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第九十二章:烏合の衆

遭遇戦。

兵力差二倍。

事前準備なし。

しかも与えられたのは、指揮官を失ったばかりの混成旅団。


どう見ても、「ヴァン・ラーク対策マシマシ仕様」です。

そして現地で待っていたのは――思っていた以上に、だいぶ危うい新兵たちでした。

大元帥府からの正式な通達が届いたのは、あの院長室での密談から四日後のことだった。そして同じ朝、使い魔が短い通知を一枚持ち込んできた。


『枢機院の作戦会議室へ、今すぐに出頭せよ』


簡潔すぎる文面。

大元帥アクィラ・ソルが直々に下した命令だ。「拒否するなら縛り上げてでも連れて行く」というベルンハルトの言葉が、現実のものとして迫ってきた。


「……縛られて無様に引きずられるくらいなら、自分の足で歩いた方がマシだな」


ヴァンは鏡の前で帝国軍事学院の制服の襟を整え、重い足取りで部屋を出た。




枢機院の会議室の重厚な扉を開けた瞬間、肌を刺すような空気がヴァンの全身を包み込んだ。


重い。

そして、異常なまでに張り詰めている。


円卓を囲む顔ぶれを一瞥し、ヴァンは内心で小さく舌を打った。


(本気だ、これ)


演習の監督と評価を下す『審判組』の規模が、想定よりも一回り、いや二回りは大きかった。帝国軍の主要な将官クラスがずらりと並んでいる。

そして何より、その最前列、ひときわ威圧感を放つ席に座っているのは――


ヴァンと視線が交差した。ガイウスは何も言わなかった。


(これは余興ではない、ということか)


沈黙の中、審判組の一人が一枚の書類を机の前に滑らせた。


「作戦指令書だ」


男は鉄面皮のまま、事務的な口調で言い放った。


「目を通せ」


ヴァンは書類を手に取り、素早く視線を走らせる。

読み進めるにつれ、頭の中で『帝国戦棋』の盤面を広げるように情報を整理していく。


【演習場】――帝都南方、ザッセン平原。

【展開】――明日、現地集合。

【性質】――突発遭遇戦。


ヴァンの眉が、わずかに寄った。


(……遭遇戦、だと?)


【自軍】――混成旅団、五千。

【敵軍】――増強旅団。兵力不明。編成不明。


ヴァンはもう一度、「敵軍」の項目を凝視した。

人数も書いていない。

対戦相手となる指揮官の名前すら、秘匿されている。


(完全なブラインド・マッチか)


書類を静かに机に戻し、ヴァンは顔を上げた。


「質問は」


審判組の男が問う。


「部隊の編成と引率はこちらで行うのですか? 今すぐ兵舎に向かう必要がありますか」


「その必要はない」


男は冷たく言い放った。


「貴官の部隊はすでにザッセン平原に展開している。明朝、現地へ赴き、そこで軍と合流しろ」

「現地での詳細な状況説明はありますか」

「ある。到着後、審判員から逐次通達する」

「……了解しました」


ヴァンが引き下がろうとしたその時、男が冷酷な追加条件を口にした。


「なお、本演習の期間中、機密保持のため、貴官はこの枢機院の施設内から一歩も出ることは許されない。現地への移動時を除き、外部との接触は一切禁ずる」


ヴァンは少し間を置いた。

「……つまり、今日から軟禁状態ということですか。準備をする時間も与えられないと?」


「そうだ」


(まあ、そう来るよな)


情報漏洩を防ぐためか。あるいは、俺に事前工作を仕掛ける隙を与えないためか。

どちらにしても、盤面は完全に相手に握られている。


「分かりました」


ヴァンは書類を畳み、静かに一礼した。




その夜、枢機院の休息室は不気味なほど静かだった。

窓の外には、帝都アイゼングラードの煌びやかな灯りが遠くに見える。


ヴァンは硬いベッドに横たわり、天井を見上げながら思考を回転させていた。


遭遇戦。

事前の陣地構築なし。

後方からの補給線の設定なし。

強固な指揮所なし。


そして、勝利条件はおそらく――全滅か、降伏。


(最初から、俺のやり方を徹底的に潰しにかかってる)


塹壕が掘れない。大縦深陣地も組めない。補給線を断って敵を干上がらせるための空間も時間もない。

これまでの「地球の戦術」と「兵站流」が、根こそぎ封じられている。

しかも、相手の兵力も編成も完全にブラックボックスだ。


(……偶然じゃない。誰かが、俺を殺すために設計した盤面だ)


コルネリアか、それとも守旧派の将軍たちか。

ヴァンは目を閉じた。




翌朝。

車輪の軋む音と共に、馬車が動き出した。

ザッセン平原まで、およそ半日の道程だ。


馬車の窓から、帝都の堅牢な城壁が少しずつ遠ざかっていく。

ヴァンは腕を組んで、規則的な揺れに身を任せていた。


(本当に、大丈夫か、これ)


俺は軍事理論なら語れる。だが、現場で血を浴びた兵を束ねる指揮官ではない。少なくとも、今まではそうだった。


やがて、視界が開けた。

ザッセン平原だ。


広い。

帝都の喧騒とは全く別の、圧倒的な静寂とスケールがそこにあった。

青々とした草が風に大きく揺れ、空がどこまでも高く続いている。


馬車が止まった。


野営地の入り口で、審判組の腕章をつけた軍官が待っていた。


「詳細を説明する」


ヴァンが馬車を降りるなり、軍官は事務的な口調で切り出した。


「この演習の勝利条件は――敵軍の全滅、あるいは降伏だ」


「補給線の断絶による兵糧攻めは?」


ヴァンが問うと、軍官は鼻で笑った。


「遭遇戦だと言ったはずだ。補給線を設定する時間も空間もない。当然、敵首脳部の斬首作戦も不可能だと思え」


ヴァンは黙って聞いた。


「貴官に与えられた唯一の『優位点』は、我が軍の優秀な偵察兵が命懸けで持ち帰った『情報』だ」


「……で、敵は何人ですか」


「一万」



時が止まったかのように、風の音だけが耳を撫でる。


「――一万、だと?」


「そうだ。貴官の部隊は五千。単純計算で倍の敵と、この遮蔽物のない平原で正面から決着をつけろ」


軍官はさらに、残酷な条件を付け加えた。


「貴官の率いる混成旅団は、事前の戦闘で指揮官を失った部隊だ。貴官は、急遽帝都から派遣された後任にすぎない」


つまり、部隊との信頼関係はほぼない。連携もない。


ヴァンは一度、空を見た。

広い空だった。白い雲が、ゆっくりと流れていた。


(……本当に、俺を軍神かなにかと勘違いしてないか?)


だが、何かが、胸の奥で静かに反転した。


(ここまでやるか)


怒りではなかった。むしろ逆に、落ち着いてきた。

理不尽の総量が限界を超えると、不思議なことに、頭が冷える。


(ここまで俺の得意な針路を潰しておいて、これだけ理不尽な手を打っておいて――)

(それでも俺を盤面の上で追い詰められると思ってるなら、好きにしろ)


ヴァンはゆっくりと息を吐き出した。


「了解しました」


短く、一切の感情を交えずにそう答えた。


審判員と別れ、ヴァンは自軍の集結地点へと向かった。

五千の混成旅団。


遠目に見えた時から、何かが引っかかっていた。

近づくにつれて、それが何なのかはっきりと分かってきた。


若い。

とにかく、若すぎる。




隊列を眺める。

並んでいるのは、歴戦の猛者などではない。完全に新兵だ。

ヴァンとさほど変わらない、あるいはもっと幼い顔すら混ざっている。


小隊長、中隊長、大隊長――幹部たちの顔ぶれを見渡した。

やはり若い。実戦の泥と血の匂いなど欠片もしない。経験より、机上の理論だけで育てられた世代だ。


(これも、条件の一つか。指揮官を失った歴戦の敗残兵ですらなく、ただの新兵を押し付けられたというわけだ)


ヴァンがため息を一つ飲み込んで、足を踏み出すと。


「はっ、貴官が……! も、もしかして、あのヴァン・ラーク殿でありますか!?」


中隊長の一人が、無理に威儀を正しながらも、顔を真っ赤にして目を輝かせた。声が、興奮で完全に裏返っている。


「あの『戦争論』を提唱されたヴァン先生ですね!」

「枢機院の夜宴で、あのエリアス様を論破したというのは本当ですか!」

「先生! 攻撃は消極的な作戦形態であり、防御こそがより強力な作戦形態であるとは、具体的にどういう――」


幹部たちが、一斉に群がってきた。

しかも彼らの手には、真新しい『メモ帳』や『筆記用具』が握られている。完全に講義を受ける学生の顔だ。


悲壮感など微塵もない。

目前に一万の敵が迫る状況について問う者は、ただの一人もいなかった。


ヴァンはしばらくの間、ぽかんと口を開けたままその光景を見つめていた。

声を張り上げる若い士官たちの、きらきらと輝く純粋な目を。


(……作戦会議じゃなくて、これ)

(講義を待ってる学生みたいな顔だな)


ヴァンは目を細めた。

口を開こうとした。色々と言いたいことはあった。

今は戦況確認が先だとか。陣形の展開について早急に指示を出したいとか。


だが、その前に――

もう一度、若い顔たちを見回した。

緊張感ゼロ。興奮と好奇心が入り混じった、素直すぎる、そして弛緩しすぎた表情。


(待て。シナリオの設定上、こいつらは『指揮官を失った部隊』のはずだよな?)


ヴァンは内心で天を仰ぎ、絶望的な予測に辿り着いた。


(指揮官を失った上に、この緩みきった空気……つまり、こいつら、指揮系統が完全に崩壊しているただの烏合の衆なんじゃないか……!?)


ヴァンは小さく、深く、溜息を吐き出した。


(戦術以前の問題だ……まずは、この新兵たちの浮ついた空気を叩き潰すところからか)




【第九十二章・終】

しかも集められた部隊は、緊張感ゼロの若手士官たち。

危機感より、「ヴァン先生の特別講義だ!」みたいな空気になっています。

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