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第九十一章:兵を率いるということ

次に待っていたのは、まさかの実戦演習。

机上の理論が、本当に兵を動かせるのか。

ヴァンにとっても、面倒で、そして避けられない話になります。

債券の嵐が過ぎたあと、ヴァン・ラークはようやく一息ついていた。


金は動いていた。

『帝国戦棋』の売上は、あの祝宴での一件以来、爆発的に伸びて安定期に入っている。

公債の返済計画も、今のところは崩れていない。


つまり。


「……悪くない」


ヴァンは自室の窓辺で、大きく伸びをした。

窓の外、帝都の朝が動き出していた。




大元帥府の祝宴以降、帝都ではヴァンが語った『戦争論』の熱狂が渦巻いていた。居酒屋でも市場でも、誰もが「戦場の摩擦」や「重心」という言葉を気取って口にする。

その煽りを受けて、リヴィアとの密かな逢瀬――建前上は――も、いつしか『戦争論』の個人授業へとシフトしていた。


「戦争は……政治の延長、ですか」


リヴィアは小さなノートに、几帳面な文字でメモをとっていた。

うなずきながら、たまに首を傾げながら。


「そうだ。剣を振るうのが目的じゃない。戦争ってのは、別の手段で政治を続けることにすぎない」

「では……ただ敵を殲滅するだけの戦いは……」

「下策だ。目的を見失った暴力は、ただ金と命を食うだけだ」


ヴァンが淡々と答えると、リヴィアはしばらく黙って、それからこう言った。


「ヴァンさんって……その、数字とか計算の話をしているのに……なんで、聞いてると、なんか……」


言葉が続かなかった。


リヴィアは自分でも気づいていないようだった。何を言いたいのか、自分でも分かっていないような顔で、ただノートを見つめていた。


ヴァンは少し驚いて、視線を逸らした。


「……買い被りすぎだ。俺はただ、無駄遣いが嫌いなだけだよ」


リヴィアは少し笑った。

声は小さくて、でも確かにそこにあった。




そういう穏やかな日々が、数日続いた。


ルートヴィヒ絡みの動きは、まだない。

コルネリアの次の一手も、表面上は静かだ。

ヴィヴィアンからも接触はない。


(悪くない)


ヴァンは再び、そう思った。

このまま、もう少し平穏が続いてくれれば——


ベルンハルト・フォン・ヴァレリアンから呼び出しが来たのは、その翌朝だった。


「今すぐ来い」


使い魔の伝言は、それだけだった。


院長室の重いオーク材のドアを開けると、ベルンハルトは窓の前に立っていた。

背中を向けたまま、動かない。


「座れ」


声がいつもと違った。

低い。重い。


表面上は平静だが、その奥に何かが鬱積している。

ヴァンはそれを見て、すぐに察した。黙って机の前の椅子に腰を下ろした。


机の上に、一枚の書類が置いてある。

封蝋は既に無残に割られていた。


手に取った瞬間、視線が止まる。

字を追う。追いながら、脳の別の部分が静かに処理を始めた。


実戦演習。

全軍団参加。

日時未定、詳細は追って通達。


そして最後のページの右下。

大きな、重い、紋章の押印。


(アクィラ・ソル)


大元帥の、直々の命令書。

ヴァンは書類を静かに机に戻した。


「……なるほど。嫌な予感しかしない」


呟きは、ほとんど独り言だった。


ベルンハルトがゆっくりと振り返った。

腕を組んだまま、ヴァンを見下ろす。


「何か言いたいことはあるか」

「具体的な内容は書いてないですね」

「まだ決まっていない」


ヴァンはしばらく考えた。

天井でなぞった。脳内で逃げ道を計算し——塞がれていることを悟ると、重いため息をついた。

それから、ゆっくりと口を開いた。


「……断れますか」


室内の空気が、わずかに動いた。


ベルンハルトの眉が、片方だけ上がった。


「逃げるのか」


声に棘があった。だが次の瞬間、その棘は引っ込んだ。


「前線への推薦を蹴って、後方の兵站業務に逃げ込んだ時と同じようにか」


「ええ」


ヴァンは悪びれずに頷いた。


「俺は裏方でソロバンを弾いている方が性に合っているんです。英雄になる気なんて毛頭ない」


ベルンハルトは椅子を引き、重い体を下ろした。

机の前に腰を落ち着けて、両手を組み、人差し指同士を合わせて叩き始めた。

コツ、コツ、コツ。


「だが、今回はできんのだ」


「参加しても、しなくても、お前にとって旨い話ではないかもしれん」


静かな口調だった。事務的とも違う。

どこか、気まずそうな、そういう声だった。


「あの男が直接言ってきた。国家の未来に関わる大事だと。改革派と守旧派、どちらを軸に据えるかを決める機会だと。——お前の『戦争論』が本物かどうか、全軍の前で証明してみせろとな」


ヴァンは息を吸った。

自分の実戦経験など、帝都に来る前のあの包囲戦一度きりだ。作戦の骨子を提示しただけで、実際に兵を動かしたのは他の者だった。

指揮官としての自分など、まだ何者でもない。


「……そうですか」


それだけ言った。


ベルンハルトが頭を乱暴に掻いた。

珍しかった。あの老将が、らしくない仕草をするのは。


「本来なら、少し待てと話をつけるくらいはワシにもできた。あいつとの付き合いも長いからな。だが——」


声に、濃い苦汁が混じった。


「マルクスの青二才とルキウスの狐が、珍しく足並みを揃えおってな。他の軍団長まで引き込んで、こう喚き散らしやがった。実際に指揮させて検証しなければ、帝国の役に立つかどうか分からん、とな」


ヴァンの指が、膝の上でわずかに動いた。


(誰かが、動かした)


マルクスとルキウスが、足並みを揃える。


(……どこの糸だ)


あの二人の後ろに立てる人間は——


「……誰かが焚きつけましたね」


「だろうな。ワシも同意見だ」


ベルンハルトは短く言った。それ以上は言わなかった。


沈黙が続いた。

ベルンハルトが、ふと表情を緩めた。


「まあ——最悪でも、悪い話じゃないぞ」

「悪い話じゃない、ですか」

「演習でどう転んでも、コンラートを黙らせてやれ。教授の椅子くらい、転がり込んでくるかもしれん。そうなりゃ飯には困らん」


どこか、ぶっきらぼうな慰め方だった。


「……お前は何も言わんのか」


ベルンハルトが、少し不服そうに続けた。


「黙って話を聞いてるだけか」


ヴァンは少し間を置いた。


「断れないなら、首を縦に振るしかないでしょう」

「……それだけか」

「詳細が決まり次第、知らせてください。それだけです」


ベルンハルトは、しばらくヴァンを見ていた。

何かを言いかけて、やめた。代わりに、短く鼻を鳴らした。


「……分かった」


院長室を出た瞬間、廊下の冷えた空気が肺に入ってきた。

ヴァンは足を止めて、静かに息を吐いた。


長く。

ゆっくりと。


(また面倒が増えた)


名が売れれば売れるほど、引き寄せられるものが増えていく。

それは分かっていた。分かっていたが、こうも続けて来られると、流石に応える。


「……兵を率いる、か」


独り言が、廊下に溶けた。


(本当に大丈夫か、これ)


前世のゲームの中の兵士とは違う。

マウスで枠を囲んで、進軍命令を出せば黙って死地へ向かう。そんな都合のいいものじゃない。

資源さえあれば、いくらでも生産できるわけでもない。


疲れれば足が鈍る。

腹が減れば判断が狂う。

恐怖が走れば、精強な兵でも崩れる。


画面の向こうの数字ではない。

呼吸をし、血を流し、名前を持った人間たちだ。


ヴァンの脳裏に、あの路地裏での記憶がフラッシュバックした。


迫り来る化け物のような傭兵。

自分の盾となって吹き飛ばされた、ブルーノの背中。

即死したディーターのうつろな目。

血の匂い。


彼らは、ただの『重装歩兵』や『魔導騎士』ではなかった。

安いチョコレートを好み、家族の帰りを待たせている、活きた人間だったのだ。


それを、自分の采配一つで死地に送り込むことができるのか?

あの二人の死の重さすら、まだ消化しきれていないというのに。


ヴァンは歩き出した。

どこにも向かう気にならないまま、ただ廊下を歩いた。


部下をただの消費アイテムとして切り捨てるような真似は、したくない。

だが、それを貫くためには、圧倒的なまでの『勝利』を計算し尽くさなければならない。摩擦を、恐怖を、人間の限界を。


やる気は、なかった。




【第九十一章・終】

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