第七十六章:伝説の直筆
今回は、祝祭ムードの帝都を舞台に、
限定版。記念仕様。直筆サイン。
こういう言葉は、どうしても人の財布を軽くしてしまいますね。
勝利記念日を十日後に控えた帝都アイゼングラードは、妙に浮き足立っていた。
大通りには軍旗が翻り、広場では衛兵たちが行進の予行練習を繰り返している。
停戦の安堵も、祭り前の騒めきも、どちらも街を落ち着かせてはいなかった。
ヴァンは、その熱気に便乗した。
公債窓口の扉に、一枚の紙を貼り出す。
『祝祭期間に伴う臨時休業のお知らせ。
再開は祝祭明けを予定しております。
ご不便をおかけし、誠に申し訳ございません』
ヴァンはわずかに口角を上げた。
(祝祭の喧騒を盾に、堂々とシャッターを下ろす。……悪くない。今は戦い方を変えるだけだ)
換金ラッシュの第一波は、何とかしのぎ切った。
だが手元の現金は三百万ゴールドを切っている。
次の波が来る前に、新たな「集金装置」を回さなければならない。
ヴァンがまず動かしたのは、相棒のローランだった。
「ローラン、祝祭の人出を狙え。分店の設営を急ぐんだ」
「……今、ですか? 窓口の方はパニック寸前ですよ」
「今だからだ。この熱気が冷めないうちに旗を立てろ。人が集まる場所に店を出す、それだけでいい」
ローランは少し眉を寄せたが、ヴァンの瞳に宿る確信を見てすぐに頷いた。
商売に関しては、もうこの男を疑わないと決めている。
同時に、ヴァンは次の一手を切った。
――『帝国戦棋』の祝祭限定版だ。
歴代英雄の姿を模した記念仕様。いかにも「今しかない」と煽る作りだった。
(限定という言葉は、それだけで人の財布を緩ませる)
最初の数日は、計算通りだった。
祝祭特需は本物だった。ローランの分店には客が殺到し、ガチャも面白いように回り続けた。
停戦の安堵が、そのまま消費意欲へと転化していく。
すべては順調。金貨の山が再び積み上がるはずだった。
「悪くない……。このペースならいける」
ヴァンは帳簿の数字を追いながら、小さく呟いた。
だが。
四日目を境に、潮目が変わった。
客足が、目に見えて落ち始めたのだ。
急落ではない。だが、じわじわと。
まるで砂が水を吸い込むように、街の熱気がどこか別の場所へと静かに失われていく感覚。
その日の夕暮れ。
ヴァンが屋敷に戻ると、エントランスでエレナが待っていた。
「兄さん、お帰りなさい」
銀髪の義妹、エレナ・ヴァレリアン。
普段は「氷の聖女」らしく凛としている彼女が、今はどこか頬を上気させていた。
「兄さん、これを見てください」
エレナが差し出したのは、一冊の分厚い戦術教本だった。
その見開きのページには、高級な魔導インクペンで書かれた、流麗な署名がある。
「見てください兄さん、直筆のサインです! ……すごい行列でした」
その瞳がこれほど輝いているのを、ヴァンは見たことがなかった。
「誰のサインだ?」
「えっ?」
エレナが、ほんの一瞬だけ意外そうに眉を寄せた。
それから、少しだけ呆れたような、それでいて慈しむような笑みを浮かべる。
「……最近の兄さんは、本当にお忙しそうですね」
責める響きはない。ただ、世捨て人のような兄を案じる妹の顔だ。
「エリアス・ベリサリウス閣下です」
「……エリアス、ベリサリウス?」
ヴァンは正直に首を傾げた。
「どこかで聞いた名だが、すぐには思い出せないな」
エレナは、まるで子供に言い聞かせるように、丁寧に説明を始めた。
「ここに書いてあります。教本の第三章。……現代戦術理論の礎を築いた御方。今、帝国軍が使っている野戦方陣の基本概念は、すべてこの方が体系化したんですよ。戦争の形を変えた『生ける伝説』と呼ばれています」
ヴァンはその文章を流し読みした。
合点がいった。
人が減った理由は、もう明白だった。
そんな“本物”が街にいるなら、庶民の関心がそちらへ流れるのも当然だ。
ガチャも、公債窓口も、結局は脇役でしかない。
群衆の熱など、所詮はその程度のものだ。——それにしても、あまりにも「正しい」反応だった。
「なるほどな。あっちは『本物の伝説』か」
思わず、自嘲気味な苦笑が漏れた。
資本の力も、限定版という名の射幸心も、歴史という名の暴力の前ではこうも無力か。
道理で、街の空気が一変するわけだ。
「兄さんも、一度お会いになってはいかがですか?」
エレナが、真剣な眼差しで提案してきた。
「俺が? なぜ」
「だって、兄さんも戦術を学ぶ身でしょう? それに……」
エレナは言葉を継いだ。
「あの閣下に認められれば、コンラート教授みたいな頭の固い人たちも、二度と兄さんに文句なんて言えなくなります。兄さんのやってることに、誰もが納得する『正当性』が与えられるんですから」
ヴァンは思考を巡らせた。
(コンラート……。あの頑固な狸どもの顔が浮かぶな。確かに、あの連中は権威というものに底知れず弱い)
「……それは、一理あるな」
そう答えてから、ふと教本の記載に目が止まった。
著者の紹介欄。そこには驚くべき生年が記されていた。
「待て、この人物……。百年前、いやもっと前の人間じゃないか?」
エレナが、今度こそ盛大に溜息をついた。
「兄さんっ……!」
「なんだ」
「本当に、ニュースを御覧になっていないのですね」
完全に、呆れ果てた声だ。
「今回の観兵式の『主賓』として、ノストラから招かれているんです。だから今、帝都にいらっしゃるの。街中の噂ですよ?」
ヴァンは無言のまま、教本の表紙をそっと閉じた。
(百年以上生きている超長寿種、か。この世界なら、まあ有り得ん話じゃないな)
だが、それだけの時間を生き、今なお第一線に立っている。
それだけで、十分に“本物”だった。
「わかった。会いに行こう」
「本当ですか!?」
エレナの瞳がパッと明るくなった。
屋敷の廊下を歩きながら、ヴァンはもう考えていた。
(権威のお墨付きは、どんな宣伝よりも強い)
それは、商売の鉄則だった。
(あの老英雄に、俺の『戦棋』を一目見てもらうだけでいい。気に入るかどうかなんて二の次だ。ただ「見た」という既成事実さえあれば、それで十分)
『帝国の英傑も認めた、至高の戦術遊戯』
そんなキャッチコピーが、脳内でスルスルと組み上がっていく。
手元の現金は、底をつきかけている。
次の波が来る前に、打てる手はすべて打つ。
(結局、考えるのは金のことばかりか)
英雄に会いに行く理由すら、商売の種にする。自分でも呆れる。
――まあ、それでいい。
【第七十六章・終】
本物の伝説の前ではどうしても分が悪いですね。
それでもヴァンは、
そこで素直に引かず、すぐ次の売り方を考えるあたりが実に彼らしいです。
英雄に会う理由までも商売に変えていく男なので、
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