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第七十三章:蜘蛛の掃除

ええ、掃除です。


……この掃除方法、個人的にはかなり効率的だと思います。

絶対やられたくはないですけど。

軍情局の廊下は、異様な熱気に包まれていた。


行き交う局員の数が多い。

足早に駆け抜け、書類の山が次々と運ばれていく。

上ずった声が、あちこちで飛び交っていた。


(……なんだ、この空気は。ただ事じゃないな)


ヴァンは人の流れに逆らいながら、局長室へと向かった。


ドアをノックする前に、中から声が響いた。


「入りなさい」


ヴィヴィアンの声だった。だが、いつもの気怠げな響きとは、わずかに質が違う。


ヴァンはドアを開けた。

局長室の奥——八本の脚が、静かに床を踏んでいた。

ヴィヴィアンは書類の山を前に、魔導骨格を展開したまま動いていた。

視線だけが上がり、ヴァンを捉える。


「……あら」


ヴァンを見た瞬間、ヴィヴィアンの細い眉が困ったように下がった。


「今日はタイミングが悪かったわね」


「何があったんですか」


踏み込もうとしたヴァンの全身を、目に見えない巨大な蜘蛛の巣が絡め取るような、ねっとりとした殺気が撫でた。


「今日は帰ってちょうだい、坊や」


唇は優しく微笑んでいるのに、目だけが絶対零度に冷え切っている。有無を言わせぬ、絶対的な拒絶だった。


「二日後にまたいらっしゃい。今日じゃないわ」

「コルネリアについて、話があります」

「——帰りなさい」


声のトーンが一段、低く落ちた。

有無を言わせぬ、絶対的な重圧。


ヴァンは一秒だけ迷い、口を閉じた。

踵を返す。重いドアが閉まる音がした。




廊下に出て、ヴァンは立ち止まった。

走り回る局員、全開になったままの幾つかの扉。


(前線で何か起きたのか。それとも、内部か)

いずれにしても、今日ここで話せることは何もない。


(……まあ、いい。二日後だ)


ヴァンは帽子を引き下げ、静かに踵を返した。




二日後。

軍情局の玄関前は、嘘のように静まり返っていた。


人が、いない。

詰所に二名。廊下に数名。それだけだ。

二日前の狂騒が、まるで質の悪い幻だったかのように。


(……いくらなんでも、減りすぎだろ)


ヴァンは警戒を孕んだ歩みで、正面から入庁した。


局長室のドアをノックする。


「どうぞ」


今日の声は、いつも通りだった。柔らかく、のんびりとして、だが猛毒を秘めた声。


ヴァンがドアを開けると、ヴィヴィアンはソファに深く沈み込むように身を預けていた。魔導骨格の細い義肢が、優雅にティーカップを持ち上げ、彼女の唇へと運んでいる。


「あら、坊や。時間通りね」

「局内の人が、随分減りましたね」

「そう?」

「二日前の半分もいない」


ヴィヴィアンが、ふふ、と緩やかに微笑んだ。


「反乱分子をね、片付けたの」


ヴァンの足が止まった。


「……叛乱」

「ええ」

「軍情局の内部でですか」

「そう」

「……殺したんですか」

「鎮めたわ」


かちゃり、と魔導骨格の義肢がティーカップを静かにソーサーに戻した。


「死人は出たけれど、まあ、大掃除には付き物でしょう?」


あまりにも平坦な声だった。

昨日の夕飯の献立でも語るように。


(叛乱。鎮圧。死人。それが『大掃除には付き物』か)

ヴァンは小さく息を吐いた。


「……派閥争いですか」


「察しがいいわね」


ヴィヴィアンが微かに目を細める。魔導骨格の脚が一つ、かつん、と床を叩いた。


「軍情局に自分の息のかかった人間を送り込みたい、というのはどの派閥も考えることよ。特に今みたいな、きな臭い時期はね」

「それで」

「赤備は、ちょっと外しておいたの。そしたら、面白いくらい釣れたわ」


ヴィヴィアンは艶然と目を細めた。


「まあ、掃除は終わったわ」


それだけのことよ、と彼女は言った。

局員の半数近くが、たった二日で消えた。

——それが、この女にとっての「整理」だ。


ヴァンは背筋に冷たいものが這うのを感じた。


(薄々分かっていたが、本物の怪物だ、この人は)


「……二日前に俺を追い返したのは、俺を巻き込まないためですか」


「あら、気になる?」


ヴィヴィアンがにっこりと笑った。


「坊やの安全のためでもあるけれど——私自身のためでもあったのよ」

「俺がいると、何か局長に不都合が?」

「ええ」


ヴィヴィアンは視線を少しだけ鋭くした。


「あの場にはね、特殊作戦部の部長がいたの。今回の叛乱の『掃除役』……つまり、私の手駒よ」

「じゃあ、問題ないのでは」

「大ありよ。坊やがいると、彼はまともに仕事をしてくれないもの」


ヴァンは眉をひそめた。


「どういう意味です?」


「シンカクよ」


ヴィヴィアンの声が、少しだけ楽しそうに弾んだ。


「特殊作戦部の部長は、あの子の存在を知っているわ。そして、あの規格外の化け物の『底』を、どうしても見たがっていた」


ヴァンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「あの男はね、度し難い『戦闘狂(バトルジャンキー)』なのよ。もしあの叛乱の場に坊やがいたら……彼は絶対に、わざと手を抜いて局内の被害を拡大させたはずよ。坊やが絶境に追い込まれ、シンカクが堪えきれずに飛び出してくる……その瞬間を見るためにね」

「……俺を餌にする気だったと」

「ええ。そして、彼が本気を出さなければ、いくら私でも危なかったの。だから坊やには帰ってもらったわ。彼に、サボる言い訳の余地を与えないためにね」


(味方であるはずの鎮圧部隊のトップが、俺の護衛を見るためにわざと危機を見過ごす……)


ヴァンは息を吐き出した。

狂っている。この軍情局という組織は、根本から。


「さて、と」


ヴィヴィアンの声が、静かに空気を切り替えた。


「コルネリアについて、話があると言ったわね?」


「……ええ」


ヴァンは思考の泥沼から抜け出し、本題に入った。


「街頭で俺を襲った傭兵の術式、それからアイリの自爆回路。どちらもノストラの人体実験施設で使われていた技術と構造が酷似しています。魔導回路の強制拡張術式だ。そして、コルネリアのランクD」


ヴィヴィアンは表情一つ変えずに聞いている。


「足りない天賦を、ノストラの技術で『後付け』した。違いますか」


沈黙が降りた。

ヴィヴィアンは静かに口角を上げた。


「……賢いわね、坊や」

「知っていたんですか」

「ええ、ずっと前からよ」


あっさりとした肯定。

ヴァンは少し間を置いた。


「……約束したことを覚えているかしら?」


ヴィヴィアンが問いかける。


「コルネリアを、身の破滅に追い込む。帝都から追い出す、と言ったわ」

「覚えています」

「今回の内部の整理は、その第一歩よ」


ヴィヴィアンは静かに微笑んだ。


「彼女の息がかかったネズミたちを削ったの。これで彼女が動ける戦場が、少しだけ狭くなったわ」


(……この人は、俺が思いつく一歩も二歩も先を、とっくに踏んでいる)


ヴァンは悟った。


「……俺は、何をすればいいですか」


自分でも少し意外なほど、素直な問いが出た。


ヴィヴィアンが目を細める。


「コルネリアに備えなさい」

「備える」

「彼女ね、坊やに直接あんなことを言ったんでしょう? 自分が黒幕だと認めた上で、堂々と挑発した」


ヴァンは一瞬、元帥府の廊下での場面を思い出した。

猩紅色のドレス。余裕に満ちた、あの冷酷な瞳。


「ああいうことを言う人間はね」


ヴィヴィアンの声が、一段だけ静かに、そしてひんやりと響いた。


「もう、決着の準備が終わっているのよ」


カツン、と。

魔導骨格の脚が、小さく床を叩いた。




ヴァンは局長室を出た。

廊下に出ると、嘘のように人のいない静寂があった。


(決着の準備が、終わっている)


石畳の廊下を歩きながら、頭の中で言葉が反響する。


コルネリアは、もう動く気でいる。

ヴィヴィアンは、その前に敵の手駒を削った。

自分に今できることは——。




【第七十三章・終】

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