第八十六章:仮面の奥で、彼女は笑った
「笑ったのか、笑ってないのか」、正直なところ作者にもよく分かりません。
仮面って便利ですよね。
……ただ一つだけ言えるのは、
ヴァンはたぶん一生この件を引きずります。
結局、ヴァン・ラークはその日、一歩もヴァレリアン邸から出ることができなかった。
理由は、朝食の席でベルンハルトが放った一言に尽きる。
「いいか、公共秩序を乱すような真似はするな。……今日は一日、家で大人しくしていろ」
「いや、秩序を乱してるのは俺じゃなくて、門の外に集まってる人たちなんですけど」
「同じことだ。お前という『火種』が外に出れば、帝都の野次馬どもがさらに燃え上がる」
ぐうの音も出ない正論だった。
窓の外をちらりと見れば、邸の正門前にはいまだに軍の将校や一般市民、さらにはどこから嗅ぎつけたのか新聞記者らしき連中までがたむろしている。昨夜の元帥府での『戦争論』は、一夜にして帝都中の酒場の肴になっていた。
「……ま、いいか」
ヴァンは内心で小さく毒づきながら、自室の椅子に深く腰掛けた。
だが、やるべきことは山積みだ。懐には、昨夜命懸けで回収した三枚目のルーンの欠片が、その時を待つように静かに眠っている。
「さて、と……まずは彼女を呼ばないとな」
ヴァンは指先を軽く合わせ、小さな使魔魔法を発動した。
指先からこぼれた微小な魔力が、一羽の淡く光る小鳥の形をとって窓の隙間へと飛び去っていく。
それから間もなく。
窓枠が音もなく揺れ、一陣の春のそよ風と共に、白い仮面の女が室内に現れた。
「呼んだか、ヴァン」
シンカクは、まるで最初からそこにいたかのように、窓際に佇んでいた。
ヴァンは苦笑しながら、彼女を振り返る。
「外の様子はどうでした? まだ連中は粘ってますか?」
「ああ、門の前はさらに人が増えている。路上でも、あちこちでお前の名前が聞こえた」
「……何て言われてました?」
「『帝国の至宝』、『稀代の戦術家』……それから『不敬な私生児』という声も少々あったな。何かあったのか?」
ヴァンは派手に頭を掻きむしった。
「……いや、大したことじゃないですよ。ただの有名税です。外の喧騒は放っておいて、俺たちは俺たちの『正事』を始めましょう」
ヴァンはテーブルの上に、三枚のルーンの欠片を並べた。
歪な形をした金属の破片。だが、それらを近づけると、まるで磁石のように互いが引き合い、パズルのように完璧に噛み合った。
「……行くぞ」
かちり、という小さな、しかし重みのある音が響く。
三枚の欠片が一つになった瞬間、金属の表面に刻まれた複雑なルーン文字が、青白い燐光を放ち始めた。
やがて光が収まった時、テーブルの上には、手のひらサイズの瀟洒な銀の箱が鎮座していた。
継ぎ目も、鍵穴もない。ただ、ヴァンがそっと手を触れると、蓋が吸い込まれるようにスライドして開いた。
箱の中には、数通の封筒と、方位磁針に似た奇妙な魔導器が収められていた。
ヴァンはまず、封筒を手に取った。
一通目と二通目は、こちらは署名もなく、至ってシンプルな外装だ。
そして三通目。
それを見た瞬間、ヴァンは動きを止めた。
「……これ、あなた宛ですよ、シンカク」
ヴァンが差し出した封筒の表には、丁寧な、それでいてどこか躍るような筆跡でこう書かれていた。
――『鶴ちゃんへ』
シンカクは微動だにせず、その封筒を見つめていた。
「……開けてもいいですか?」
「構わない」
ヴァンが封を切り、中の便箋を広げる。
最初の一行を読んだ瞬間、彼の表情が引き攣った。
「読みますよ。……いいですか?」
「読め」
「後悔しないでくださいね。……コホン。……『親愛なる鶴ちゃんへ!』」
沈黙。
部屋の中に、耐え難いほどの静寂が流れる。
ヴァンは必死に笑いを堪えながら、横目でシンカクを見た。
「……あの、確認ですけど。この『鶴ちゃん』って、あなたのことですよね?」
「……そうだ」
シンカクは答えたが、ヴァンはもう限界だった。
彼女が、母親から「鶴ちゃん」などというラブリーな愛称で呼ばれていたとは。そのギャップに、腹筋が悲鳴を上げそうになる。
「……っ、ふ、ふう。……続けます。……『元気にしてる? もしかして、また仮面を被ってムスッとしてるんじゃないかしら? 女の子なんだから、もっとニコニコしなきゃダメだよ!』」
手紙の文体は、これまでの重厚な魔導工学のノートとは正反対だった。
「『これを読んでるってことは、例の三枚のパズルが解けたってことだね。さすが私の最高傑作のパートナー! さて、鶴ちゃん。あなたをある遺跡で拾い上げた時、本当はもっと完璧に魔導回路を書き換えるつもりだったんだけど……ごめんね、失敗しちゃった! 怒らないでね☆』」
ヴァンは額を押さえた。天才魔導学者フィロメラのイメージが、音を立てて崩れていく。
「『でもね、今のそのままのあなたでいいの。あなたは私の大切な夜鶯の歌を守る、誇り高い神鶴なんだから。……もし私がいない間に、あなたが一人で何でも背負い込もうとしていたら、隣にいる息子を頼ってね』」
手紙の終わりに近づくにつれ、まるで、そっと耳元に近づいて囁くような、そんな優しさがあった。
「『鶴ちゃん。私がいなくなって、寂しい思いをさせていないかな。誰かとちゃんと笑い合えているかな。……この手紙を読んで、ほんの少しでも私のことを思い出してくれたなら、それだけで私は、最高に幸せな母親になれるわ。じゃあね、愛してるよ! 私の可愛い、鶴ちゃん!』」
読み終えたヴァンは、便箋を静かに置いた。
シンカクは、ずっと窓の外を見つめたまま、微動だにしなかった。
「……シンカク?」
返事はない。
ヴァンはふと、以前彼女から問われた言葉を思い出した。
「『想う』っていうのは、どういうことなのか」と。
「……以前、あなたに言いましたよね。何かをする時、一緒にいてほしい誰かの顔が浮かぶなら、それが『想う』ってことだって」
「……ああ」
「浮かびましたか? 今、フィロメラの顔が」
シンカクは、ゆっくりと仮面をヴァンに向けた。
「……浮かんだ」
その声は、いつもの断定的なトーンではなかった。
どこか柔らかく、湿り気を帯びた――。
「……何かをするたびに、思い出していた。あの人の、馬鹿げた冗談や、呆れるような笑い顔を」
そして。
ふっ、と。
仮面の下から、微かな音が漏れた。
それは、喉を鳴らすような小さな鼻笑い。
いや、確かに「フフッ」という、含み笑いの響きだった。
ヴァンは、心臓が止まるかと思った。
三秒間、言葉を失って固まる。
「……おい、お前。今、笑ったか?」
「……笑っていない」
「嘘をつけ! 絶対に今、笑い声が聞こえたぞ!」
「気のせいだ」
「ノイズなもんか! シンカク、ちょっとその面を見せろ!」
ヴァンは勢いよく立ち上がり、彼女の仮面に手を伸ばした。
今この瞬間、向こう側にある表情を確認しなければ、一生後悔する気がした。
だが、その手は空を切った。
凄まじい速度で手首を掴まれ、岩のような握力で固定される。
「駄目だ。ヴァン」
「なんでだよ! 一瞬でいいだろ!」
「……他の手紙が残っている」
「そんなの後にしろ!」
「……正事が先だ」
掴まれた手首から伝わってくる力は、いつものように冷徹で、力強い。
しかし。
その声の末尾には、隠しきれない「笑みの余韻」が、陽炎のように揺れていた。
「……くそ、わかったよ。読めばいいんだろ、読めば」
ヴァンは不貞腐れたように椅子に戻った。
だが、その胸のうちは、帝都の昼の光よりも明るい何かで満たされていた。
「……でも、絶対に笑ってたからな。後で絶対に問い詰めてやる」
「……読みなさい」
ヴァンは震える手で、自分宛の封筒を開いた。
【第八十六章・終】
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