第七十九章:宴会の中傷
今回は、華やかな宴会の場で、
静かな会話ほど、時に鋭く刺さるものですね。
果たしてこの場を、ヴァンはどう切り抜けるのか。
元帥府の宴会場は、華やかな熱気に包まれていた。
笑い声、グラスの触れ合う音、香り立つ酒精。停戦を祝う空気の中で、将官たちが好き勝手に杯を煽っている。
ヴァンはその喧騒を背に、壁際でグラスを弄びながら、廊下の構造を頭の中でなぞっていた。
(あの近衛兵たちを、どうやって動かすか……)
何か口実があればいい。
たとえば――誰かが派手に騒いでくれれば。
(いや、駄目だな。警備が余計に固くなるだけだ)
頭の中で無数のシミュレーションを回し続ける。
その時だった。
宴会場の入口付近で、さざ波のようなざわめきが起きた。
ヴァンは視線だけを向けた。
人垣が割れていく。
静かに、しかし確実に。
まるで巨大な石が水面に落ちたように、畏怖の波紋が会場全体に広がっていく。
人垣の中心にいたのは――白髪の青年だった。
(……なんだ?)
ヴァンは一瞬、目の前の人物が本当に本人なのか疑った。
百年以上を生きる「生ける伝説」だと聞いていた。当然、腰の曲がった皺だらけの老人を想像していたのだ。
だが、そこに立っていたのは、三十代から四十代にしか見えない、優雅で整った顔立ちの男だった。
(あれが、エリアス・ベリサリウス?……長命種か)
だが、その違和感はすぐに消し飛んだ。
若々しい外見に反して、その瞳は何も映していないような、乾いた静けさをたたえていた。
周囲の人間が、重力に吸い寄せられるように集まっていく。将官も、旧貴族も、新興の文官も。年齢も身分も関係なく、誰もがその男に道を譲る。
(ノストラの人間が、この軍事帝国でこれだけの扱いを受けるか)
あの男には、それだけの重みがあった。
(さて、どうやって近づくか)
正面から行くには、取り巻きが多すぎる。
かといって待っていれば、抜け出す機会を逃す。
ヴァンが思案していると――
「……ヴァン・ラーク?」
隣にいた文官が、ひそひそと声をかけてきた。
「あの、エリアス閣下が……あなたを探しておいでですよ」
ヴァンは耳を傾けた。
人垣の中から、エリアスの声が聞こえた。
決して大きくはないが、不思議と会場の隅々まで通る声だ。
「……ヴァン・ラークという少年がいると聞いている。わしの目には、この眩しい会場ではなかなか見つけにくくてな。どなたか、ご存知かな」
ヴァンは、グラスを口に運んだまま動きを止めた。
(俺の名を、名指しで出した?)
喜ぶべきか。
警戒すべきか。
直感が、後者だと告げていた。
理由はない。ただ――老賢者の声の温度が、背筋が凍るほど冷たい気がしたのだ。
「あちらに」
誰かが、ヴァンの方向を指した。
人垣の一部がほどけ、道ができる。
エリアスと数人の随行者が、こちらへ向かって歩き始めた。
沿道の来賓たちが、自然に身を引く。
飲みかけのグラスを持ったまま、談笑を中断して、ただ粛々と道を空けていく。
「ヴァン」
隣にいた人物が、ヴァンの腕を小突いた。
「早くグラスを置きなさい。大導師様に対し、失礼でしょう」
ヴァンは無言でグラスを置いた。
エリアスが、目の前に立った。
近くで見ると、その男がまとう『時間』の重さが肌を刺すように伝わってくる。
感情の読めない瞳が、ヴァンを静かに、しかし正確に見据えた。
「あなたが、ヴァン・ラークか」
「はい」
「英雄は若いうちに育つというが――なるほど、確かに若い」
エリアスは小さく頷いた。
「『幽霊進軍』の戦術。見事だった」
会場にいた人間の何人かが、息を呑んで耳をそばだてるのがわかった。
「作戦の歯車が巧みに噛み合い、敵の予測を次々と裏切る。これほど完成度の高い機動戦術の構想を、この年齢で、よくもまあ。――天賦の才というものは、確かにあるらしい」
最大級の賞賛だ。
それは間違いない。周囲にいた人々の間に、小さな驚嘆のざわめきが広がった。
どこからともなく現れた第二軍団長ルキウスが、「まったくその通りです」と嬉しそうに頷いている。
ヴァンは軽く頭を下げた。
「過分なお言葉です。私など、まだまだ――」
「謙遜はいらない」
エリアスが、穏やかな口調で遮った。
そして――
「ただ」
一呼吸。
「少し、早すぎたとも思う」
ヴァンの意識が、鋭く研ぎ澄まされた。
「子供が背伸びをするのは悪くない。だが、高い場所に手を伸ばすのは成長だ。……届くかどうかは別だがな」
エリアスの声は、依然として穏やかだった。
だからこそ――言葉の刃が、抵抗なくすっと滑り込んでくる。
「三十年前のことだ。ひとりの教え子が、こんな手稿を持ってきた。機動戦術の構想だ。補給線を断ち、戦線を流動させる――あの『幽霊進軍』によく似ている」
(何だと?)
ヴァンは表情を動かさないまま、思考を走らせた。
(そんなものが、存在するのか?)
あり得ない、と思った。この世界の戦術体系は、まだそこまで発展していないはずだ。自分が参考にしたのは、前世の地球の知識だ。それが三十年前に、この世界に既にあったとでもいうのか?
(いや、待て。罠か? 捏造か? あるいは――)
「その手稿を見た時、わしは思ったものだ。この発想は、まだ時代が追いついていない、とな」
エリアスは続けた。
「だからこそ――」
賢者の目が、初めてわずかに険しい光を帯びた。
「これほど若い少年が、その恐るべき構想を戦術研討会とはいえ、完全に理解し、寸分違わず再現してみせた時。わしは感心すると同時に、深く憂慮したのだ」
その言葉が落ちた瞬間。
「お待ちください、ベリサリウス閣下」
深紅のドレスを纏ったコルネリアが、グラスを片手に優雅な足取りで進み出てきた。
「それはあまりにも、ヴァンに対して不公平な物言いではありませんか?」
表向きは、若き俊才を庇うような、たおやかで美しい声だった。
「たとえ似た発想が過去にあったとしても、彼はそれを独自に編み出し、先の戦いで見事に運用してみせましたわ。偶然の一致を『真似事』と決めつけるには、少々早計ではありませんか?」
コルネリアはヴァンに同情的な視線を送り、さらに言葉を重ねた。
「彼が誰かの戦術を盗用したと仰るのなら、それ相応の『確たる証拠』がなければ、帝国の軍人たちは納得いたしませんわ」
(……見事な手際だな)
ヴァンは一瞬でそれを見抜いた。
庇っているのではない。挑発だ。コルネリアはエリアスを袋小路に追い込み、決定的な証拠を出さざるを得ない状況へと誘導しているのだ。
エリアスは、彼女の言葉に小さく溜め息をついた。
「……最後に難民の波を用いた隠蔽戦術。あれは、この年端もゆかない少年が、自力で考えたものとは思えない」
静かに、しかし断言するように。
「冷酷で、精緻で、人命の重さを平然と切り捨てる。……あれは、本来この歳で出せる発想じゃない」
そして老賢者は、懐から折りたたまれた紙束を取り出した。
ひどく黄ばんでいる。
明らかに、年代を経た本物の古紙だ。
「これが、三十年前の手稿だ」
それを、来賓たちに向けて、静かに広げてみせた。
周囲が、一斉にざわめいた。
ヴァンは、そのざわめきを聞きながら――グラスのない右手を、静かに握り込んだ。
(完全に、チェックメイトだ)
あの手稿に何が書かれているか、本物かどうかなんて、今はどうでもいい。
問題は――『エリアス・ベリサリウス』という絶対的な名前が、その紙切れに抗いがたい重力を与えているという事実だ。
証拠の信憑性より、告発者の権威が先に機能する。
周囲の視線が、一斉にヴァンに集まっていた。
将官たち。貴族たち。文官たち。
さっきまで嫉妬と称賛を入り交じらせていた目が、今は明確な疑念と軽蔑に染まり始めている。
宴会場の喧騒が、水を打ったように静まり返った。
その時。
壁際で、軍務総長ロルフと杯を傾けていた大元帥アクィラ・ソルが――初めてこちらを向いた。
帝国軍の頂点たる男の双眸が、射抜くようにヴァンを捉える。
そして重く、静かに口を開いた。
「……ヴァン・ラーク」
その声が、宴会場の空気を一段冷やした。
「貴様、何か言うことはあるか」
【第七十九章・終】
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