第八十四章:母の書棚
母の書斎。
そして、思わぬ形で見つかる最後の欠片。
……あと、たまに偉人は変なものも残します。
物音がした。
壁の向こうで、何かが始まったらしい。
金属が擦れる耳障りな音。魔力が弾ける乾いた炸裂音。
ヴァン・ラークは、路地の陰で数拍だけ呼吸を整えた。
(行くか)
外套の襟を立て、フードを深く被る。
向かうは外壁の脇にある通用口だ。
潜入における最大の壁は、シカラン・レイセンによる全周魔力索敵だ。魔導回路を持つ者が近づけば、即座にその位置が看破される。
だからこそ、ヴァンはあえて堂々と歩くことを選んだ。
(魔力を持つ者として、堂々と歩けばいい)
衛兵は魔力の有無で判断する。
不審な動きで判断する。
祝宴の際に目星をつけていた、物理錠と魔力錠の二重構造の扉。そこをあえて避け、より奥まった北棟の勝手口を目指す。廊下の角を曲がるたびに、本物の衛兵とすれ違った。五歩、三歩、二歩。だが、誰も振り返らない。
(シンカクが全部、注意を引いてくれてるおかげだな)
心の中でだけ、相棒に感謝を送った。
北棟は、元帥府の本棟のさらに奥だった。
人通りが、薄くなった。
宴の後片付けをする使用人たちの声が、遠くなった。
そしてヴァンは、目的の扉の前に立った。
石造りの、重い扉だった。
魔導感知に引っかかる気配はない。
鍵穴を覗き込んだ。
(……物理錠だけか)
拍子抜けした。
ここまで来て、これだけか。
だがすぐに思い直した。
フィロメラは、魔導の申し子だった。
だからこそ知っていたはずだ。
魔法の鍵は、魔法で開けられる。
最後に残るのは、物理だ、と。
ヴァンはポケットから魔導器を取り出した。小さなガラス管に封じられた、特殊な銀色の粘性液体だ。
物理錠の鍵穴に管を押し当て、液体を注ぎ込む。流動性の金属が生き物のようにシリンダーの奥へと這い入り、内部のピンの凹凸に合わせて瞬時に硬化。完璧な合鍵へと自律造形された。
カチリ、と。扉は音もなく開いた。
中は、暗かった。
ヴァンは扉を閉めてから、懐の小さな魔導灯を低く灯した。
光が、部屋を薄く照らした。
工作台があった。
書棚があった。
ソファがあった。
奥に、小さな寝台があった。
整然としていた。
しかし。
人が生活していた痕跡が、確かにあった。
書棚には、びっしりと本が並んでいた。
工作台の上には、細かな部品と走り書きのメモが残っていた。
ヴァンは、その光景を眺めた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
頭の奥に、像が浮かんだ。
ランプの光の下。
一人の女が、書棚の前に座って、何かを書いている。
細い指が、ペンを走らせる。
その文字が、やがて一冊の手帳になり。
巡り巡って、ヴァンの手に渡った。
高圧魔力の原理が書かれた、あの筆記。
(……母上)
それだけ思って。
頭を振った。
今は感傷に浸る時間ではなかった。
十五分しかない。
動け。
まず、壁の絵画に手を伸ばした。
裏を確認した。
何もなかった。
枠の隙間も、見た。
何もなかった。
次に寝台。
枕の下。
マットレスの縁。
何もなかった。
床を踏んだ。
音が変わる箇所を探した。
どこも、同じ音だった。
壁を叩いた。
隠しスペースを探した。
見つからなかった。
(……もっと単純なところか)
ヴァンは書棚の前に立った。
魔導灯を持ち上げて、背表紙を読んでいった。
魔導工学の基礎。
魔力回路の設計理論。
帝国の軍事史。
錬金術的素材論。
………
「……なんだこれ」
思わず、声が出た。
一冊の本が、そこにあった。
タイトルは。
『軍属女性たちの噂話記録』
字体に、見覚えがあった。
あの筆記と、同じ筆跡だった。
「……母上」
ヴァンは、その背表紙を見つめた。
「そういう趣味もあったんですか」
返事は来なかった。
当たり前だった。
ため息をついて、手を伸ばした。
引き抜いた。
ずっしりと、重かった。
書き込みが、相当な量あるようだった。
しおりが挟まっていた。
最後のページ近くだった。
開いた。
そして。
しおりを、指でつまんだ。
それは、しおりではなかった。
金属製だった。
薄くて、細くて。
見慣れた形をしていた。
ルーンの欠片だった。
三枚目だった。
「…………」
ヴァンは、しばらくそれを見ていた。
それから、本のページに目を落とした。
読んだ。
ほんの数行。
『────の奥方が、昨夜また御主人と口論されたそうで、理由が鎧の手入れを怠ったことだとか。武人の妻というのも、なかなか大変なものですね。そういえば第三部隊の副官さんですが、先日こっそり花束を……』
「……本当に書いてる」
確かに、書いてあった。
ちゃんと書いてあった。
誰かの恋愛事情が。
誰かの夫婦喧嘩が。
丁寧な筆跡で、楽しそうに。
ヴァンは、本を閉じた。
そっと、棚に戻した。
「……失礼しました」
誰もいない部屋に向かって、小さく言った。
ルーンの欠片を、外套の内ポケットに収めた。
(三枚、揃った)
それだけを確認して。
扉へ向かった。
帰り道は、行きよりも静かだった。
廊下の角を曲がるたびに、足を止めた。
巡回の足音が遠ざかるのを待った。
一度、向こうから衛兵が来た。
ヴァンは壁の影に張り付き、心臓の音すら押し殺した。
足音が、近づいた。
通り過ぎた。
足音が遠のく。
ヴァンは影に紛れて元帥府を後にした。
路地に出たとたん、体の芯から力が抜けた。壁に背を預け、静かに一度だけ息を吐いた。
(……終わった)
同じころ。
元帥府の中庭で。
シカラン・レイセンは空中に立っていた。
正確には、浮いていた。
右腕に凝結した大弓を構えながら、全周を見渡していた。
侵入者の報せが入った瞬間、彼女は索敵魔法を展開していた。
魔導回路を持つ全員が、視界に浮かび上がった。
衛兵。
使用人。
残った幕僚。
全員の位置が、見えた。
異常は、なかった。
(……すでに脱出した後か)
舌打ちをこらえた。
シカラン・レイセンは大弓を解き、静かに降下した。
「ヒルデガルド。刺客の正体は」
「……逃げられました」
ヒルデガルドの答えに、シカランは眉を寄せた。
「あなたの手から、逃げたというのですか」
「不夜城の『カスパー剣陣』使いです。実力はこちらが上でしたが、逃走にのみ特化していた。捕らえられませんでしたわ」
ヒルデガルドは無表情のまま、シカランに問いかけた。
「他に刺客の気配は?」
「……索敵には誰も引っかかりませんでした」
ヒルデガルドは頷き、本棟へと視線を向けた。
「ええ。事後処理は貴女に任せます。私はこれより、大元帥閣下へご報告を」
「了解しました。周辺の警戒を再編します」
【第八十四章・終】
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