最終話 ――海へ
――そこは、暗闇だった。
しかしその闇は温かく、穏やかで、心地が良い。まるで温かい夜に毛布に包まれてくるまっているような安心感がティリアを優しく抱き締めている。
全身が疲労で包まれて、手も足も動かしたくない。考えることすらも放棄していた。今のティリアの心を占めているのは「やっと全てが終わった」という思いだけ。でも、一体何が終わったのだっただろうか? ――なぜだか、思い出せない。
……ずっと、怒っていたような気がする。
泣いていたような気もするし、悔やんでいたような気もする。何も出来ない自分が不甲斐なくて、息苦しかったような感覚があったことも覚えている。
だけど同時に、胸が張り裂けそうになるほどの愛おしさを、誰かに感じていたような気がする。
その人の心を護りたくて――そう、護りたくて。そのために自分は怒って、泣いて、悔やんでいたのだ。自分を不甲斐なく思って、どうにか方法を探そうと躍起になっていたのだ。
それは、誰のために?
――……リ……ア……
優しく呼んでくれる人のために。
――ティリ、ア……
たくましい両腕で引き寄せて、大きな胸に抱き締めてくれる人のために。
――ティリア。
ずっと自分の側に居てくれた――フィーロのために。
ああ、そうだ。フィーロ。
この闇が心地良いのは、きっと彼と過ごした夜を思い出すから。そしてこんなに温かいのは、きっと――
――手を引かれるように、ティリアは目を覚ました。
しかし目を開けてすぐには何も見えない。視界は真っ暗なままで、その代わりに身体は優しい温もりに包まれたままだった。
鼻先を慣れた香りがくすぐる。幼い頃からずっと近くにいてくれた人の香りだ。ティリアは頬をゆるませて、その胸元に強く額を押しつけた。
「……ティリア?」
耳元で声が聞こえる。顔を上げると、優しい表情が――フィーロの微笑みが、ティリアを見つめていた。
「フィーロ……」
その名前を呼ぶと、フィーロは嬉しそうに目を細めてかき抱く腕に力を込めた。
「よかった。目が覚めたんだ」
「え……?」
「きみ、ずっと眠っていたんだよ。儀式が終わってから、もう一週間も」
「……そんなに」
そんなに眠っていたなんて、思いもしなかった。目を覚ましてすぐに感じたのがフィーロの匂いで、それが嬉しかったから、自分がどういう状況にあるかなんてことは考える余裕もなかったのだ。
こんな風に抱き合える日が来るなんて、想像もしなかったから。
「たぶん、魔力を使い果たしたせいだろうって、シエロは言ってたよ」
「そう……あなたは?」
「ん、俺?」
「ええ……だって、儀式ではフィーロだって――ううん、フィーロが一番、大変だったでしょう?」
「まあ、そうだね。でも余裕だったよ」
「……本当に?」
ティリアがフィーロをじっと見つめれば、彼は肩をすくめて「ごめん」と白状した。
「嘘。本当は、三日は気を失っていたって。俺たちを世話してくれたのは、ラウルスだよ」
「ふふ……やっぱり」
「ばればれだった?」
「言いそうだな、って。お兄様に聞いたらすぐにバレるような嘘を、昔からよく言っていたじゃない」
「はは、そうだったね。それでラウルスに叱られてた――懐かしいな」
まるで何かを噛みしめるように、フィーロは吐息交じりに呟く。ティリアもまた、静かに目を細めフィーロの胸元に頬を寄せた。
「私、二十歳になったのよね」
「うん……それに、もう神子の役目もなくなった」
「フィーロも?」
「そう。きみも、俺も……それに、ラウルスも、シエロも。俺たちはもう、見知らぬ誰かのために生きなくていい」
フィーロの手のひらがティリアを包み込み、上を向かせた。
「俺たちは、俺たちのために生きられるんだよ」
「……うん」
彼の唇が、ティリアのそれを塞ぐ。こんな日が来ることを、一体どれほど願っていただろう。この日に辿り着くまでに、どれだけ胸を痛めただろう。
でもそんな日々ももう終わりだ。これからは世界なんていう見知らぬもののために命をかけることなどしなくてもいいのだ。
自由にここを出て、世界を見知らぬものではなくすることができる。行きたい場所に行って、見たいものを見て、出会いたい人に出会って――たくさんのことを経験することができるのだ。
柔らかな温もりが、唇から離れていく。フィーロの真っ直ぐな眼差しが、ティリアを見つめて離さない。だから胸が苦しくなるほど、幸せだった。
ティリアの長い髪にフィーロがそっと指を絡める。そのまま手のひらを頭に添えて、抱き寄せて、今度は耳元に唇が触れる。微かな吐息が首筋に触れて、ティリアは思わず身をよじった。
「もう……いつまでそうしているの?」
「いつまでだろうな。もうちょっと」
「目を覚ましたから、お兄様やシエロにも挨拶しに行きたいのだけど、離してはくれないの?」
「そうだね、離したくないな」
照れもせず、躊躇いもせず、フィーロはそう言い切った。その声が思いのほか張り詰めていて、ティリアは思わず息を呑んだ。
――きっと、彼も、ずっと思いを抱えていたのだ。諦めなければならないと、自分に言い聞かせながら。
「……そうね」
ティリアはフィーロの手を握り、そのまま自分の頬にそっと寄せた。その温度を感じながら、フィーロを見つめた。
「もうしばらく、このままでいましょう。……これからどうするか、相談しながら」
「……うん」
そう呟いたフィーロの声は、ほんの少しだけ、震えていた。
それからどれくらい時間が過ぎたか――
ようやく身支度を調え居間に向かえば、そこには大量の本が積み上がっていた。
「これは……?」
思わず呟く。と、ソファで本を開いていたラウルスとシエロが弾けるように顔を上げ、ラウルスは本を放り出して駆け寄ってきた。
「ティリア! よかった、無事に目を覚ましたんですね……!」
「ええ……心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫」
「そうですか。よかった……」
心底ホッとしたとばかりに息を吐きながら、ラウルスがティリアの手を握る。その後ろから、苦笑しながらシエロが歩み寄ってきた。
「ラウルス兄さんもフィーロ兄さんも、ずっとソワソワしてたんだよ。ただの魔力切れだから、しばらく眠っていれば回復するって言ったのに」
「そんなことを言われても心配になるのは仕方がないじゃありませんか」
「こんな経験はしたことがないからね。魔力が底を尽きるなんて」
「その通りです。それにフィーロは三日で目を覚ましたのにティリアはずっと眠っているから、何か別の事情があるのではないかと……」
「で、僕を借りだして書庫の文献を漁ってたってわけ」
疲れ切った表情でシエロは手に持ったままの本を掲げる。なるほど、居間におびただしい数の本が積み上がっているのはそういうことだったのかと、ティリアは思わず吹き出した。
「フィーロ兄さんはティリア姉さんから離れようとしないし……本当に二人とも過保護だよね」
「うるさいよ。仕方がないだろう? ……ティリアの命を助けることを考えるなんて、ちょっと前はできなかったんだから」
フィーロの言葉にシエロは押し黙る。ラウルスも、ティリアも。その言葉の意味を噛みしめた。
「――それで? ティリア姉さんが無事に目を覚ましたけど、これからはどうするの?」
問われて、ティリアは「待って」とシエロを止める。
「その前に、シエロのことを聞かせて」
「僕?」
「あなたは精霊なのでしょう? ゴーレムを消滅させるためにフィーロの弟としてここにいてくれたけれど……これからは、どうなるの?」
本来、精霊は人間に姿を見せることはない。けれど今回は特別だった。神子の一族を呪いのような役目から解放してくれるため、子どもの姿を借りてここにいる。けれどその役目が終われば、もうここにいる必要はなくなるのだ。
だが、どうやらこれについてはすでに話がついているらしい。シエロはラウルスと目を合わせて、口角を上げた。
「僕はこのままここにいるよ。正確には、ラウルス兄さんの家にだけど」
「お兄様の?」
「ええ、僕が頼んだんです。せっかく役目を果たす必要がなくなったなら、神子の一族が課されていた役目について、きちんと研究したいと思っていたので」
「ティリア姉さんが寝てる間に、そういうことを僕から聞き出せるかどうかって、結構問い詰められたんだよね」
「問い詰めたわけではありませんよ。精霊の知識を分け与えて貰えないかと直談判しただけです」
「……で、ラウルス兄さんのところに住み込みで一緒に研究することになったっていうわけ」
「今のまま生活することは出来るとシエロが言うものですから、僕が死ぬまではこの世界に留まってくださいと、これも直談判を」
「嘘。ほとんど強迫だったよ。ラウルス兄さんって意外とこういう人だったんだね」
呆れたような顔をするシエロと、無邪気に笑うラウルスと。その二人を見ていたら、自然と頬がゆるんでしまった。どうやら兄は役目から解き放たれて、次の目標を見つけているらしい。羨ましいと言えばいいのか、すごいと感嘆すればいいのか。いずれにしても、この先のことを迷うことはなさそうだ。
フィーロも肩を揺すって笑っている。
「というか、シエロ。おまえ、千年以上生きてるんだろ? なのに『兄さん』『姉さん』のままなんだな」
「もう慣れちゃったから、今更変えるのも変な気がして」
「なるほど。確かに、そうかもな」
「それより、フィーロ兄さんとティリア姉さんは? これからどうするか決めてるの?」
尋ねられ、ティリアはフィーロを見上げる。フィーロも同時にこちらに視線を向けていた。
自分たちのこれから――やりたいことはきっと探せばいくらでも見つかる。この先何年も、何十年も一緒に過ごせるのだから、それだけたくさんの経験を二人で出来るようになるはずだ。
しかし一番にやりたいことは決まっていた。神域と呼ばれていたこの場所から離れることができるようになったら一緒に行こうと、二度も誓い合った場所へ――
フィーロとティリアは視線を交わし、微笑み合って、同時に口を開いた。
「――海へ」
……それは叶えることの出来ないはずだった約束を叶えるための言葉だった。




