第八十章:戦争論
今回は、ついに宴の空気が変わります。
祝宴の席で始まる、思わぬ告発。
追い詰められるヴァン。
剣ではなく、言葉で戦う夜。
沈黙が、一瞬だけ宴会場を支配した。
三十年前の手稿。ノストラの大導師による「盗用」の告発。
四面楚歌の状況下で、ヴァンはグラスを持ったまま、エリアスの深い瞳を真っ直ぐに見返した。
「一つだけ、聞かせてください」
穏やかな声だった。
急いでもいないし、焦ってもいない。
「その三十年前の貴方の教え子の手稿には――『鎌計画』や『シュリーフェン計画』といった構想も、記されていましたか?」
エリアスが、ピタリと動きを止めた。
老賢者の目に、初めて明確な戸惑いが浮かぶ。
「……何だと?」
「似たような発想の構想が、他にもその手稿にあったかどうか、ということです」
エリアスは短い沈黙の後、訝しげに答えた。
「……いや。わしの知る限り、その手稿一冊だけだ。そのような名の計画は聞いたことがない」
「そうですか」
ヴァンはそれだけ言って、ゆっくりとグラスに口をつけた。
周囲が、ざわめいた。言い訳すらせず、余裕を見せる少年の態度に戸惑っているのだ。
すかさず、コルネリアがエリアスに向かって、ひどく憂慮したような表情を作った。
「お待ちください、閣下。似たような機動戦術の構想など、兵法の歴史を紐解けばいくらでも転がっているのではなくて? ヴァンが過去の戦史から独自にそれを組み上げた可能性も、十分にあるはずですわ」
エリアスは首を横に振った。
「……表面的な類似ならば、わしも口は出さぬ。だが、この手稿にある兵站の細部、行軍の順序、その思想の『根』が恐ろしいほど一致しているのだ。ただの偶然で片付けるには、あまりにも不自然すぎる」
「だとしても、これだけで『盗用』と断じるのは証拠として弱すぎますわ。帝国の英雄を、状況証拠だけで罪人扱いしようなどと……いくらノストラの導師様であっても、少し横暴ではありませんこと?」
「わしは彼を断罪しに来たのではない、コルネリア殿」
エリアスは、厳しい声で言い放った。
「ただ、真実を知りたいだけだ。この恐るべき戦術の『本質』を、この年端もゆかない少年が、本当に理解して運用しているのかどうかをな」
二人の言葉が、巧みに絡み合う。
赤と白。攻めと守り。
だが、その両方がヴァンを「盗用者」として追い詰める刃になっていた。
そこへ――
「聞こえたか、貴様ら!」
突如、癇高い声が響いた。
人垣を乱暴に掻き分けて前に出てきたのは、第一軍団のルートヴィヒだった。
片手にワイングラスを握りしめ、隠しきれない興奮と歓喜で顔を真っ赤に紅潮させている。
「ふざけるな! ノストラの手稿をどこからか不正に手に入れていたとなれば――それはもう戦術の盗用では済まん! 敵国との内通ではないのか!」
勝ち誇った顔。今すぐヴァンを断罪したくてたまらない、ひどく急いだ足取り。
ヴァンは、その醜悪な顔を眺めながら――ああ、と思った。
(なるほど。そういうことか)
今日の昼。主棟の入口で彼が吐き捨てた言葉が、一本の線で繋がった。
『今夜、覚悟しておけ』
『貴様の化けの皮が剥がれる瞬間を、この目で見届けてやる』
あれは――今夜のこの「大導師による告発劇」を、事前に知っていたからこそ出た言葉だ。
ヴァンは静かにグラスを置いた。
「ルートヴィヒ閣下」
静かに、はっきりと、声を通す。
「エリアス閣下が私の戦術を問題視しているという事実を、あなたは『いつ』お知りになりましたか?」
ルートヴィヒの勝ち誇った笑みが、一瞬ピタリと止まった。
「今日、私がここに来た時――あなたはすでに『今夜、化けの皮が剥がれる様を見届けてやる』とおっしゃっていた」
ヴァンは、逃げ道を塞ぐように言葉を継ぐ。
「今夜のこの告発が事前に分かっていなければ、そうはおっしゃれないはずです。ではお聞きしますが――あなたは一体『どこで』、それをお知りになったのでしょうか?」
宴会場が、水を打ったように静まり返った。
ルートヴィヒの顔から血の気が引き、みるみる青ざめていく。
(まずいことを言った)と気づいた時には、すでに遅かった。
大元帥アクィラが、冷たい目でルートヴィヒを見た。
コルネリアも、内心で舌打ちをしながら静かに視線を向けた。
エリアスが、緩やかに目を細める。
その圧倒的なプレッシャーの中、コンラート教授が、ゆっくりと息子の前に進み出た。
「……場が、少々荒れすぎているな」
低い、感情を完全に殺した声だった。
権力闘争を生き抜いてきた老獪な貴族特有の、酷薄な声だ。
コンラートは無言のまま、ルートヴィヒの肩を万力のような力で掴み、ギリッと握り潰さんばかりに指を食い込ませた。
「ルートヴィヒ。下がれ」
「し、しかし父上、こいつは――」
「下がれと言っているッ!」
二度目は、いかなる拒否も許さない、周囲の空気ごと凍らせるような一喝だった。
ルートヴィヒが恐怖に唇を噛み、後ずさりする。
コンラートはすぐにヴァンに向き直った。
「戦術の剽窃という問題は、個人の因縁などという些細なことではない。一つの戦術が戦場を変え、何万もの命が左右されるのだ。それを誰の功績とするかは――帝国の未来に関わる重大事である」
(見事な手際だ)と、ヴァンは内心で感心した。
話題を、強引に「戦術の剽窃」へと引き戻した。
ルートヴィヒの決定的な失言を、帝国の未来という大義名分の霧の中に沈めたのだ。
ヴァンは、再びグラスを手に取った。
残っていた酒を、一息に飲み干す。
(クラウゼヴィッツ先生)
胸の中で、かつて地球に生きた偉大な軍事思想家に、静かに呼びかける。
(あなたの言葉を、少しだけお借りします)
「エリアス閣下」
ヴァンは口を開いた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「……なんだ」
「『戦争』とは何だと、お考えですか」
宴会場のどこかで、小さな失笑が漏れた。
場を読めていない子供が、窮余の策で突拍子もない哲学を言い出した――そんな笑いだ。
だが、エリアスは笑わなかった。
しばらく、ヴァンをじっと見つめ、やがて重々しく答える。
「……矛盾と紛争を解決するための、究極の暴力的手段だ」
「そうです」
ヴァンは頷いた。
「ですが、私の考えでは――戦争とは、『政治の延長』です」
静かに、しかし絶対的な確信を持って言い切った。
「政治的目的を、別の手段で継続する行為。政治が『頭脳』であり、戦争はその『拳』にすぎない。戦争は独立して存在しない。必ず、政治的文脈の中にあるものです」
エリアスが、黙った。
「意味のわからないことを……詭弁だ!」
ルートヴィヒが背後から口を開きかけたが、ヴァンは構わず続けた。
「では、なぜあの『幽霊進軍』のような完璧な計画が、紙面通りに実行できないのか。なぜノストラの軍は、あの手稿を持ってしても帝国を押し返せなかったのか」
人々が、息を呑んで耳をそばだてるのがわかった。
「どんな精緻な計画も、戦場では必ず崩れる。道はぬかるみ、天候は変わり、伝令は死ぬ。そこに、戦場の霧がある」
ヴァンは言葉に熱を帯びさせた。
「指揮官は常に、不完全な情報の中で判断を下さねばならない。敵の動きは完全には見えない。味方の状況すら把握しきれない。この『不確実性』を前提としない戦術など、ただの机上の空論です」
「そして、戦略が狙うべきは敵の重心だ。敵の戦力を支える核心。それを見極め、そこに持てる打撃を集中する。それが戦略の本質です。あの幽霊進軍の計画が優れているとすれば――それは敵の重心の概念を、直感的に捉え、補給線を断つよう設計されていたからです」
エリアスの眉が、微かに、だが確かにピクリと動いた。
ヴァンは一息ついた。
「戦争を構成する要素は、三つです」
指を、一本ずつ立てる。
「第一に、人民の情熱。第二に、政府の政治的意図。そして第三に、軍の技術と指揮官の判断」
ヴァンは三本目の指を立て、ゆっくりと会場を見回した。
「この三者が『三位一体』を成している。この三つが噛み合わなければ、どれほど優れた手稿でも、決して現実の勝利には結びつかない」
宴会場は、もはや静寂に支配されていた。
先ほどまでヴァンを笑っていた者たちは、誰一人として口を開けなかった。
その時、壁際にいた大元帥アクィラ・ソルが、音もなく動いた。
彼は何も言わなかった。ただ、傍らに控える数名の幕僚将校たちへ、鋭い「視線」を送った。
言葉なき命令。将校たちは弾かれたように背筋を伸ばし、羽ペンと手帳を取り出すと、ヴァンの言葉を一言一句逃さぬよう猛然と記録し始めた。
ヴァンはそれを視界の端で確認した。
(俺の言葉を一言一句、書き留める気か)
構わない。
むしろ、好都合だ。帝国軍の中枢に、現代戦術の基礎を叩き込んでやる。
「次に、攻撃と防御の話をします」
ヴァンは続けた。
「防御は、より強力な戦闘形式である。しかし、消極的な目的を持つ。対して攻撃は、より弱い戦闘形式である。しかし、積極的な目的を持つ」
「――弱い、だと?」
旧貴族派の将軍の一人が、思わず声を上げた。
「攻撃の方が弱いとはどういうことだ! 我が帝国が攻勢をかけた時、大陸の誰が我々の突撃を止められたというのだ!」
「止められなかった、という事実こそが――私の理論の証明です」
ヴァンは一歩も引かずに返した。
「魔導師を例に考えてください。なぜ下位の術者は遠距離魔法を多用し、上位の術者ほど自己の強化を選ぶのか」
『武力こそ正義だ』を信奉する帝国の将官たちの間に、ハッとしたような沈黙が広がった。
「遠距離魔法は、魔力を外に放ちます。空間を伝播する途中で減衰し、空気の抵抗を受け、到達時には威力が落ちる。だが自己強化は、魔力を自分の内側に留める。損失が極めて少ない」
「軍隊の攻撃も同じです。戦線を押し上げれば補給線が延び、兵站が細り、予備戦力が薄くなる。一方、防御側は自陣に留まり、地の利を活かし、力を集中して迎え撃つことができる」
「では――」
ヴァンは、会場全体を見渡した。
「世界最強の武力を誇るこの帝国の攻勢が、なぜ局地での勝利を積み重ねながら、未だに決定的な戦争の勝利に繋がらないのか」
誰も、口を開けなかった。
図星だったからだ。
「それは、我が軍が常に『攻勢限界点』を超えているからです」
静かに、しかし痛烈に。
「攻撃には、必ず勢いが尽きる点……進攻の頂点が存在する。そこを超えて無謀に攻め続ければ、今度は自分たちが『弱体化した攻撃者』となり、十分に準備を整えた防御側に容易く叩き潰される」
最前列でワイングラスを握っていたコルネリアの手が、微かに震えた。
彼女は、戦いを知らないわけではない。むしろ、帝国の軍需と経済を支配する者として、誰よりも「数字」としての戦争を見てきた。
(……何なの? どこでこんなものを手に入れたの?)
コルネリアの脳裏に、かつて嫉妬したフィロメラの顔がよぎる。あの女は魔法の理を暴き、帝国の武力の根源を創り出した天才だった。だが――
(違う。これはフィロメラの残した知識の類じゃない。戦場を、人間という種そのものを、高みから見下ろす神の視点……まるで、途方もない血の歴史を実際に見てきたかのような――)
「冗談でしょう……」
コルネリアは無意識に、唇を噛んだ。
彼女が仕掛けた「盗作疑惑」という罠は、ヴァンの圧倒的な弁舌という火炎によって、今や灰すら残らず焼き尽くされようとしていた。
反論は、一切なかった。
それが――彼らがこれまで何度も味わってきた、血塗られた事実だったからだ。
ロルフが、猛然と手帳にペンを走らせる将校たちの方を、満足げに一度だけ見た。
ヴァンは話を止めなかった。
戦争の本質から、戦略の構造へ。
戦略から、戦闘の原則へ。
戦闘から、軍隊の運用へ。
後世に整理される戦争論の要点を、一つずつ、完璧な論理で組み上げていく。
エリアスが、時折深く頷いた。
大元帥アクィラが、最高統帥としての威厳を忘れたような顔で、食い入るようにヴァンを見つめていた。
その表情は――ヴァンが今まで見た、父親のどの顔とも違っていた。
(あれは……)
純粋な驚きと、底知れぬ歓喜。複雑な顔だ、とヴァンは思った。
宴会場の外。石段の上。
護衛として扉の前に立っている近衛統領ガイウスが――目を閉じ、ヴァンの言葉を噛み締めるように小さく頷いているのが、わずかに開いた扉の隙間から見えた。
グラスの氷はとうに溶けきり、食卓の蝋燭はすでに半分以下の長さに縮んでいた。
気づけば、二時間近い時が流れていた。
将官たちは酔いを完全に醒まし、誰一人として咳払いすらしない。
「――以上が、私の考える戦争の全体像です」
ヴァンは静かに締めくくった。
「戦争は政治であり、摩擦であり、霧であり、三位一体の均衡です。どんな天才的な手稿や戦術も、この枠組みの外には存在し得ない」
一息。
「これが、私の目に映る『戦争』です」
ヴァンは静かに、エリアスを見た。
「大導師たるベリサリウス閣下は――三十年前、弟子たちにこのように御教えになっていましたか?」
沈黙が、エリアスの側に移った。
老賢者は、しばらくの間、微動だにせずヴァンを見つめていた。
その古木の底のような目の中に――何かが、激しく揺さぶられていた。
「……」
エリアスの答えが出る、その直前だった。
「――それでッ!」
ルートヴィヒの金切り声が、強引に割り込んだ。
ろれつが、わずかに怪しい。手にしたグラスが、怒りと酔いで小刻みに震えている。
「それで、何なんだと言うのだッ!」
劣等感と酒の酔いが、彼の理性を完全に焼き切っていた。
「その小難しい理論が全部お前のものだとして――それで、あの戦術がノストラからの『盗品』でないことの証明になるのか!?」
【第八十章・終】
ルートヴィヒのような存在は、
本当に場をややこしくしてくれるので助かります。
しかも酔うと勝手に自爆までしてくれる。
便利すぎる。
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