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第八十八章:蜘蛛と狂犬

ワイルド、よく帰ってこれました。


いや本当に。

あの場面、普通に死んでいてもおかしくないです。


そして今回は、軍情局。

毒蜘蛛と狂犬のコンビが出てきます。

ろくでもないです。

気配が、完全に消えた。

ヴァンが振り返ると、そこにはもうシンカクの姿はなかった。


部屋の隅にも影は落ちておらず、板張りの廊下から足音ひとつ聞こえてこない。彼女の隠密行動は相変わらず常軌を逸している。


「……相変わらず、無断で消える」


独りごちたその時だった。

窓の外から、かすかな物音がした。

続いて、部屋の扉の向こうから、誰かがひどく遠慮がちに廊下を踏む音が聞こえてきた。


扉が、そっと数センチだけ開く。


「……お邪魔しやす、ダンナ」


ワイルドだった。

彼は頭を極端に低くし、まるで雨の日に蹴り飛ばされた野良犬のような、ひどく惨めな顔つきで室内を覗き込んでいた。いつもの軽薄さは、欠片も残っていなかった。


「何しに来た」


ヴァンは腕を組み、冷ややかな視線を向けた。


「帝都から出ろと指示したはずだ。あの錠前師を連れて、ほとぼりが冷めるまで身を隠せと」


「……それがですァ、ダンナ」


ワイルドは、頭を掻きむしりながら部屋の中へ這い入った。


「その、なんと言いやしょうか。とんでもねえ事態になっちまいまして」

「何があった」

「……ご報告に上がらねえと、あっしの命が危ないかと思いましてねェ」


歯切れが悪い。

そして、あの常に周囲の情報をスキャンしているワイルドの目が、今は恐怖で泳ぎまくっている。


(こいつがここまで怯えているということは、よほどの想定外が起きたということだ)

ヴァンは黙って、先を促した。


「今朝方のことですァ」


ワイルドは、ひどく疲れた顔で語り始めた。


「宿屋で目を覚まして、さああの爺さんを連れてトンズラここうと、宿の出口に向かったんです。そうしたら……出口の前に、人が待ってやした」

「誰だ」

「……軍情局局長ですァ」


その名を聞いて、ヴァンの眉が微かに動いた。


「それと、もう一人護衛らしき男がいやした。特殊作戦部の部長だそうで……『ガイスト』と名乗りやしたよォ」


ヴァンは記憶の糸を手繰り寄せた。

軍情局・特殊作戦部。汚れ仕事や暗殺、敵対勢力の物理的排除を担う、局内でも最も血生臭い部署だ。

そして、そのトップであるガイストという男については、ヴァンも一度だけ噂を耳にしたことがある。


――『洗練された狂犬』。

あるいは、『戦闘狂』。


一見すると軍人らしからぬ細身の男だが、いざ戦闘になれば一切の感情を交えずに敵を肉塊に変えるまで止まらない、生粋の異常者。ヴィヴィアン・クラウスという強固な鎖がなければ、とうの昔に軍法会議で処刑されているような代物だという。


「……なるほど。ヴィヴィアンがわざわざ狂犬を連れて散歩とはな。それで、そのガイストはどんな様子だった?」

「えっと……その、黒いコートに黒いズボンで、噂に聞いてた戦闘狂のガイスト部長が、今、目の前に立ってる。」


ワイルドは両手を上下に動かし、必死に伝えようとする。


「なんていうか……服だけが歩いてるみてえな。細っこくて、顔色は死人みたいに真っ白で、目は笑ってねえのに口だけが三日月みたいに裂けて笑ってるんですァ」


「……説明が雑だが、言いたいことはわかる」


ヴァンは脳内でその姿を補完した。無駄な肉のない、純粋な殺戮のためだけに研ぎ澄まされた刃のような男。


「それで? 宿の入り口で捕まったのか」

「捕まった、というか、声をかけられたというか……」


ワイルドは盛大に肩を落とした。


「『主の傍を離れて、こんな朝早くから何をしているのかしら?』って、あの局長様に聞かれたんですァ」

「なんと答えた」

「『出張ですァ、ダンナの調査の手伝いで地方へ』と、あっしは適当に誤魔化しやした。それを聞いたガイスト部長が、いきなり声を上げて……」

ワイルドは、思い出すだけでも恐ろしいのか、顔を青ざめさせた。

「『まあ』って言ったんです」

「……まあ?」

「ええ。『まあ、そうなんですか。それはご苦労なことです』って。あの気味の悪い笑顔のままで」


ヴァンは状況を整理した。


「ヴィヴィアン本人がそこにいたんだな?」


「おりやしたとも。ええ、おりやした」


ワイルドは何度も頷いた。


「局長様は、あの『魔導骨格』に乗ったままでした」


ヴィヴィアン・クラウスは、過去の根源呪いによって全身不随となっている。

彼女自身は歩けず、移動には常に外接式の魔導義肢『魔導骨格』を使っている。美しいドレスに身を包んだ優雅な上半身の下に、無骨で巨大な八本の金属脚が蠢く様は、まさに巣の奥で獲物を待つ『毒蜘蛛』そのものだ。


「あの、蜘蛛みてえな八本の金属の脚で、石畳にカチャ、カチャって音を立てながら、あっしの目の前まで進んできたんですァ。局長様は、車椅子にもたれかかるような姿勢のまま、あの魔導骨格の脚を一本、あっしの喉元まで伸ばしてきやして……あの美しい笑顔のまま、こう聞いたんです」


ワイルドは唾を呑み込んだ。


「『あなたと同じ宿に泊まっていたお爺さん、昨夜から顔が見えなかったわね?』って」

「……」

「あっしは腰が抜けるかと思いやしたよォ!」


ワイルドは正直に白状した。


「でも、『ただの赤の他人ですァ、たまたま相部屋になっただけの知らない人です』って、一応はシラを切り通しやした。そうしたら局長様は『そう』って言ってクスクス笑うんです。あの笑顔が、ガイスト部長の殺気より何倍も怖かったんですァ……」


物理的に見下ろされているわけではない。だが、魔導骨格に支えられた彼女のその存在感と、底知れぬ眼差しによる精神的な制圧感は、並の尋問よりも遥かに強烈だったはずだ。


「続けろ」


ヴァンは短く促した。


「はい……次に局長様が聞いてきやした。『昨夜、大元帥府の禁区に何者かが侵入したらしいわね』と。『お前は、それについて何か知っているかしら?』と」


ワイルドは口をへの字に曲げた。


「もちろん知りません、あっしは帝都の端っこで酒を飲んで寝ていただけでさァと、石畳に額をこすりつけてがっつり土下座しやした」


「局長様はゆっくりと頷いて……そして、次の質問が飛んできやした」


ワイルドは一度言葉を切り、ヴァンの顔を恐る恐る見た。


「『あの侵入騒動に、ヴァンが関わっているのかしら?』」


沈黙が部屋に落ちた。


「……」


「その瞬間、ちょっと顔に出ちまいやした」


ワイルドは素直に認めた。


「出やすよ、そりゃあ出ますァ! あっしだって人間ですからね! でも、必死に考えたんです。超高速で脳みそを回しやした」


「で、出した答えは――『全く存じ上げません』、と」


ヴァンは目を細めた。


「あの毒蜘蛛と狂犬を前にして、よく言えたな」


「脚はガクガク震えてやしたし、漏らす寸前でしたよォ! それで、局長様はもう一度だけ念を押してきやした」


ワイルドは声を落とし、ヴィヴィアンの口調を真似るように言った。


「『もし何か知っているなら、今が最後の機会よ。あの坊やがこの件に関わっているなら、今ここで全て話しなさい。私が守ってあげるから』って」


重い、そして極めて誘惑的な言葉だった。

軍情局トップからの直接の保護。裏社会に生きるワイルドにとって、それ以上に甘い餌はなかった。

ヴァンも、微かに息を詰めた。


「それでも、俺を売らなかったのか」


「売りませんでしたとも」


ワイルドは、ひどく疲れた顔で、だが平然と言ってのけた。


「言ったら死ぬと思ったんで」


「もしあっしが、あの場でペラペラと旦那を売っちまってたら——」


ワイルドは自分の首を指でなぞった。


「今ごろ、あの狂犬に刻まれてましたよ。誰に頼まれたって、あの二人の前で漏らした情報が命取りにならねえわけがねェ。そう思いやした」


「……でも、一言も喋りませんでした。それだけは、信じてくだせェ」


ワイルドは乾いた笑いを漏らした。


「局長様が黙った後、後ろに控えていたガイスト部長が一歩前に出たんです。ああ、もう終わりだと思いヤシタ。あっしのスキャン視覚が、ガイスト部長から信じられないほどの高圧魔力が漏れ出してるのを捉えたんでさァ。脚は完全に終わってたんで、逃げる気すら起きやせんでした」


「だが、お前は今ここで生きている」


「ええ。ガイスト部長はあっしを殺さず、代わりに後ろに向かって一声かけたんですァ。『出てこい』って」


ワイルドは深く、深く息を吐き出した。


「そうしたら……あの宿屋の中から、あっしが逃がそうとしていたあの錠前師の爺さんが、何事もなかったみてえな顔で出てきやがったんです」


ヴァンは、ゆっくりと目を閉じた。




【第八十八章・終】

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