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第八十三章:仮面と糸

夜の元帥府。

そして、思った以上に強すぎるメイド長。

夜の帝都を、二つの影が静かに滑っていく。

遠く元帥府の威圧的な外壁が闇夜に浮かび上がってきた頃。


ヴァン・ラークは、ふと歩みを止めた。


「……待て」

「何だ」

「あんた、魔力がない」


シンカクも立ち止まる。


「そうだ」

「元帥府の全域には強力な魔力感知網が敷かれている。魔力のない人間が入れば、かえって目立つ……それは」

「知っていた」


ヴァンが顔をしかめる前に、シンカクは無言で外套の内側に手を差し入れた。

取り出されたのは、あの宿屋の部屋に置かれていた安物の魔導灯だった。


ヴァンは、目を丸くした。


「……おい、お前」

「魔力発生源を外部に持たせる。これを持っていれば、環境魔力と同化し、感知の網に引っかかりにくくなる」

「…………」

「何か」

「いや」


ヴァンは口元を手で覆い、肩を震わせた。

心臓が、変な跳ね方をした。


「あんた……いつの間にそんな小賢しい真似を覚えたんだ?」

「余計なことを考えるな」

「いや、前のあんたなら、俺が指示するまで魔導灯を持ち出すなんて機転は利かなかったはずだぞ」


シンカクは、少しの間沈黙した。


「……俺が指示するまで突っ立ってるんじゃないかと、少し心配してたんだがな」


ヴァンは短く息を吐き、口元の緩みを隠すように表情を引き締めた。


「もう一つ問題がある」


ヴァンは、シンカクの腰元にあるでかい得物を一瞥した。

戦鎚だ。


「武器も替える。少し待て」


彼女は、路地の陰に消えた。


数分も経たないうちに戻ってきた彼女の姿は、完全に変わっていた。

深いフードを被り、戦鎚は消え失せている。代わりに、ずっしりと重そうな長方形の革袋を背負っていた。


「……なんだそれ。戦鎚はどうした」

「置いてきた。代わりに刀剣類を複数用意した」

「なんで複数なんだよ」

「偽装のためだ」


シンカクは淡々と答える。


「複数の刀剣を魔力糸で操り、浮遊砲のように展開する法術陣がある。『カスパー剣陣』だ。あの女の目なら、そう誤認する可能性が高い」


ヴァンは、まじまじとその仮面を見つめた。

仮面が返してくるのは、自分の呆れた顔だけだったが。


「……おいおい、元帥府の連中についてまで調べてたのか」

「敵地に侵入する以上、脅威度評価は当然のプロセスだ」

「……」

「何か」

「いや、感心してるんだよ。お前、本当に優秀になったな」

「肯定する」

「そこはもう少し謙遜しろよ」


ヴァンは頭を掻き、ニヤリと笑った。


「行くぞ」


「了解」




元帥府の外壁が、目の前にそびえ立っている。

石造りの高い壁。天辺には魔導灯の明かりが等間隔に並び、外壁の向こうからは衛兵の規則正しい足音が聞こえる。


ヴァンは息を潜めた。

シンカクが、振り返らずに言った。


「騒ぎが起きたら、動け」


それだけだった。

次の瞬間。音もなく。


影が、跳んだ。


五メートルはある高い壁を、ひと跳びで超えていった。


ヴァンはその非常識な身体能力を見上げながら、内心で悪態をついた。


(……相変わらずの化け物め)




壁の向こう。夜の庭園。

シンカクは着地と同時に、足音を消した。


前方、遠くに明かりが灯っている。大元帥アクィラ・ソルの私室がある本棟だ。


シンカクは一直線にそこへ向かった。

目的は単純だ。超越者(トランセンデント)を引き出し、時間を稼ぐ。ヴァンが北棟に潜入し、用を済ませるための十五分を作る。それだけだ。


本棟の入り口が、目の前にある。

その前に立ち、扉の向こうの気配を探った。


重い。

息が詰まるような、濃厚で粘り気のある魔力の圧迫感が、分厚い扉の向こうから滲み出ている。

確かに、いる。


シンカクが一歩踏み出した。

その瞬間。


扉が、開いた。

内側から。音もなく。




現れたのは、女だった。

漆黒のワンピースに、純白のエプロン。メイド服に身を包んだその女は、細い指先で扉の縁を持ち、静かに引いて閉めた。

振り返り、シンカクと目が合う。


一瞬の静寂。

メイド長ヒルデガルドは、完璧な無表情を崩さなかった。


「……どちら様でしょう」


礼儀正しい、だが温度のない声。


「迷子になった」

「……迷子」

「そうだ」

「元帥府の中に迷い込み、幾重もの警備をすり抜け」

「ああ」

「大元帥閣下のご私室の前に?」

「そうだ」


ヒルデガルドは、少しだけ首を傾けた。


「それを、私が信じると思いますか」


シンカクは頭を下げた。


「申し訳ない。すぐに立ち去る」


踵を返す。

その背中へ。


「元帥府は」


ヒルデガルドの声が、氷のように静かに追いかけてきた。


「来たい者が来て、帰りたい者が帰れるような、安い場所ではありませんよ」


ゆっくりと、白い手が持ち上がった。

五本の指が空中に向けて広げられ――


ぎゅっと、握り込まれた。




ぶわっ、と。

空気が、無数の極細の光線で埋め尽くされた。


糸だった。

魔力によって凝結した、鋭利な鋼線のごとき魔力糸。

上から、横から、斜めから。シンカクを中心に、逃げ場のない死の網が瞬時に展開された。


(触れれば、爆ぜる)


シンカクは危険を察知した。


彼女は革袋に手を突っ込み、中身を夜空に放り投げた。

数本の長剣。

そして、左手と右手でそれぞれ一本ずつ剣を握り、こまのように回転した。


自身の体の軸を中心に、二振りの剣が描く銀色の円が、迫り来る魔力糸を斬り払う。


ババババッ!


結界に触れ、糸が弾け飛ぶ。爆発の衝撃が押し寄せるが、シンカクは剣の腹で器用にそれを逸らした。

金属が擦れる甲高い悲鳴と、魔力が爆ぜる乾いた轟音が、夜の回廊に響き渡った。




ヒルデガルドの完璧な無表情が、初めて崩れた。


「……カスパー剣陣」


静かに、つぶやく。


「不夜城の者ですか」


シンカクは何も答えない。

だが、その沈黙こそがヒルデガルドにとっては十分な答えだった。


何かが、メイド長の中で切り替わった。

ぞわり、と。気配の質が、殺意へと変貌する。


魔導回路が悲鳴を上げるほどの魔力が、彼女の全身から溢れ出した。

強化の最大出力。


まるでコマ送りのフィルムをすっ飛ばしたかのように。

一瞬にして、空間そのものを跳躍したかのような理不尽な踏み込みで、ヒルデガルドが距離をゼロに詰めていた。


(速い)


シンカクは後退しながら、迎撃の剣を振るった。

だが、ヒルデガルドの白魚のような拳が、剣の側面に叩き込まれた。


ガァンッ!


硬質な金属音が響き、鋼の長剣が根元からへし折れた。

砕けた破片が石畳に飛び散る。


次の剣を抜く。打たれる。砕ける。

また抜く。今度は二発。砕ける。

さらに抜いた瞬間、柄ごと弾き飛んだ。

ヒルデガルドの拳に宿る魔力密度は異常だった。ただの打撃で、鉄の剣がガラス細工のように粉砕されていく。


だが、ヒルデガルドの眉間にも皺が寄っていた。


(当たらない)


剣は砕ける。だが、その先の肉体に、かすりもしない。

一発も。

袖口にも、兜帽の端にも。


打てばそこには残像しかなく、流れるように引き、抜け、また別の角度から現れる。

ヒルデガルドの圧倒的な速度に、完全に追従しているのだ。


(敏捷性が、異常だ……!)


ヒルデガルドの瞳に、冷たい熱が灯った。


「逃がしません」


追う。

回廊を。石段を。

庭園へと飛び出したシンカクを、魔力で加速したヒルデガルドが猛然と追走する。




ヴァンが北棟に潜入するための時間は、これで稼げた。

あとは、仕上げの偽装だけだ。


シンカクは急停止し、振り返った。

ヒルデガルドが、恐るべき速度で踏み込んでくる。


シンカクは、布袋を掴んだ。

残りの刀剣を、全て掴んで。

投げた。一気に。

十数本が、夜空に舞い上がる。その全ての柄を、一気に叩き込んだ。


たたたたたたっ!


十数本の刀剣が、本物の浮遊砲のごとく、一斉にヒルデガルドへと襲い掛かる。

空気を引き裂く重い金属の豪雨。


「チッ」


ヒルデガルドは短く舌打ちし、両腕を広げた。

無数の魔力糸が瞬時に広がり、幾重にも重なり合って、強固な網の盾を形成する。


ギィィンッ!


次々と飛来する刀剣が、糸の盾に弾き返され、無力に地に落ちていく。

全て防ぎ切った。


盾の向こうで、ヒルデガルドは小さく息を吐いた。


(対象をロックしない飛剣。複数刀剣の同時展開。法術の流派は間違いなくカスパー系譜……)


確信を得て、視線を上げる。

だが、そこにはもう、刺客の姿はなかった。外壁の向こうへ消えた後だった。


彼女の最優先事項は『暗殺者の排除』ではなく、『主の護衛』だからだ。

ヒルデガルドは、追わなかった。



(カスパー系譜の使い手が、なぜ此処に)




【第八十三章・終】

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