幕間VI:次の一手は、戦場で
久しぶりの幕間です。
今回はコルネリア視点。
ここまで比較的余裕のあった彼女が、ようやく一度しっかり負けを認めました。
ただし――
コルネリア、反撃開始です。
彼女の強みは、感情で動いているように見えて、最終的には必ず損得で盤面を組み直すところにあります。
今回もちゃんと「噂を上書きするための別の大事件」を用意してきました。
そして出てきたのが「実戦演習」。
机上の理論 vs 現実の暴力、という分かりやすい構図です。
本を閉じた。
ゆっくりと、丁寧に。
テーブルの上に置いて、しばらくそれを見つめた。
コルネリア・フォン・ローゼンクロイツは、負けを認めることが嫌いだった。
嫌いだが、できないわけではない。
「自分は絶対に間違えない」と盲信する愚か者ではないからこそ、彼女はこの若さで大元帥府の奥深くに居座り、第一軍団長マルクスでさえ『御大姉』と呼んで一目置くほどの権力を握るに至ったのだ。
「……認めるしかないわね」
誰に言うでもなく、呟いた。
今回は、完全に読み違えた。
副官からの報告は、簡潔にして最悪だった。
昨夜の大元帥府。禁区への侵入者。
証拠は完全に揉み消されたが、それだけではない。
「ヴァン・ラークの戦争理論」が、あの男の価値を飛躍的に高める劇薬となり、今や帝都中で持て囃されている。
コルネリアは黒いレースの手袋に包まれた細い指を組み、目を閉じた。
(エリアス・ベリサリウス……あのノストラの老いぼれ)
彼女の胸の奥で、苛立ちが黒くくすぶっていた。
ヴァン・ラークを盗作の罪で社会的に抹殺し、ただの凡人へと引きずり下ろす。それが彼女の計画だった。
あのエリアスは『魔導協同作戦概論』の著者であり、大陸全土から「導師」と崇められる権威だ。彼が「盗作だ」と断言すれば、一介の士官候補生であるヴァンの反論など誰も信じないはずだった。
だが、失敗した。
エリアスは宴会の席で、ヴァンの『戦争論』――戦争における摩擦という概念を突きつけられ、自ら気絶を装うという見苦しい手段でその場を降りた。
(しかも、あの老いぼれ……)
宴のあと、人けのない回廊の隅で、エリアスは確かにそう言ったのだ。
「――自分が間違っていた。あのような本物の才気を持つ若者を、我欲で潰さずに済んで、本当によかった」
負けた直後とは思えぬほど、その声は静かで、どこか晴れやかですらあった。
あのときコルネリアは、笑みを貼り付けたまま、心の中で舌を打ったのを覚えている。
「……反吐が出るわ」
コルネリアは低く吐き捨てた。
「求道者ぶって。自分の名誉が泥に塗れたというのに、何が『潰さずに済んでよかった』よ。ヴァン・ラークの才気に当てられて、自ら舞台を降りた? ……本当に、気持ちの悪い連中だわ」
あの老人の、純粋すぎる『学問への誠実さ』など、権力を弄ぶコルネリアにとっては理解不能の狂気でしかなかった。
彼女の完璧な盤面を引っ掻き回し、結果的にヴァンの価値をさらに高めるという最悪の結末を招いたのだから。
「殿下」
静寂を破り、侍女が部屋に入ってきた。
コルネリアの側近として、余計な感情を挟まずに事実だけを伝えるよう訓練された女だ。
「申し上げにくいのですが」
「言いなさい」
「……街で、新しい流言が広まっております」
侍女が淡々と語った内容は、短かった。
だが、コルネリアの氷のような理性を打ち砕くには十分だった。
――ノストラとの内通。
――人体実験への関与。
――魔導力不足を補うための、禁忌の術式の使用。
コルネリアは、美しい笑みを浮かべたまま、手元のティーカップを取った。
それを、何のためらいもなく。
ぱんっ、と大理石の床に叩きつけた。
上質な白磁が粉々に砕け散る。
「……あいつ」
地を這うような、低い声だった。
「ヴァン・ラーク……どこで知ったの。私がノストラの技術を使っていることを……」
答える者はいない。
「どこで――!」
ギリリ、と奥歯がきしむ音がした。
体の奥から、ドス黒く熱いものが這い上がってくる。
久しく忘れていた感覚だった。
魔力ランクがDしかないという、自身の根源的な劣等感。それを他者に暴かれ、嘲笑われる恐怖。
本物の、怒りだ。
コルネリアは立ち上がった。
猩紅色のドレスの裾を翻し、部屋の端まで歩いては、また戻る。
「あの男を評価していた私が馬鹿だった。ええ、軍情局やルキウスが注目するだけの才気はあると、そう認めてあげたのに。まさか、その牙をこの私に剥いてくるなんて」
気づけば、右手の親指の爪を苛立たしげに噛んでいた。子供のような、彼女の隠された癖だ。
侍女が、そっと近づいてきた。
「殿下、お手を」
「……わかっているわ」
コルネリアは手を下ろした。
深呼吸を、一回、二回。
ゆっくりと椅子に戻る。
背筋を伸ばし、大元帥の養女としての威厳ある姿勢を作り直す。
「冷静に、考えましょう」
自らの怒りを宥めるように言い聞かせた。
「今は、ヴァン・ラークの才気や私の目利きを云々している場合ではないわ」
問題は、そこではない。
この流言が、すでに大元帥アクィラの耳に届いているという事実だ。
軍情局のあのクラウスが、この機を逃すはずがない。
必ず、大元帥からの呼び出しがかかる。
『街で囁かれている人体実験の噂は、本当か?』と、あの圧倒的な威圧感をもって問い詰められる。
「必ず呼ばれる」
それだけは確実だった。
コルネリアはテーブルの上に黒い手袋のまま手を置いた。指先が、微かに震えている。
恐れではない。苛立ちと、屈辱だ。
「あの女と、生意気な小娘の遺したガキに、鼻面を引き回されるのは御免だわ」
考える。
整理する。
感情を一度、完全に脇に置く。
弁明だけでは足りない。
あの流言の「音量」を掻き消すだけの、巨大な話題性が必要だ。
帝都中の市民と、軍の首脳陣の耳目を一気に別の方向へと引きずり込むほどの、爆発的な騒ぎが。
「……大規模な実戦演習よ」
コルネリアは顔を上げた。
暗い瞳の中に、冷酷な光が戻っていた。
「副官」
「はっ」
部屋の隅に控えていた副官が進み出る。
「ルキウスに連絡を取りなさい。至急よ」
「……第二軍団長のルキウス殿に、ですか」
「ええ。『利害の話をしましょう』と伝えなさい。彼はきちんと損益計算ができる人間だから、わかるはずよ」
副官は一礼した。
「それから」
コルネリアは侍女に顔を向けた。
「マルクスも招きなさい」
「第一軍団長のマルクス様を、でございますか?」
「ええ。丁寧に、穏やかに。大元帥の第一候補として立てるようにね」
二人の軍団長。『改革派』のルキウスと、『守旧派』のマルクス。
大元帥の椅子を争う、有力な後継者候補たち。
侍女は命令を復唱しながら、小さく尋ねた。
「殿下。そのお二方を巻き込んで、どのような効果が……?」
コルネリアは薄く笑った。
「あのヴァン・ラークという男の『価値』を、根元からへし折るのよ」
「学院派は、とかく小難しい言葉が好きだわ。貴族の子弟が集まるサロンで、攻勢限界点だの摩擦だのと机上の空論を並べ立てれば、皆が感心して称賛する」
「それがあの男の、今の薄っぺらな立ち位置よ」
コルネリアは、窓の外に目を向けた。
帝都の空は、憎らしいほど澄んでいた。
「花瓶は、花瓶のままでいいの。知識階級に好かれ、戦棋という名の玩具を売り捌きながら、おとなしくしていればいい。それなら、誰の派閥も脅かさない。次の大元帥の椅子も、決して狙えない」
「ルキウスにとっても、マルクスにとっても。下手に戦術家として神格化されるより、ただの『口の達者な商人』に落ちてくれた方が、一番都合がいいはずだわ」
「大規模な実戦演習を仕組むのよ」
コルネリアの赤い唇が、残酷な弧を描いた。
「そこで、ヴァン・ラークに、その素晴らしい『机上の空論』を語らせてあげる。そして、圧倒的な武力と現実の戦場――暴力の前に、いかに彼の戦術が無力で乖離しているかを。皆の前で、惨めに証明させるの」
その演習の巨大な騒ぎは、確実に帝都の噂を上書きする。
大元帥の視線も、スキャンダルから軍事演習へと向くはずだ。
侍女は黙って頭を下げた。
副官は無言で頷いた。
二人とも、決して余計な口を挟まない。それがコルネリアの好みであり、長生きする秘訣だった。
「行きなさい」
二人が足音を忍ばせて部屋を出た。
コルネリアは一人になった。
足元には、砕けた白磁のカップの破片が散らばっている。
視線を落として、それを見た。
片付けるのは後でいい。今は、この痛みを覚えておく。
ヴァン・ラーク。
あの男の顔を、思い浮かべた。
宴会の夜に自分を真っ直ぐに見つめ返してきた、あの目。
何も恐れていないような、底の知れない澄んだ目。
あれは、かつて自分が何よりも憎み、嫉妬した、あの女――フィロメラと同じ目だった。
「……本当に、面倒な男を引き当てたわね」
独り言だった。
誰も答えない。
まだ戦争は終わっていない。
力で押し潰す。それが、このストラトクラティア帝国の真理なのだから。
【幕間VI・終】
面白いと感じていただけましたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります!




