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第八十五章:騒がしい朝だ

今回は、ちょっと一息つく朝です。


元帥府より、朝の食卓のほうが騒がしい。

だいたい成功した翌日は、騒がしくなるものです。


ヴァレリアン邸の廊下は、深夜の静寂に包まれていた。

月は傾き、帝都の夜が底を打つころだった。


ヴァン・ラークは、自室の扉を音もなく開けた。

薄暗い室内。燭台の火はとっくに落ちている。

その代わり、寝台の縁に小さな影があった。


エレナが、椅子の背にもたれかかり、腕を枕にして眠っていた。

兄の帰りを待ちわびたまま、眠ってしまったのだろう。銀の髪が少し乱れている。


ヴァンは、しばらくその無防備な寝顔を見つめていた。

(……起こすか)

そう思い、足を踏み出した瞬間。


肩を軽く叩かれた。


ヴァンは振り返る。

シンカクが立っていた。


二人は声を落としたまま、視線を交わす。

ヴァンは小声で聞いた。


「どうだった。怪我は」

「ない」


ヴァンは、シンカクの外套を一瞥した。

裾がわずかに焦げている。だが、血の匂いはしなかった。


「相手は……やっぱり超越者(トランセンデント)だったか」

「そうだ」

「誰だった?」

「メイド長ヒルデガルドだ」


ヴァンは、少しだけ目を見開いた。

「……あのメイド長が」

「ランクSを遥かに凌駕していた」


シンカクは淡々と言った。

感情の起伏は、仮面のように平坦だった。


「それより」

「ああ」


ヴァンは外套の内ポケットから、ルーンの欠片を取り出した。

シンカクが、わずかに首を傾げる。


「見つかったか」

「ああ、見つかったよ」

「どこに」

「……本のしおりになってた」

「本の」

「『軍属女性たちの噂話記録』だ」


シンカクは、少しだけ沈黙した。


「母上のことだ、もっと複雑な魔導書の奥底とかに隠してあるのかと思ったら……まさか、あんなお局様みたいな趣味のノートに挟んであるなんてな」

「考えるな。今は休め」

「そうだな」


ヴァンは欠片を仕舞い込んだ。

「今夜はもう休む。ルーンの解析は、夜が明けてからだ。お前も戻って休め」


シンカクは窓の方へ歩き、窓枠に手をかけながら静かに言った。


「……彼女を起こすな。疲労が蓄積している」


ヴァンは、眠っているエレナを見た。


「起こすよ。このままじゃ体が痛くなるだろ」


「……そうか」


シンカクはそれだけ言い残し、音もなく夜の闇へ溶けていった。




ヴァンは、エレナの傍にしゃがみ込んだ。


「エレナ」


小さく呼ぶ。


「……んん」


「エレナ、起きろ」


もぞり、と動いた。

ゆっくりと目が開き、焦点が合うまで数拍かかった。


「……兄さ、ん」


「ただいま」


エレナはまばたきを繰り返し、それから、大きく息を吐いた。

張り詰めていた糸が解けたような、深い息だった。


「……帰ってきた」

「帰ってきたぞ」

「……よかった」


エレナは安心したように目を閉じかけた。ヴァンはもう一度、その肩を揺する。


「自分の部屋に戻れ。ここで寝たら体が痛くなる」

「……うん」

「俺は今夜、酒に酔って、ずっとこの部屋で寝てた」


エレナの目が、少しだけ開いた。


「……うん」

「覚えてるか?」

「……私が、ずっとそばで看病してたの」

「そうだ」

「……長かった。すごく、心配したんだから」

「お疲れ様」


エレナはのろのろと立ち上がり、乱れた髪を手で梳いた。


「……おやすみなさい、兄さん」


「おやすみ」


扉が静かに閉まる。

ヴァンは寝台に腰を下ろし、外套を脱いだ。

ルーンの欠片をもう一度だけ取り出し、三枚揃った薄い光を掌の中で確認してから、深く目を閉じた。




夜が明けた。

帝都の朝陽が、窓から差し込んでくる。


ヴァン・ラークは目を覚まし、天井を見つめて一つ息を吐いた。


(生きてるな)


当たり前の生存確認をして、起き上がる。


廊下に出ると、既に屋敷は動き始めていた。

すれ違う使用人たちが、ヴァンを見て一様に立ち止まる。

そして、なんとも言えない恭敬の表情――まるで神殿の御神体でも見るかのような顔で、深々と頭を下げてきた。


「は、はい、おはようございます!」


ヴァンは首を傾げながら食堂へと向かった。


(……なんだこれ。昨夜の宴の話が、もう広まってるのか?)


食堂の扉を開けた瞬間。


「おおっ! ヴァン! こっちだ、さあ座れ座れ!」


ベルンハルト・フォン・ヴァレリアンが、満面の笑みで手を振っていた。

あの百戦錬磨の老兵が、朝から顔を輝かせている。


ヴァンは素直に席に着いた。向かいには、まだ少し眠そうなエレナが座っている。

ベルンハルトはコホンと咳払いをして、真剣な顔を作った。


「昨夜のことだがな」

「はい」

「お前が言っていた、その、『摩擦』の話だ。エレナに説明してやってくれ。ワシが復唱したんだが、どうにも伝わらなくてな」


エレナが、すかさず口を挟んだ。


「お父様ご自身が、よく理解していらっしゃらなかったのでは?」

「わかっとる! わかっとるが、言葉にするのが難しくてだな。お前の兄ほど上手く言語化できんというだけだ!」

「同じことですわ」

「違う! 理解と言語化は別物だ!」

「どちらも兄さんの方が上だと申し上げているのです」

「……むぅ」


ベルンハルトが唸り声を上げる。

ヴァンは笑いをこらえながら、パンを千切った。


「説明しますよ」


二人の議論が止まる。


「戦争における『摩擦』っていうのは、計画と現実のズレのことです」


「うん」


ベルンハルトが素直に頷いた。


「戦場では、計画通りにいく方が珍しい。情報はずれ、兵は疲れ、天気も補給も思い通りにはならない。そういうズレ全部をまとめて、『摩擦』って呼ぶんです」


エレナが眉を寄せた。


「それは……どんな戦いにも必ず生じるものなの?」

「必ずです。問題は、摩擦を完全に排除しようとする指揮官と、摩擦の存在を前提として戦う指揮官では、結果が全く違うということです」

「どう違うの?」

「摩擦を前提にしていない指揮官は、計画が崩れた瞬間に止まる。最初から崩れるものだと考えている指揮官は、その先も動ける」


エレナは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言った。


「……それって、戦場だけの話じゃないわよね。なんでも、そうなのね」


「その通りです」


エレナは、兄の顔をじっと見た。


「……兄さん、これ自分で考えたの?」

「昨夜その場で整理しただけです。元々ある概念ですよ」

「でも昨夜初めて言ったんでしょう、あの場で」

「……まあ、そうですね」

「どうやって思いつくの?」


ヴァンが答えようとした瞬間。

ベルンハルトが、どんっ、とテーブルを拳で叩いた。


「決まっとるだろう!」


大声で笑いながら言った。


「帝国の軍隊が筋肉バカになりすぎて、見かねた軍神様が『こりゃいかん』と使いをよこした! 筋肉じゃなく頭脳で戦う天の御使いだ! それがウチの養子になった! そういうことだ!」

「違います」

「いや、そうだ!」

「違いますよお父様」

「そうだと言っておる!」


エレナが小さくため息をつく。


「お父様、少し落ち着いてください」


「ワシは落ち着いておる! これが落ち着いた状態だ!」


ヴァンは、静かに目玉焼きを口に運んだ。


(騒がしい朝だ)


だが、決して嫌ではなかった。




食事が半分ほど進んだころ。

早足の足音が近づき、食堂の扉が勢いよく開いた。

息を切らした使用人が飛び込んでくる。


「旦那様! た、大変です!」

「なんだ」

「外に……外に、軍の将校の方々と、それから商会の方も大勢いらっしゃって……若旦那様にお会いしたいと!」


沈黙が落ちた。

ベルンハルトは使用人を見、ヴァンを見、また使用人を見た。

その表情がどこか誇らしげに歪み、すぐに眉間に皺を寄せた。


「戦場では猪突猛進ばかりしていた連中が」


低く、吐き捨てるように言う。


「名が出たと分かると、すぐ寄ってくるのか」


「旦那様、どうされますか」

「全員追い返せ」

「えっ」

「我が家は今、朝食中だ。こんな朝早くから押しかけて来て、礼儀がなっとらん。だいたいワシらはこれから軍校へ行くんだ。邪魔をするな、と追い返せ!」


使用人はおろおろと頭を下げながら下がっていった。

食堂に静けさが戻る。

エレナが、静かにティーカップを置いた。


「……お父様、本当は嬉しそうですよ」

「うるさい」

「顔に出ていますわ」

「出ておらん」

「出てます」

「……紅茶をもってこい」

「話を逸らしましたわね」


ヴァンは、窓の外を一瞥した。

邸の門の前に、軍服や平服の人間が集まり始めているのが見えた。


(……なるほど)


内心だけで、静かに確認する。

宴の場で蒔いた種が、一夜明けて、もう芽を出した。

大元帥の幕僚が書き取った言葉が、夜のうちに権力の中枢から帝都全体へと伝播したのだ。


(悪くない)


今回の収支としては、十分すぎるほどだった。


パンの最後の一口を食べ終える。


「ごちそうさまでした」

「もう少しゆっくり食え」とベルンハルトが言った。

「お父様こそ、まだ半分残ってますよ」

「お前が話を聞かせるから、食う暇がなかったんだ」

「聞いてくれと言ったのはそちらでしょう」

「……うるさい」


エレナが、静かに笑った。




【第八十五章・終】

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