第30話 その、瞬間
目も開けていられないほどの爆風がティリアに叩きつけてくる。それを放ったのはゴーレム。そして、その爆発の中心にいるのは――
「フィーロ! ――ッ!」
――ティリアは、祈った。
どうか、あの人を私から奪わないで――と。その、瞬間。
身体の内に強い熱が湧き出てくる。魔力だ。自分の持てる力の全てが、純白の輝きとなって溢れ出してくるような光景が脳裏をよぎる。
全身が神々しいまでの光に包まれた。
「ティリア姉さん、魔術を!」
シエロが叫び、ティリアの背に手を添える。次の瞬間、ティリアの視界が一気に開けて冴え渡り、「ことば」が口から飛び出してきた。
――神子の一族を守護する精霊の力が流れ込んでくる!
「清浄なる光よ! 悪しき炎を討ち祓いたまえ!」
「ことば」は「言霊」となり光に乗って真っ直ぐに放たれ――
――その光は、フィーロを包み込んだ。
まばゆい光が収まったとき、あらゆる音も、一瞬だけ消失していた。
だが直後、耳をつんざくような激しい咆吼が聞こえ、ティリアは思わず身を縮めた。
音が収まり、顔を上げる。
祭壇の中心には悶え苦しむゴーレムの姿。そして――まばゆい純白の光に包まれたフィーロの姿。
「フィーロ!」
無事だったのだ。あの白い光が――ティリアの放った魔術が、彼を護った。
その瞳がこちらに向けられ、柔らかく細められた。直後、真剣な表情でゴーレムを見据えたフィーロは、銀の短剣を握り直し、叫んだ。
「ラウルス、今だ!」
深く頷いたラウルスが銀の板を掲げる。
「神聖なる光よ、彼の者に降り注ぎ、真理を示さん!」
その魔力と呪文に反応し、銀の板が鏡のように輝いた。天頂から降り注ぐ満月がその表面に集約してゴーレムを照らす。
「グオオオオオォォォォォ……――ッ!」
銀の光はゴーレムを包み込み、その表面を覆っていた泥濘を消し去っていく。ドロドロとした流体に近かったゴーレムは木偶のようになり、やがて光が一カ所に集中していく。
――『emeth』という文字が、その心臓に浮かび上がる。
「見つけた!」
その瞬間、フィーロが駆けた。
迷いなくゴーレムの懐へと踏み込んでいく。純白の加護をその身にまとったまま、銀の短剣を胸の前に構え、一直線にゴーレムの心臓へと迫った。
――『emeth』。
真理を意味するその文字から、最初の一字を削り落とせばいい。そうすれば残るのは『meth』――ゴーレムの『死』だ。
だが、ゴーレムもまた、本能だけで何かを悟ったかのように咆吼した。
「グオオオオオオオ――ッ!!」
地の底から噴き上がるような濁流が、胸元から一気に膨れ上がる。泥濘が盾のように渦を巻く。さらに巨腕も振り上げられた。
「危ない……!」
ティリアの喉が震える。
胸の奥で白い熱がまた燃え上がる。フィーロを護りたい。その思いだけが、祈りとなって「ことば」を引きずり出す。
「清らなる加護よ、彼の身を覆え! 災いを退け、道を拓きたまえ!」
白光がほとばしり、一直線にフィーロへ届く。
彼の周囲に薄く透き通る膜のような光が生まれた、その直後――ゴーレムの腕が振り下ろされた。
――祭壇が、揺れる。
空気の塊が爆ぜたような衝撃が四方へ走り、ティリアは思わず息を止めた。
フィーロは――無事だ。
白い光が衝撃を受け止め、砕ける寸前で押し返している。ひび割れるように明滅しながらも、ティリアの加護は確かに彼を守っていた。
「……行ける!」
フィーロが低く叫ぶ。
しかし次の瞬間、ゴーレムの足元から泥が噴き上がり、蔦のようにフィーロの足へ絡みついた。
「フィーロ!」
泥は獲物を呑み込む沼のように粘り、銀の短剣を持つ腕にまで這い上がっていく。フィーロが顔をしかめ、身体をひねって振りほどこうとするが、間に合わない。ゴーレムのもう一方の腕が、今度こそ彼を押し潰そうと高く持ち上がる。
だが。
「させるか……!」
フィーロは拘束されることも厭わず、腕を伸ばした。しっかりと握った短剣が、蔦のように絡みつく泥を強引に引きちぎり、前に進む。
――一閃。
銀の短剣が、鈍く浮かぶ文字の最初の一字――『e』へと食い込む。
「――ッ、はあああああッ!!」
金属が石を削るような耳障りな音が響いた。まるで真理そのものに刃を立てているようなぞっとする感触が、ティリアの背筋を駆け上がる。
ゴーレムが絶叫した。祭壇の空気が震え、泥の身体があらゆる場所から泡立つ。
それでもフィーロは止まらない。
短剣を深く押し込み、白い加護に包まれた腕に全ての力を込める。そして、縦一文字に――削ぎ落とした。
『e』が砕けた。
心臓に残された文字が、揺らぎながら浮き上がる。
<meth>
……その瞬間、ゴーレムの動きが止まった。
見えない糸を一斉に断ち切られた操り人形のように、巨体が不自然に硬直する。直後、心臓の文字から黒いひびが全身へ走った。胸元から、腕へ、脚へ、首へ。木偶のように固まっていた身体が、一気に形を保てなくなっていく。
「グ、ォ……オ……」
それはもはや咆吼ではなかった。
風の抜ける音のような、消えかけた残響。
ひび割れた箇所から汚泥がどろりと零れ落ちる。腕が崩れ、肩が落ち、胸が陥没する。さっきまで猛然と暴れていた怪物は、立っていることすらできなくなっていた。
祭壇に叩きつけられた巨体は、その衝撃でさらに砕ける。泥濘はもう粘りを失い、腐臭を漂わせながら広がるばかりだ。
だが、それでも終わりではなかった。
流れ出た泥がびくりと痙攣する。
まだわずかに残る魔力が、最後の執念のように形を繋ぎ止めようとしていた。
「ティリア!」
フィーロの声に、彼が何を望んでいるのかを悟る。
護るための力。浄めるための光。
――そのために私はここにいる!
ティリアは胸の前で両手を組み、残る魔力を絞り出した。
「清浄なる光よ、終わりを与えたまえ。穢れを塵へ、塵を無へ還したまえ――!」
祈りに応えて、白い光が降り注ぐ。
それは裁きではなく、静かな終焉の光だった。
祭壇に広がった泥濘をやさしく、それでいて容赦なく包み込み、残された穢れを根こそぎ浄めていく。泥はじゅうじゅうと音を立て、黒から灰へ、灰から白へと色を失った。
やがて、最後に心臓のあたりに残っていた塊が、ふっと崩れる。
さらさらと。
泥はもう泥ではなくなっていた。
乾いた灰にも似た細かな塵となり、光の中で舞い上がる。満月の光を受けて淡くきらめいたそれは、次の瞬間、夜の空気へ溶けるように消えていった。
あとには、何も残らない。
あれほど禍々しい存在だったはずのものが、最初からなかったかのように消え失せた祭壇の中心を、ティリアはただ見つめる。
肩で息をしながら、天を仰ぐ。
そこにはわずかに傾いた月が静かに浮かんでいた。
「……終わったのね」
ティリアの二十歳の誕生日はとうに訪れている。しかしその命は奪われず、今もここに立っている。
ゆっくりと、足音が近づいてきた。振り返れば、フィーロがいる。
「フィーロ……」
ティリアは両腕を、大きく広げる。それに応えるように、フィーロは勢いよくティリアの背中に腕を回した。
その温度と力強さを感じながら――フィーロが、呟いた。
「誕生日おめでとう、ティリア」
「ええ――ありがとう!」
二人を祝福するように、柔らかな風が儀式の間を駆け抜け――フッと、ティリアの身体から力が抜ける。足元の感覚がなくなり、急に世界が遠くなるような間隔に陥り――
「ティリア……ティリア!?」
フィーロの声が聞こえる。ラウルスとシエロが駆け寄ってくるのも見える。ああ、三人とも無事だったのね――そう微笑んだ、次の瞬間。
――ティリアの意識は……消えた。




