第九十章:突破口は誰か
帝都、静かに騒がしくなっています。
誰もが「戦争論」を語り、
誰もが少しだけ分かった気になっている状態です。
そして今回は、久しぶりにヴィヴィアンとの対面です。
この人と会話すると、だいたい情報量が倍になります。
帝都の印刷所が、動いた。
大元帥府での夜宴から一週間。軍情局の工作員たちが暗躍し、街中の活版印刷機が休みなく音を立て始めた。
大手の出版社から、街角のうらぶれた小冊子屋まで、次々と「ある発言録」の注文が入る。
上等な装丁の厚い冊子もある。
粗悪な紙に刷られた、薄い一枚刷りもある。
だが、どれも内容は同じだった。
あの夜の大元帥府の祝宴を、幕僚たちの記憶を継ぎ合わせて書き起こしたものだった。
もちろん、完璧なものではない。
なにしろ、大元帥アクィラ・ソルの唐突な命令により、幕僚たちが手書きで記録したものだ。
「攻勢限界点」についての言及は、途中で記録が途絶えている。
「戦争計画における摩擦」の項は、複数の幕僚たちの曖昧な記憶を強引に継ぎ合わせて書かれていた。
論理が飛躍している箇所もある。軍事用語の解釈が完全に誤解されている箇所さえある。
効果は、劇的だった。
ヴァレリアン邸の正門に、面会を求める貴族や商人が並ばなくなった。
代わりに、帝都の至る所で、あの言葉が口にされるようになった。
「いいか、戦争は芸術なんかじゃねえんだよ」
場末の居酒屋で、将校が酒の回った客に向かってしたり顔で言う。
「戦争ってのはな、政治の延長なんだとさ」
市場の行商人が、隣の売り子に得意げに語る。
「――いや、つまりだな、『摩擦』ってのは補給線のことなんだよ」
誰も聞いていないのに、自称・戦術家の学生が広場で演説を始める。
正確かどうかは、もはや誰も気にしていない。
誰もが、その新しい概念を口にしたがっていた。
ヴァンは、その巨大な波に躊躇なく乗った。
まず、ローランを動かした。
飛ぶように売れている『帝国戦棋』の拡張パックの箱に、『ヴァン・ラーク監修』の一文を箔押しで入れさせたのだ。
それだけで、売り上げの桁が変わった。
一日の利益の報告を受けたとき、ローランは魔導計算機を弾く手を止めて天を仰いだ。
「……ヴァン、これもう僕が一生遊んで暮らせる額なんだけど」
「ご苦労だな、ローラン。引き続き量産体制を維持しろ」
「いや、ご苦労はこっちの台詞なんだけど!? 徹夜続きで顔色が最悪なんだよ!」
ローランはその週、学院の講義を三つ欠席したが、懐の重さの前に悪びれる様子は一切なかった。
そして、ヴァンはもう一つ、静かな毒を撒いた。
流言だ。
酒場の喧騒に紛れて、あるいは貴族のサロンの隅で、人から人へ、耳打ちで。
――コルネリア殿下は、ノストラと裏で通じているらしい。
――彼女は、ノストラの人体実験を軍事に転用している。
流言は、水に落ちたインクのように速く広がった。
大衆は半分信じ、半分疑う。
しかし、高貴な人間のスキャンダルほど、足の速いものはない。
それが、まだほんの入り口だったころ。
軍情局から、ヴァンに呼び出しがかかった。
軍情局の内部は、恐ろしいほど静まり返っていた。
案内されたのは、局長室ではない。局の奥深くにある、窓のない小さな応接室だ。
ヴィヴィアンは、すでにその机の向こう側にいた。
豪奢なドレスの下で、外接式の魔導骨格が八本の脚を折りたたむようにして彼女の上半身を支えている。
いつもの、優雅で気怠げな笑顔だ。
だが、その暗い瞳の奥だけは、決して笑っていなかった。
「いらっしゃい、ヴァン坊や」
「どうも、局長」
ヴァンも、促されるままに手前の椅子に腰を下ろした。
ヴィヴィアンは、一切の前置きをしなかった。
「コルネリアの噂」
「あなたが流したのね」
ヴァンは、改めてこの組織の情報収集能力に舌を巻いた。
路地裏で囁かれたばかりの流言を、わずか三日で発生源まで特定する。
「……ええ」
ヴァンはあっさりと認めた。
「否定しても、あなたの前では無駄だと思って」
「賢い子ね。素直なのは嫌いじゃないわ」
ヴィヴィアンはクスクスと笑った。
「でも、少し残念ね」
「なぜです」
「完全に事実無根の嘘よりも、半分だけ本当の噂の方が、足が速いのよ」
ヴァンは眉を上げた。
「半真半偽の流言の方が、大衆に伝わりやすいということですか」
「それにね」
ヴィヴィアンは魔導骨格の脚を一本、カチリと鳴らした。
「完全な嘘なら人はすぐに忘れるわ。でも、『もしかしたら本当かもしれない』という余地があると、人はその真実を確かめたくなるの。人は本質的に、他人の落ち度を疑いたい生き物だから」
「……なるほど。大衆心理の基本ですね」
ヴァンは少し考えた。
「では、コルネリアの隠し事に関する事実を交えて、もう少し真実に近い内容に仕上げましょうか」
「待って」
ヴィヴィアンは、細く白い手を上げて穏やかに遮った。
「もうその必要はないわ。――私、大元帥に呼ばれたの」
ヴァンはわずかに姿勢を正した。
「……あなたが?」
「ええ。早かったでしょう」
ヴィヴィアンは楽しそうに微笑んだ。
「あなたが思っているより、事態は彼の耳に近いところまで届いていたのよ。最初からね」
「大元帥は、あの流言の出所を軍情局に探らせたわけですか。なら、俺がこれ以上火に油を注ぐ必要はないですね」
「そういうこと」
ヴィヴィアンは頬杖をついた。
「ちなみにね、その時、彼に聞いてみたのよ。『閣下。この件について、手っ取り早く穏便な結果が欲しいですか? それとも、醜悪な真相が欲しいですか?』って」
「大元帥になんてことを聞くんですか、あなたは」
ヴァンは呆れたように言った。
「それで?」
ヴィヴィアンは、まるで少女のように声を立てて笑った。
「そうしたらね、あの人、私の鼻先に指を突きつけてこう言ったのよ」
「――『お前のような性根の腐った女は、今すぐこの場で首を刎ねてもいいんだぞ』って」
「……」
ヴァンは目を細めた。
「それは、完全に怒っていたのでは」
「ええ、怒ってたわね。久しぶりに彼の本気の殺気を感じたわ」
ヴィヴィアンはあっけらかんと言った。
「でも、私の首はまだこうして肩の上に繋がってる。あの人が私を殺さないということは、だからまあ、良しとしましょう」
ヴァンは短く舌を打った。
「大元帥が直々に動くほど大事になっているのに、あなたはまだ俺の件を隠蔽し、事態を静観するつもりですか」
「ええ。だって、まだ足りないの」
「足りない?」
「コルネリアという盤石な城を落とすには、もう少しだけ『重さ』が必要ね」
ヴィヴィアンは、指先を机の上で優雅に組んだ。
「でも、その重さは私の方で加えるから、あなたはもう彼女に直接手を出さなくていいわ」
少しの間があった。
ヴィヴィアンの瞳から、ふっと親しげな色が消えた。
純粋な、情報機関の長としての眼差しに変わる。
「ひとつだけ、聞いてもいいかしら?」
「どうぞ」
「あなたが大元帥府の禁区に潜り込んでいたこと。……そこで、何をしていたの?」
ヴァンは、すぐには答えなかった。
ヴィヴィアンも、それ以上は追及しなかった。
窓のない部屋の中が、奇妙なほど静かになった。
「……母が遺したものを、探しに」
ヴァンは、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。
「それだけです」
ヴィヴィアンの表情が、一瞬だけ、本当にわずかに揺らいだ。
何かを、核心を突くような何かを聞こうとして、口が少しだけ開いた。
だが、彼女はそれを飲み込み、そっと口を閉じた。
「……そう」
彼女はそれだけ言った。
再び、静寂が戻った。
ヴァンはその静寂を、あえて埋めようとはしなかった。あの『磁針』のこと、『一〇〇万メートル』のことを、彼女に話す義理はない。
ヴィヴィアンもまた、ヴァンの沈黙を咎めなかった。
ヴィヴィアンが先に空気を変えた。
「それで、ヴァン坊や。これからあなたはどうするつもり?」
「それは俺が聞くべきことでは?」
ヴァンは警戒を解かずに返した。
「あなたが全てを握って動いているんでしょう? 大元帥の意向を利用してコルネリアを追い詰める、完璧な計画があるはずだ」
「まあ、ね」
ヴィヴィアンは小さく笑った。
「でも、あなたの頭の中も少し覗いてみたかったの。――小さいゲームをしましょうか」
ヴィヴィアンは魔導骨格の脚の一本を器用に持ち上げ、その先端で机の引き出しを開けると、上質な紙と羽根ペンを二組取り出した。
一枚をヴァンの前に滑らせる。
「書いて」
「何を」
「今の膠着状態を打ち破るための、『突破口』となる人間の名前を」
ヴァンは紙を見た。
そして、わずか一秒だけ考えた。
黙ってペンを取る。
目の前で、ヴィヴィアンもペンを走らせていた。
彼女の細い指は、淀みなく、流れるように文字を綴る。
速い。迷いが一切ない。
二人が、ほぼ同時にペンを置いた。
紙を裏返したまま、机の中央へと寄せる。
「せーの、よ」
ヴィヴィアンが先に自分の紙を表に返した。
ヴァンが後から、自分の紙を開いた。
二枚の紙には、全く同じ名前が書かれていた。
――ルートヴィヒ
ヴィヴィアンは目を細めた。
今度は、口元だけでなく、目元までが本当に楽しそうに笑っていた。
「思った通りね。あなたも彼に目をつけたの」
【第九十章・終】
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