昨夜まで帝都で「社交界の真珠」と称えられていた侯爵令嬢だった。彼女は今、全裸で地面に四つん這いにされ、レオンの部下である大柄な男に髪を掴まれて引きずり回されていた。

彼女の首輪は赤黒く脈動し、男の首輪へと光の供給線を伸ばしている。魔力を限界まで絞り取られた人間の肉体は、激しい飢餓感と強烈な偏頭痛、そして全身の細胞が壊死していくような激痛に襲われる。彼女の美しい白肌は、水分を失った枯れ木のようにどす黒く変色し始め、爪からは血が滲んでいた。

「おいおい、もう限界か? 初期値の【100】から、すでに【85】も吸い上げちまったからな。あと数ポイントで脳みそが弾け飛ぶぞ?」

男は下卑た笑いを浮かべ、令嬢の頬を容赦なく踏みつけた。ぐしゃり、と鼻骨が折れる音が洞窟に響く。

「ひぅ、あ、あ……」

令嬢はもはや言葉を紡ぐこともできず、ただ涙と鼻水、そして血に塗れた顔で床を舐めていた。

「レオン様、こいつはもう『出がらし』です。これ以上吸うと死んじまう。どうします?」

奥の岩座に座るレオンは、冷酷な黄金色の瞳でその光景を見下し、果物を齧りながら退屈そうに指を鳴らした。

「殺せ。死体になれば、残りの数値もすべて回収できる。生かしておく割に合わん」

「御意」

男は邪悪に口元を歪めると、令嬢の細い首を両手で掴んだ。

「いや、いやぁ……!」

最後の力を振り絞って抵抗する令嬢の顔面に、男は容赦なく拳を叩き込み、その意識を奪うと、そのまま首輪同士を強く押し当てた。キィィィンという不快な電子音が響き、令嬢の数値が【0】になる。

次の瞬間、彼女の身体が激しく痙攣した。

「あ、が……ば、が……ッ!」

首輪のペナルティが起動する。彼女の皮膚の下を、無数の黒いミミズのような血管が開花するように這い回り、両の眼球が圧力で外側へと飛び出した。核心的にブツンッという嫌な音と共に、彼女の全身の毛穴からドロドロに融解した内臓の肉液が噴出し、肉体が中から崩壊していく。かつての「真珠」は、わずか数十秒で、悪臭を放つ肉の泥水へと変わり果てた。

「ヒャハハ! 相変わらずエグい溶け方すんなぁ!」

男たちはその様子を観劇のようにもてはやし、ゲラゲラと笑い声を上げる。周囲に囚われている他の貴族や令嬢たちは、明日は我が身という極限の恐怖に、ただ歯をガチガチと鳴らして排泄物を垂れ流すことしかできなかった。人間の尊厳など、この島では1時間ごとに消費される数値以下の価値しかなかった。

同じ頃、レオンの命令によって森へ入った臨時のネズミ狩り部隊の三人組は、苛立ちを募らせていた。

「糞が、あの銀髪の奴隷、どこへ消えやがった」

「あんなボロ布を着た女一人、見つけられないはずが――」

その時、木々の隙間から、月光を浴びて妖しく輝く銀糸が見えた。

「――いたぞ!」

三人は色めき立ち、武器を構えて突撃した。レイナは、夜の静寂の中に静かに佇んでいた。相変わらずその瞳には何の感情もなく、追っ手が迫っているというのに構えを取る様子すらない。

「捕まえたぜ、生意気なアマがァ!」

先頭の男が、手斧を振り下ろす。容赦のない、脳天を叩き割る一撃。だが、レイナは動かない。刃が彼女の額を捉える、その直前、レイナはわずかに右足を半歩後ろに引いた。それだけで、斧の軌道は彼女の鼻先を1ミリの狂いもなく通り過ぎ、地面の硬い木の根へと深く突き刺さった。

「なっ……!?」

男が驚愕し、武器を引き抜こうとした瞬間、レイナはその男の肩の位置へ、吸い込まれるように一歩踏み込んだ。彼女は攻撃をしていない。ただ、男の身体の影に身を隠すように移動したのだ。

「おい、どこを見てやがる! 後ろだ!」

後方にいた第二の男が、レイナに向けて強力な風刃ウィンドカッターの魔法を放った。見えない空気の刃が、夜の闇を切り裂いて飛ぶ。しかし、レイナが最初の男の背後に滑り込んだため、その風刃は、そのまま手斧を持った男の首筋へと直撃した。

ドシュッ!!

「がはっ……!? あ、おま、え……」

手斧の男の首が半分以上切り裂かれ、ドクドクと大量の鮮血がレイナのボロ布を赤く染める。男は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。

「な、んだと!? 仲間を盾にしやがった!」

「違う、あの女、避けただけだ……!」

二人の男が恐怖と混乱で顔を歪める。レイナは血の海の中で、ただ静かに佇んでいる。彼女は男を突き飛ばしてもいなければ、触れてもいない。ただ、飛んできた攻撃の軌道上に、別の敵が位置するように避けただけだった。

「化け物め、死ねぇ!」

魔法を放った男が、狂乱状態でナイフを突き出す。レイナは再び、流れるような体術でそれをかわした。今度は、男の突進の力を利用するように、すれ違いざまに彼の衣服の端をほんの少しだけ引っ張る。バランスを完全に崩した男は、そのまま勢いよく前方へ突っ込んだ。そこには、この島の肉食魔獣、毒棘蜘蛛タランチュラの巨大な巣があった。

「あ、ぎゃああああああああああーーーッ!!」

闇の中から現れた、馬ほどもある巨大な蜘蛛が、男の顔面に無数の毒棘を突き刺した。男の顔面は瞬く間に紫色の水ぶくれで膨れ上がり、ドロドロに溶けながら悲鳴を上げてのたうち回る。

「ひ、ひぃぃ……!」

生き残った最後の男は、腰を抜かして地面にへたり込んだ。目の前にいる銀髪の少女は、一切の武器を持たず、魔力も放出していない。ただ防衛し、避けているだけ。それなのに、彼女に襲いかかった者は、自らの悪意と環境によって自滅していく。レイナは、のたうち回る男たちに一瞥もくれず、ただ次の安全な場所を求めて、再び闇の中へと歩き出した。

その凄惨極まりない不戦の結末を、茂みの奥から息を殺して見つめている男がいた。

アルベルト・フォン・ローゼンバーグ。帝国騎士団の若き副長であり、今回の拉致被害者の一人だ。彼はレオンの狂気派閥に加わらず、この地獄の中で正気と騎士としての誇りを保ち続けている数少ない人間だった。

アルベルトは、騎士団の規律を感じさせる、短く切りそろえられた硬質なアッシュブラウンの髪をしていた。その深いエメラルドグリーンの瞳には、強い正義感と冷静さが宿っている。ネイビーブルーの騎士団副長用制服は泥で汚れていたが、長年の剣の修練で鍛え上げられた肩幅の広い無駄のない筋肉質の体躯は、ただ者ではない威厳を放っていた。右側の頬には、過去の戦場で刻まれた薄い線状の傷跡がある。

「……信じられん……」

アルベルトは、冷や汗が背中を伝うのを確かに感じていた。彼は、レオンの手下が自滅していくプロセスをすべて目撃していた。あの銀髪の少女、レイナの動きは、ただの偶然ではない。敵の呼吸、視線、放たれる魔法の指向性、そして周囲の地形や罠の配置、そのすべてを完璧に把握し、脳内で冷徹に演算していなければ不可能な芸芸だった。

「あの少女……一体何者だ? 奴隷などではない。あれは……戦場を完全に支配する、絶対的な盾だ」

アルベルトの首輪の数値は現在【92】。時間が経てば、自分もあの洞窟の家畜たちのようになるか、あるいは誰かを殺さなければならなくなる。だが、もし。あの圧倒的な回避能力を持つ少女を味方に引き入れることができれば。

「この狂ったゲームを、終わらせることができるかもしれない……」

アルベルトの翡翠色の瞳に、絶望ではない、微かな、しかし鋭い意志の光が宿った。島に隠された黒幕を暴き、この地獄から生きて脱出するためのピースが、今、彼の前で静かに動き始めようとしていた。

二日目の朝が訪れても、無人島を包む絶望の濃度は一切薄まらなかった。むしろ、初日の混乱を経て、生き残った貴族たちの間で明確な格差が定着し、凄惨さは底を抜けていた。島の中央に近い開けた岩場、そこはレオン一派が作り上げた、血と肉の査問所だった。

「おい、次だ。連れてこい」

レオンの側近である粗暴な巨漢の貴族が、濁った声で命じる。引きずられてきたのは、名の知れた伯爵家の若息だった。彼の自慢だった見事な金髪は引きちぎられ、泥と凝固した血でベだついている。すでに左の耳たぶは鋭利な刃物で削ぎ落とされ、そこから滴る血が砂を赤く汚していた。

「頼む……頼む、レオン! 金ならいくらでも払う! 帝国に帰れば、我が家の領地を半分やってもいい! だから、これ以上は……!」

若息は地べたを這い、レオンの靴に縋り付こうとした。だが、レオン頑強にその差し出された手を、軍靴の底で容赦なく踏みにじった。ミシミシ、と骨の砕ける嫌な音が響き、若息が獣のような悲鳴を上げる。

「金? 領地? 帰れればの話だな」

レオンは冷徹な眼差しで見下ろした。彼の首輪に表示された数値はすでに【450】を超えている。周囲の無能どもから効率的に数値を貪り食った証だった。

「お前の命の価値は、その首輪にある【42】の残数だけだ。……おい、こいつの生贄トレードを始めろ。死なないギリギリまで、1ポイントずつじっくり絞り取れ。一気にやると脳の血管が弾けて、玩具として使えなくなるからな」

「ひっ、いや、いやあああッ!」

レオンの部下たちが、若息を岩場に押さえつける。一人が若息の首輪に自分の首輪を無理やり押し当てった。キィィィンと肉を焦がすような不快な駆動音が響いた。強制的な魔力抽出。若息の眼球が限界まで見開き、全身の筋肉が強固に硬直する。皮膚の隙間から脂汗と血が噴き出し、彼は言葉にならない絶ぜっ叫を上げながら、何度も何度も身体を弓なりに跳ね上げさせた。

その隣では、すでに数値を限界まで吸い尽くされ、衣服を剥ぎ取られて生ける屍となった令嬢たちが、首輪のペナルティによる肉体崩壊を待つだけの家畜として転がされている。ある者は眼球が内圧で破裂して黒い血を流し、ある者は指先からドロドロの肉液に変貌して腐臭を放っていた。この島において、強者による弱者の搾取は、本土のどんな法律よりも絶対的な正義として機能していた。

その地獄の宴を、アルベルト・フォン・ローゼンバーグは、遠く離れた巨木の梢から単眼鏡で凝視していた。彼の隣には、偶然にもこの狂気から逃げ延び、彼と合流した数少ない志を持つ者たちが潜んでいる。

「……レオンの奴、完全に狂っていやがる。あれはもう人間の仕業じゃない、悪魔だ」

隣で、絹のドレスを引き裂かれながらも毅然とした態度を崩さない、若き頭脳派の令嬢が、怒りと恐怖に唇を噛み締めながら呟く。

「いや、あれが極限状態における人間の本性だ」

アルベルトは静かに単眼鏡を下ろした。彼の端正な顔立ちは、怒りではなく、冷徹なまでの決意で引き締まっていた。

「レオンたちは、このシステムに躍らされているに過ぎん。だが、あの道化の声は『最後に生き残った1名のみが脱出できる』と言った。……ならば、レオンがどれだけ人間を家畜化して数値を集めようと、最終的にはその身内同士で殺し合うことになる。黒幕の目的は、最初から我々貴族の全滅だ」

アルベルトの言葉に、周囲の有志たちが息を呑む。

「では、私たちはどうすれば……」

「あの銀髪の少女、レイナを探す。彼女のあの、すべての悪意を無効化する絶対の盾があれば、レオンの暴力も、黒幕の罠も突破できる。俺たちの剣と知略、そして彼女の防衛能力を合わせるんだ。命を賭ける価値はある」

アルベルトは腰の長剣の柄を固く握りしめた。彼の首輪の数値は【88】。刻一刻とタイムリミットは迫っている。誰かを無抵抗に蹂躙して生き延びるか、それとも、この理不尽な世界そのものに刃を突き立てるか。アルベルトたちの選択は、すでに決まっていた。

二日目の夜が明けようとする頃。鬱蒼とした原生林の奥深く、朝霧が立ち込める静寂の中で、レイナは一人、巨木の根元に腰掛けていた。ボロ布の隙間から覗く銀髪が、わずかに差し込んできた朝日に淡く輝いている。彼女の首輪の数値は【82】。一切他者から奪っていないため、生存税によって確実に減少していた。それでも、彼女の瞳には焦りも絶望もなかった。ただ、世界を等価に受け入れるような、深い静寂だけがあった。

カサリ、と草を踏む音がした。

レイナの身体が、一瞬で緊張する。彼女の硝子玉のような薄青い瞳が、霧の向こうから現れた人影を捉えた。現れたのは、アルベルトだった。彼は両手を高く上げ、自分が武器を抜く意志がないことを証明するように、ゆっくりと歩み寄ってきた。その後ろには、彼と志を同じくする有志たちの姿もある。

「警戒しないでくれ。君を傷つけるつもりはない」

アルベルトはレイナから数歩離れた位置で立ち止まり、その場に静かに膝を突いた。帝国騎士団の副長が、名もなき、ボロ布を纏った奴隷の少女に対して取る、最大級の敬意の礼だった。

「君の戦い……いや、君の不戦を見た。君はこの島で誰よりも強く、そして誰よりも気高い」

レイナは何も答えない。ただ、銀色の睫毛をわずかに揺らし、アルベルトの言葉をじっと待っている。

「俺たちは、この狂ったデスゲームを主催した黒幕をブチのめし、全員でこの島を脱出すると決めた。だが、そのためには君の、その絶対に当たらない力が必要だ。俺たちの命を、君という盾に預けさせてほしい」

アルベルトは真っ直ぐにレイナの瞳を見つめ、右手を差し出した。

「君を奴隷としては扱わない。対等な、この地獄を生き抜くための戦友として迎える。……力を、貸してくれ」

静寂が場を支配した。朝霧の中、レイナはアルベルトの差し出された手をじっと見つめていた。彼女がこれまで生きてきた世界では、差し出される手は常に暴力を振るうためか、あるいは彼女を縛り付けるためのものだった。だが、目の前の男の手からは、明確な意志と、微かな温もりが感じられた。

レイナはゆっくりと立ち上がった。相変わらず声は発しない。だが、彼女はアルベルトの手を拒絶することなく、その一歩後ろに静かに佇んだ。それは、彼女が初めて自らの意志で、他者と共に歩むことを決意した瞬間だった。

狂気と蹂躙に満ちた無人島。最強の盾である銀髪の少女と、正気を保ち続けた5人の有志。最悪のデスゲームを逆転させるための反逆の物語が、今、静かに幕を開けた。

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