第29話 囮
――どこまでも、黒かった。
漆黒。どれだけ大きく目を開いても、その先には何も見えない。いや、目を開いているのかもわからない。ティリアは確かに「見ている」つもりだというのに、何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。あらゆる感覚が消滅して、自分、というものの意味さえも、わからない。
――足元からじわりじわりと、沁み入るように、体内に侵入してきたのは、どろりとした、生ぬるい、ベタベタした感触の、吐き気がするような――
「清らかなる奔流よ! 悪しき濁流を洗い流せ!」
シエロの声が凛と響く。と――
――そこは、儀式の間だった。
聖なる光のドームが広間を包んでいる。ティリアはフィーロにしっかりと抱かれ、聖水の中に座り込んでいた。儀式のための白い装束が聖水を吸い上げて、わずかに重くなっている。足の指先が震え、上手く動かない。だが、感じる。先ほどのような『無』ではない。
「大丈夫か、ティリア」
「え、ええ……」
「シエロが精霊の加護をかけてくれた。だからもう『見える』はずだ」
フィーロはティリアを抱き寄せたまま、しかし視線は前方に向けられていた。ティリアもその目線の先を追う。
――そして、息を呑んだ。
それは泥が人の形を真似て立ち上がったような魔物だった。全身は黒ずんだ湿泥に覆われ、筋肉めいた隆起のあいだから、腐った沼をかき回したように粘ついた液が糸を引いて垂れている。輪郭は巨人めいているのに、その姿には生き物らしい温度がなく、無理やり固められた土塊が、今にも崩れそうな不安定さのまま立っているように見えた。
「あれが……ゴーレム……」
ティリアは声を震わせる。その異様さは、想像を遥かに超えていた。耳障りな低温が鼓膜を揺さぶり、脳を直接かき混ぜられるような不快感に吐き気がした。おぞましい。負の感情ばかりが想起されるのは、ゴーレムがもともと「そいうもの」だからなのだろう。
「きみは聖なる力が強いから、あれはキツいだろう?」
「……ええ。そうか、これも神子の力の、影響なのね……」
「そうだよ。きみは、少し離れてて。シエロの加護があれば大きく影響することはないだろうけど」
「フィーロ、あなたは――」
「ここから先は、俺の仕事だよ」
フッと微笑んだフィーロは、立ち上がり、ティリアの頭を撫でてから、短剣を構えた。浄化された銀で作られた短剣は、悪しきものを祓う力がある。だからこれまで、神子の心臓を貫くために使われてきた。
だが本来の役割は、違う。
「フィーロ、あなたはゴーレムの気を引いてください!」
そう叫んだラウルスが、銀色の板のようなものをゴーレムに向ける。粘ついた泥はゴーレム全体を覆っていて、ゴーレムに刻まれているはずの文字が――真理を意味する『emeth』の文字が、どこにあるのか視認出来ない。
その状況を打破すべく、ラウルスは銀の板に手を添えて、呪文を唱えた。
「神聖なる光よ、彼の者に降り注ぎ、真理を示さん!」
ラウルスの魔力が注がれたそれは紫色の光を放ち、ゴーレムを包み込もうとする。だが――
「グオオオオォォォォォォォォ!」
地を這うような雄叫びと同時に、衝撃波が放たれる。ティリアは咄嗟に身を低くした。ラウルスもフィーロもシエロも皆、放たれた力から身を守る。
「……やっぱり、正攻法じゃ難しいね」
シエロが呟く。
「僕の力がもう少し強ければ突破できたかもしれませんが……」
「大丈夫、予想通りだよ」
フィーロはゴーレムの正面に立ち、深く息を吐く。
その様子を見つめながら、ティリアは祈るように手を組んだ。
――どうか、フィーロを護って。
その願いに背中を押されるように、フィーロは大きく地面を蹴った。
***
フィーロが踏み出したのと同時に、ゴーレムが腕を振るう。その瞬間、まるで爆ぜるように空気が震えた。見えない壁に殴りつけられたような衝撃が走る。だが、フィーロは咄嗟に右手を前に掲げ防御壁を張った。
やはり正面から押し切れる相手ではない。そう悟るとフィーロは低く身を沈めた。
目の前の怪物は、生き物のようでいて生き物ではない。人間の負の感情の集合体であるゴーレム。その動きには法則性もなく、力もどれほど強力になるか未知数だ。それに、挑発も威嚇も通じない。だが。
「それでも、俺だけを見ててもらわなきゃ困るんだよ!」
フィーロは片手を掲げ、一息に魔力を練り上げた。掌の先に生まれた火球にゴーレムは半歩前に踏み出す。
「……なるほど。魔力に反応して動くんだな?」
口角を上げると、フィーロは大きく後ろに飛びながら火球を放った。ゴーレムは先ほどと同じように衝撃波を放とうとする。しかし、
「遅い!」
フィーロはパチンと指を鳴らす。瞬間、火球は一気に圧縮され、かと思えば弾けるように炸裂する。
「弾けろ!」
ゴーレムの肩口で、乾いた轟音とともに赤い火花が散った。派手な轟音と共に火花がゴーレムを襲い、汚泥をあちこちにまき散らす。
それでも傷はつかない。そんなことは最初からわかっていた。この程度で倒せるのなら、こんな儀式をする必要はどこにもない。
それでも、フィーロは自らの役目を果たした。
だが巨体が、ずるり、とこちらを向く。ゴーレムの意識が捕らえているのは、フィーロだけだ。
「そうだよ、俺だけを見ているんだ」
ゴーレムの腕が高く上がる。フィーロは即座に左へ跳んだ。
叩きつけられた泥の腕が地面を粉砕する。石が跳ね、破片が頬をかすめた。まともに受ければ、人間など一撃で形を失ってしまうだろう。
それでも止まらない。さらに二発、三発。腕が振り上げられる。その腕に当たらないように身を翻しながら、フィーロは再び魔力を練り上げた。
今度は白い閃光を、ゴーレムの視界を奪うために放つ。魔物でも、やはり視覚を奪われると動きは鈍くなるようだ。ほんのわずかに動きが鈍くなる。同時に、鋭い殺意がフィーロの前身を貫いた。
――まるで命を握られているような。
ゾクリとして、フィーロは転げるように身を沈めた。直後、頭上を衝撃波が通り抜けていく。あと一瞬タイミングが遅ければ首と胴が離れていた。
「フィーロ!」
ティリアの悲鳴が聞こえて、フィーロは改めて意識をゴーレムに向ける。一瞬でも、気を抜くわけにはいかない。『万一のこと』など起こすわけにいかないのだ。
彼女と二人で、海を見に行くのだから。
正面から戦う必要などない。 泥の巨腕が唸りを上げて迫るたび、紙一重で身をかわし、足場を変え、また魔術を撃ち込む。真正面から競り合えばどう考えてもフィーロのほうが不利になる。だから決して受け止めない。ぶつからない。ただ、叩いて、逸らして、意識だけをこちらに向かせる。
ゴーレムの足元へ氷の術式を走らせた。
薄く張った氷が泥に砕かれる。巨体は止まらない。だが、ほんの一瞬だけ踏み込みがずれた。その一瞬で十分だった。
フィーロは横へ滑り込み、今度は耳元で爆ぜるように風の弾を撃つ。
轟っ、と濁った風圧がゴーレムの頭部を揺らした。
泥の塊がぎしりと軋み、巨体が大きくこちらへ傾く。
「そうだ。こっちだけ見てろ」
喉の奥が焼ける。魔力の消耗は大きい。
それでも口元に笑みを浮かべる。もう少し、もう少しだ。ゴーレムの意識が完全にフィーロだけを捕らえれば、ラウルスの魔術は成功する。それが成功しさえすれば。だが――
「兄さん!」
シエロの叫ぶような声が聞こえる。次の瞬間、ゴーレムに魔力が集約し、とてつもない気配がフィーロに注がれる。
――逃げられない!
フィーロがハッと息を呑んだ、その瞬間。
「フィーロ! ――ッ!」
ティリアの声が響いたと同時に――
――フィーロは爆風に包まれた。




