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第八十九章:それは、割に合わない

ワイルド、お疲れ様でした。


毒蜘蛛と狂犬に挟まれて生還して、

報告して、蹴られて帰る。

確かに割に合いません。


ただ、この男なりにちゃんと「生き延びる選択」をしているのが、個人的には好きなところです。

「……なるほどな」


ヴァンは低く呟いた。


「あの錠前師は、最初からクラウスの手先だったというわけか」


「そういうことみたいですァ」


ワイルドは完全にうなだれた。


「あっしたち、最初から軍情局に嵌められてたんですかねェ……」


「いや」


ヴァンは首を振った。


「俺たちが嵌められたんじゃない。俺が錠前師を探していると知ったヴィヴィアンが、気を利かせて口の堅い手駒を寄こしたんだ。最初から、あの女の仕掛けだったのさ」


(大元帥アクィラ・ソルが動いている)

(あの男は、大元帥府への侵入者を絶対に許さない。当然、軍情局に徹底的な調査を命じただろう)

(だが、ヴィヴィアン・クラウスは、俺が侵入したことを完全に把握した上で、証拠を揉み消し、見逃そうとしている)


ただ見逃すだけではない。そこには明確な意図がある。


「局長は、他に何か言っていたか」


「はい、ダンナへの伝言を預かっておりやす」


ワイルドは姿勢を正した。まるで軍人のような直立不動の姿勢になった。


「『アクィラ大元帥が、軍情局に今回の侵入騒動の調査を命じた。もし不都合な痕跡が出ても、こちらで揉み消しておく。このヴィヴィアンおばさんを信頼してちょうだい』、と」


「……」


「それから、もうひとつ」


ワイルドは続けた。


「『昨夜の宴会でのあの見事な演説……戦争論だっけ? あの件については、軍情局の工作員を使って、帝都中の酒場や貴族のサロンに噂を流しておくわ。ヴァン・ラークは本物の天才戦術家だってね』、と」


ヴァンは思わず眉を跳ね上げた。

昨夜の宴会。ルートヴィヒやエリアス・ベリサリウスとのあの一幕。


「……あの毒蜘蛛、そこまで先回りして動くか」


ヴァンは小さく息を吐いた。

ヴィヴィアン・クラウスという女は、やはり底が知れない。彼女はヴァンの身の安全を確保するだけでなく、軍情局の情報操作能力を使って、ヴァンを「帝国が失ってはならない天才」という象徴に仕立て上げようとしているのだ。

そうすれば、旧貴族派や他軍団も、おいそれとヴァンに手を出すことはできなくなる。


「伝言は以上ですァ」


ワイルドは揉み手をして見せた。


「ご苦労だった」


ヴァンは頷いた。


「……ひとつだけ聞いておくが」

「なんでしょうかダンナ」

「俺のことを、本当に売らなかったんだな。俺に言った話と、ヴィヴィアンに言った話で、内容に齟齬はないか」


ワイルドは、いつものへらへらした態度を消し、真剣な目つきになった。


「一切ありません」


きっぱりと言い切った。


「局長様がダンナを守る気でいるのは、あの場で嫌でもわかりやした。だったら、あっしはダンナに忠誠を誓う素振りを見せた方が、結果的に局長様からも『使い勝手のいい忠犬』として評価され、生き延びられるって計算したんでさァ」


一拍置いて、ワイルドは苦笑した。


「それに……局長様があれだけダンナを可愛がってるのに、あっしが保身のためにダンナを売るような真似をしたら……あの蜘蛛の脚で、脳天から真っ二つに裂かれてたでしょうからねェ」


「賢い判断だ」


ヴァンは頷いた。


「へへっ、ほめてくれやすか」

「ほめた」

「……ありがてえことで」


ワイルドは一瞬だけ大人しくなった。

だが、その一瞬の後、再びいつもの卑屈で図々しい顔に戻った。


「あのォ、ダンナ。ひとつよろしいですかね」

「なんだ」

「そのォ……補償とか、特別ボーナス的なものはないですかね?」


ヴァンは呆れたように顔を上げた。


「は?」


「いや、だってですよォ!」


ワイルドは大袈裟に両手を広げた。


「ヴィヴィアン局長と、ガイスト部長に同時に挟まれて、逃げ場なしの尋問を受けたんですよ!? あっしは今でも脚の震えが止まらないんですァ! 精神的損害、寿命の縮み具合! これらは相当なもんでさァ!」


「……」


ヴァンは三秒だけ考えた。


「ない」

「ないんですかァ!?」

「お前は五体満足で命があるだろうが」

「それが補償ってやつですかダンナ! 搾取もいいところですァ!」


ワイルドは大げさに肩を落としたが、すぐに顔を上げ、今度は妙に熱っぽい口調になった。


「しかし、ダンナ。あっし、ちゃんと聞いておりやすよ。元帥府での宴会の話。『戦争論』だっけ? 帝都中の酒場で、ダンナの名前が飛び交ってるじゃありやせんか。『帝国の至宝』だの『稀代の戦術家』だの。旦那は今や、この帝都で一番株が上がってるお方だ」

「……どこで嗅ぎつけた」

「へへっ、それが商売なもんで」

「で、その株がどうした」

「ですからね、ダンナ。そのうち金なんて、むこうから転がり込んでくるに決まってやす!」

「なるか、そんな簡単に。名声を現金に変えるには、時間がいる」


ワイルドは頭を抱え、深く深くうなだれた。


「つらい仕事だ……割に合わねえ……」

「そう思うなら早く帰って寝ろ。奥さんと娘が心配してるだろう」

「へい、帰りやすよ。……せめて今夜の飯代くらいは、ダンナのツケで飲み食いしてもよろしいですかい?」

「ダメだ」


ワイルドがさらに愚痴を続けようとしたその瞬間。

ヴァンは無言で一歩踏み込み、振り向きざまにワイルドの尻を容赦なく蹴り飛ばした。


「痛ッ!? 何しやすかダンナ!」


尻を押さえて飛び上がるワイルド。


ヴァンはため息をつき、冷たく言い放った。


「今、俺の手元に金がないのは知っているだろう。公債の処理と戦棋の展開で、今の俺の財布はそんなに余裕がない」

「理不尽ですァ! 労災がおりやすぜ!!」

「文句があるならヴィヴィアンのところへ行け。ほら、早く帰れ」

「へいへい、帰りやすよォ……」


ワイルドは尻をさすりながら、再び這うようにして部屋を出て行った。

扉が、今度は少し乱暴に閉まる。


廊下の向こうへ、ワイルドの足音が完全に消え去るのを確認してから。


「……戻ってこい、シンカク」


ヴァンは、誰もいない部屋の隅に向かって声をかけた。


一拍の空白。

空気がわずかに揺らぎ、まるで影が実体化するように、白い仮面の少女が姿を現した。


「……なぜ、わかった」


シンカクは静かに問うた。


「気配が完全に消えていたなら、ワイルドが入ってくる前から俺は何も感じなかったはずだ」


ヴァンは指摘した。


「途中から意識して消したな」


「……」


シンカクは何も答えなかった。それが肯定の証だった。


ヴァンは苦笑し、机の上に置いた磁針に再び目を落とした。

針の先は、変わらず北北西――遙か一〇〇万メートルの彼方を指して静止している。


(大元帥アクィラは、すでに刺客の痕跡を追っている)

(軍情局のヴィヴィアンは、それを逆手にとって俺を守るための盤面を構築し終えた)

(フィロメラの残した、世界をひっくり返す武器は、帝国の国境線の遥か外にある……)

(そしてシンカクは、俺がどこへ行こうとついてくると言っている)


情報が、あまりにも多すぎる。

帝都の権力争いだけでは、もう収まらない。


帝国の境外にある以上、それを手に入れるには相当な手間がかかる。

このまま箱が帝国領内に移動してくるのを待つべきか、それとも、一時的に帝国を離れる口実を見つけ出すべきか――。


ひとまず、今夜はここまでにしておくと決めた。




【第八十九章・終】

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