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第八十二章:好機は今夜だけ

今回は、潜入準備回です。


シンカクみたいな人は、

本当に便利なので助かります。


潜入を手伝う。

囮になる。

追われたら逃げる。

帰還したヴァン・ラークを待っていたのは、寝室と、湯冷めしないうちに飲めと言われた薬湯だった。

そこにいたのが、エレナ・ヴァレリアンだった。


「兄さん、横になって」

「いや、もう平気ですよ」

「横になって、と言ってます」

「……はい」


有無を言わせない声音だった。


ヴァンは素直に寝台に横になった。


掛け布をかけられた。


エレナは椅子を引いて寝台の脇に座り、膝の上の本を開いて読み始めた。


どうやら、帰るつもりがないらしかった。


(まずい)


ヴァンは天井を眺めながら、内心だけで舌を打った。


今夜、宴が終わった後。


元帥府の警備は緩む。


賓客は帰り、使用人は後片付けに追われ、将校は酒が抜けきらないまま自室に引き上げる。


外壁の衛兵は交代前で気が緩む。


アリバイは完璧だ。


「大人しく酔って帰った軍校生」など、誰も疑わない。


今夜を逃せば、次にいつ同じ条件が揃うか分からない。


(……しかし)


視線だけ横に向けると、エレナが静かにページをめくっていた。


「……エレナ」

「なに」

「……寝なくていいんですか、もう遅い」

「兄さんが寝るまで、いる」

「俺は大人なので、一人で寝られますよ」

「知ってる。でも、私はここにいる」


これ以上は無駄だ、とヴァンは判断した。


深く息を吸い込んで。


「……エレナ」

「なに」

「正直に言います」


エレナが、本から目を上げた。


「俺、今夜出かけます。外に行かないといけない用事がある」


沈黙。


「……どこへ」


「それは言えません。でも、言えないのはやましいことじゃなくて、あなたに余計な荷物を背負わせたくないからです」


エレナは、しばらくヴァンを見ていた。


ヴァンも、目を逸らさなかった。


「……で、私に何ができる? 何が必要? 危険なことなの?」

「少しは危険が伴う……ですが、俺にしかできないことなんです」

「いつ、帰ってくる?」

「夜明けまでには戻る」


また、沈黙。


エレナは本を閉じた。


膝の上に置いたまま、真っ直ぐヴァンを見て。


「わかった」


それだけ言って、立ち上がった。


「気をつけて、兄さん」

「……ありがとうございます」

「秘密は守る。私はここで兄さんの帰りを待ちます。もし夜明けまでに帰ってこなかったら……お父様とお母様にすべてをお話ししますわ」


ドアが、静かに閉まった。


ヴァンはしばらく天井を見ていた。


(……妹に恵まれた)


その一言だけ、心の中でだけ呟いた。


起き上がり、窓を開けた。




冷気が、ざっと顔を打った。


帝都の路地を抜け、辿り着いたのは古びた宿屋の一室。


「開いてる」


部屋に入ると、シンカクは窓際に立っていた。


「元帥府へ行く。潜入がバレた時は……俺をあそこから『釣り上げて』くれ。脱出の接応を頼みたい」


ヴァンは部屋の中央で立ち止まった。


シンカクは、少しの間、答えなかった。


仮面の下の表情は、読めない。


「了解した……ですが、別案があります」

「聞かせろ」

「私が守衛の注意を引きます。ヴァンは、その間に潜入してください」

「却下」


即答だった。


「お前が動けば元帥府の連中が全員起きる。あそこは静かに入らないと意味がない」


「それが問題だ」


シンカクは窓の外へ目を向けた。


「ヴァン。外から潜入するなら、まず外壁の哨戒を突破しなければならない。衛兵の配置、魔導感知の位置、それを全部避けながら北棟まで行く。難しい」

「どのくらい難しい」

「シカラン・レイセンがいる」


ヴァンは黙った。


全周の索敵魔法持ちのS級弓手。


「それだけじゃない、ガイウス・アウレリアン」


「……それくらいは知ってる」


シンカクが、一拍置いた。


超越者(トランセンデント)が、一人」


ヴァンは、息を止めた。


「……は」

「元帥府には、化け物が一人隠れている」

「……それ、あんた本当に確かめたんですか」

「確かめた」

「……」


ヴァンは、片手で額を押さえた。


超越者。


規格外の力を持つ、この世界で最も上位に位置する存在。


「……アクィラですか」

「わからない」

「わからない?」

「元帥府に、超越者が一人いる。アクィラ・ソルかもしれない。あのメイド長かもしれない」


ヴァンは目を細めた。


「普通、どっちか分かるでしょう」

「アクィラ・ソルは、かつてランクSだった。だが負傷してからは、実戦に出ていない。以来、誰もその力を見ていない」

「……つまり」

「今の彼が超越者なのか、ランクS止まりなのか、私には判断できない。気配だけでは、断定できない」


ヴァンは腕を組んだ。


沈黙が落ちた。


(超越者がいるかもしれない場所に、今夜潜り込む)


理性が、警報を鳴らしていた。


リスクが高すぎる。


命を賭けてまで、今夜決行する必然性。それがあるのか。


(……でも)


今夜は宴だった。


会場には帝国の要人が集まり、元帥府は内側の接待に全力を使った。


外部警戒は薄れている、はずだ。


自分には不在場証明がある。


酔った軍校生として、ヴァレリアン邸に帰った記録がある。


もし何かあっても、表向きは「無関係」で押し通せる。


(次に同じ条件が揃うのは、いつだ)


分からなかった。


分からないからこそ、胃の奥が重かった。


「……やめとくか」


呟いた。


「次の機会を待つという選択もある」


シンカクが言った。


「判断はお前がする」


ヴァンは、床を見ていた。


腕を組んだまま、考え続けた。


考えながら、引っかかっていた。


(でも今夜は、本当に好機だ)


頭が、勝手に計算を始めた。


宴の余韻で守衛の集中力は落ちている。


今夜中に片をつければ、明日からの動き方が変わる。


フィロメラの残した三枚目の符文欠片。


それさえあれば――


「……しばらく」


シンカクが、唐突に言った。


ヴァンは顔を上げた。


「私が、時間を作る。十五分」

「……どうやって」

「守衛の注意を引く。お前が北棟に到達するための時間を稼ぐ」

「それは」


ヴァンは眉を寄せた。


「命を懸けるということですか」


シンカクが、少しの間、沈黙した。


仮面の向こうで、何かを考えているのかもしれない。


「……違う」


「違う?」


「逃げる」


ヴァンは、瞬いた。


「追われたら」

「……」

「追われたら逃げる。それが最適解だ。命を捨てる理由はない」

「あんた今、わりと普通なこと言いましたよ」

「普通のことを言った」

「……そうですね」


ヴァンは、腕を組んだまま、もう一度だけ思考を回した。


十五分。


シンカクが逃走しながら稼ぐ時間。


それがあれば、北棟にたどり着ける。


あとは、腕次第だ。


「鍵の魔術師の遺産と、あんたの武力。それに俺の悪運。……これだけ揃って、引き下がる理由はないだろ」


ヴァンは窓枠に足をかけた。夜風が、前髪を揺らした。


「行くぞ、シンカク。夜明けまでに仕事を終わらせる」


「了解」




【第八十二章・終】

あと今回は、エレナが思った以上に強かった回でもありました。

静かな人ほど、強い。たぶん。


面白いと感じていただけましたら、

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