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幕間V:名声の崩れ目

今回は幕間回ということで、

少しだけ視点を変えて、帝都の“裏側”をお届けします。

コルネリア・フォン・ローゼンクロイツは、静かに窓の外を眺めていた。


執務室の窓から見下ろす帝都の大通りは、勝利記念日の準備に沸き立っている。

翻る軍旗。整列する兵士。平和の再来を信じて疑わない市民たちの喧騒。


だが、彼女の目はその華やかさには向いていなかった。

追っているのは――その裏で動く金の流れだ。


(動いているわ)


これはもっと巨大で、泥臭い――帝国の血の巡り、そのものだ。

彼女は意図的に、工房からの軍需物資の供給を絞らせた。

気づかれないほど、徐々に。


需要は落ちない。

むしろ、停戦直後こそ補給は要になる。

そこに――わずかな「欠乏」を混ぜた。


飢えた犬共が、次にどの餌場へ向かうか。答えは火を見るよりも明らかよ。


(ヴァンの発行した公債に群がり、現金化を急ぐはずよ)


小口が動けば、不安はすぐ広がる。

中堅が続き、やがて大手も無視できなくなる。

その瞬間に、あの少年が積み上げた兵站基金の首根っこが締まる。


今の彼は、帳簿の数字を追いかけるだけで精一杯のはずだ。


(周囲の「意図」に気づく余裕など、今の彼にはないわ)


コルネリアが窓から視線を外すと同時に、控えめなノックの音が響いた。


「エリアス・ベリサリウス閣下、お見えです」


「……お通しして」


扉が開いた。

現れたのは、白髪を長く伸ばした、一見すると三十代か四十代ほどの優雅な男だった。

だが、その尖った耳と、何もかもを見尽くしたような、乾いた瞳が、彼が数百年を生き抜いた長生種であることを物語っている。


「……ようこそおいでくださいました、ベリサリウス閣下」


コルネリアは立ち上がり、軍人としての礼ではなく、一人の貴婦人としての完璧な礼をとった。

エリアスは、手にした古びた木杖を突き、重々しく椅子に腰を下ろした。


「形式的な挨拶は抜きにしよう。この老いぼれを、わざわざ騒がしい帝都へ呼びつけた用件を聞こうか」


その声は穏やかだが、歴史の重みが沈殿している。


「では、単刀直入に申し上げますわ」


コルネリアは、一通の機密ファイルを卓上に置いた。


「サミュエル・ソレンセン――閣下の不肖の弟子の処遇についてです」


エリアスの眉が、微かに、だが鋭く動いた。


「サミュエルか。……あやつは今も、帝国の地下深くで鎖に繋がれているはずだが」


「ええ。ですが、彼を『釈放』すべきだという声が、一部で上がっておりますの」


コルネリアは冷ややかな笑みを浮かべ、言葉を継いだ。


「ヴァン・ラーク。今、帝都で『英雄』と持て囃されている少年ですわ。彼はサミュエルが各地に残した戦術体系を不当に継承し、運用していますのよ。それも……極めて危うい形で」


「危うい、だと?」


「先の戦術研討会で彼が提出した『幽霊進軍』の答案ですわ。断裂帯を突破する際、彼が何を利用したかご存知かしら? 彼はあろうことか、戦火から逃げ惑う難民の群れを意図的に誘導し、偽装工作の物理的な盾として消費したのです」


「あくまで机上の演習、そう思われますか? ですが……自軍の被害を減らすためなら、盤面の民草を道端の石ころのように切り捨てる。その冷酷な演算能力こそが、彼の戦術の正体ですわ」


エリアスの瞳に、深い陰りが差した。


「……サミュエルも、若い頃は似たようなことを考えていた。『戦争に涙は無用』『効率こそが慈悲』――結果、あやつは幾つもの街を焼き尽くした」


「ご存じだったのですね」


「わしは、あの弟子の過ちを正せなかった。……いや、正そうとしなかった。放置した結果があの『魔王』だ」


エリアスの声には、長年拭えぬ自責の念が滲んでいた。


コルネリアは、その傷口を優しく、しかし確実に抉った。


「ならば尚更です。あの少年を野放しにすれば、歴史は繰り返します。……閣下は二度目の過ちを、許されますか?」


沈黙が部屋を支配した。

窓の外から聞こえる鼓笛の音が、奇妙に遠く感じられる。


「……サミュエルは、今も生きておるのか」


エリアスが低く問うた。


「ええ。地下牢で……決して快適とは言えませんが、五体満足のまま生かしてありますわ」

「……そなたは、あの弟子を『助け出せ』と言うのか?」

「閣下が望まれるのでしたら、ですわ」


コルネリアは優雅に首を傾げた。


「条件は――観兵式後の公式な場において、閣下の口からヴァン・ラークの戦術に対する『評価』を頂くこと。それだけで結構ですわ」


エリアスはしばらく黙り込み、やがて重い口を開いた。


「……あの少年に、単なる評価を下すだけでサミュエルを解放すると? 具体的に、わしに何をしろと?」


コルネリアは席を立ち、エリアスの耳元に唇を寄せた。

声は低く、部屋の隅に立つ副官にも届かない。


彼女が何をささやいたのか――

それだけは、この場にいる誰にも分からなかった。


エリアスの眉が、わずかに吊り上がる。そして、すぐに元の沈痛な表情に戻った。


「……そんなことをして、本当に良いのか」


問いかける声は、かすかに震えていた。


「閣下が決めることです」


コルネリアは微笑み、元の位置に戻った。


エリアスは長い間、目を伏せていた。


「……サミュエルを出した後、どうするつもりだ」


「閣下の監視下に置いていただくのが、帝国としても最も穏当な落としどころかと。……野に放たれた若き狂犬よりも、檻の中の老いた魔王の方が、まだ御しやすい。そして――」


コルネリアの声が、一段と柔らかく、しかし鋭さを増した。


「閣下には、もう一度あの弟子を『正しい道』に導く機会が与えられます。今度こそ、目を背けずに。」


エリアスは、ゆっくりと顔を上げた。

その表情からは、彼が何を考え、何を決断したのかは読み取れない。

ただ、口元が微かに震えていた。


「……話の内容は理解した」


それだけを言い残し、老いた賢者は静かに部屋を去った。


客が帰った後。


「コルネリア様、よろしかったのですか? あの男は……本心からその条件を飲んだのでしょうか」


副官が不安げに尋ねるが、コルネリアは再び窓の外に視線を戻していた。


(これでいいのよ)


読み違いはない。

ヴァンの意識は今、目の前の資金繰りに釘付けにされている。

名声という脆い砂の城が、内部から崩れようとしていることに気づく術はない。


エリアス・ベリサリウスの言葉一つで、少年の「正当性」は瓦解する。

信用が揺らぎ、公債が紙屑同然となったその時こそ、兵站ネットワークを正式に回収する名分が立つ。


名分さえあればいい。力は、後からついてくる。アクィラ様であっても、大陸の『導師』の言葉を無視することはできないわ。それに――


(老いた導師にとって、あの弟子は……生涯消せない『業』なのだもの。私はそれを、救済の餌に変えただけよ)


コルネリアは静かに書類を閉じた。

外では、記念日の鼓笛が鳴り響いている。




【幕間V・終】

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