第七十章:蜘蛛の試問
今回の舞台は、軍情局。
帝国の「目」と「耳」が集まる場所。
軍情局の廊下は、いつにも増して殺気立っていた。
一目で分かる。
大量の書類の束を抱えた職員や文官たちが、血走った目で早足に行き交っている。声に余裕がない。
(諜報網の崩壊。あの余波から、まだ全く立て直せていないな)
ヴァンは人の流れに逆らわず、廊下の端を静かに進んだ。
目指すのは、限られた人間しかアクセスできない最奥の特別資料室だ。
(元帥府での北棟の偵察は失敗した。ヴィヴィアン局長の支援を待つか、それとも他の手で……いや、ただ待つだけじゃ駄目だ)
コルネリアとの遭遇で、腹の底の殺意は目覚めてしまった。
だが、感情のままに動けば負ける。あの真紅の女を盤上から引きずり下ろすためには、情報が足りない。
まずは、あの女だ——
特別資料室の重い扉を、ヴァンは静かに押し開けた。
コルネリアのファイルは、予想に反してひどく薄かった。
ヴァンは閲覧台にそれを広げ、黙読する。
「……」
既知の情報がほとんどだった。
現在、フィロメラの工房の管理者であること。
帝国内の複数の巨大事業への出資履歴。
軍上層部との癒着とも言える人脈。
ここまでは、ヴァンも事前に把握していた。
だが、一点だけ、知らなかった事実があった。
(……両親が、戦死している?)
父親の項目に、目が止まった。
当時の帝国軍中将。大元帥アクィラと同じ戦場に出ていた記録がある。
十数年前の帝都防衛戦において、最前線で戦死。
コルネリアが、まだ物心つくかどうかの頃の話だった。
(そういうことか)
(共に死線を潜った戦友の遺児を、引き取った)
そして、もう一つ。
魔力評価の欄。
『ランクD』
——なんだ、これは。
帝国の基準で言えば、最底辺に近い。ランクCにすらなれず、詠唱魔法の補助が必要な、ただの雑兵のレベルだ。
ヴァンの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
(「力こそ正義」のこの帝国で。大元帥の養女という、最も残酷に才覚を測られる環境で、ランクD……?)
違う。魔力がないから弱いのではない。
(魔力という『暴力』に一切頼らず、金と権謀術数だけで、ランクSのシカランを飼い慣らし、軍部を動かしているということだ)
物理的な暴力より、よほどタチが悪い。
ヴァンは小さく舌打ちをして立ち上がり、扉へと向かった。
資料室の廊下に出た瞬間、横から声をかけられた。
「ヴァン・ラーク特別監察官殿」
振り返ると、表情の堅い若い文官が立っていた。
「ヴィヴィアン・クラウス局長が、お時間をいただきたいと」
ヴァンは一秒だけ、薄暗い天井を仰いだ。
(……見られてたか)
「場所は」
「局長室です。ご案内します」
「結構だ。道は分かる」
局長室の扉を開けると、ヴィヴィアン・クラウスがそこにいた。
逆光となる窓を背にして。
漆黒の魔導骨格が、静かに床を踏む。
動くたびに、カシャ、という微かな金属音が響く。
巨大な毒蜘蛛のように恐ろしく、それでいて、吐き気がするほど優雅だった。
「いらっしゃい、坊や」
ヴィヴィアンは微笑んだ。
眠たげな、しかしこの世の全てを監視しているような冷たい目だった。
「コルネリアに会ったでしょう」
ヴァンは扉を閉めながら、小さく息をついた。
「……何でもお見通しですね、あなたは」
「この局の長ですもの。当然でしょう」
「元帥府の廊下での立ち話まで把握されているとは、思いませんでしたよ」
「あそこには『目』があるのよ。どこにでもね」
ヴィヴィアンは窓際の椅子へと、ゆっくりと移動した。
カシャカシャと滑らかに魔導骨格が折り畳まれ、彼女の身体を椅子へと下ろす。
「座りなさい」
ヴァンは大人しく、向かいのソファに腰を下ろした。
「フィロメラの遺産を取り戻したいのでしょう」
ヴィヴィアンは前置きなしに切り出した。
「その意味で、コルネリアは貴方にとって確かに最大の障壁ね」
「彼女が、工房の現在の管理者だからですか」
「それも、あるわ」
ヴィヴィアンは少しだけ、目を細めた。
「でも、一番の厄介な理由は、別のところにあるの」
「……」
「女の恨みというものはね」
ヴィヴィアンは窓の外に視線を向けた。
秋の霞んだ空を眺めるその横顔は、ひどく美しかった。
「根が深いのよ」
それだけ言って、彼女は口を閉ざした。
ヴァンは続きを待ったが、ヴィヴィアンは薄く微笑んだまま沈黙している。
(……聞いても、これ以上は教えないということか)
ヴァンは話を本題へと切り替えた。
「コルネリアは、街中で俺を殺そうとした人間です」
ヴィヴィアンの目が、ヴァンへと戻ってきた。
「証拠は?」
「本人が、先程元帥府で直接言いました」
「……そう」
ヴィヴィアンに驚いた様子は全くなかった。ただ、つまらなそうにため息をついただけだった。
「確かに、彼女には動機がある。フィロメラの旧工房を手放したくない。それに、マルクスと手を組んでいる以上、貴方の存在自体が邪魔だわ」
「その通りです。だから俺は、彼女の首を絞めるための手札を探していました。先程の資料室で」
「でも、本人の発言だけでは証拠にならない。法的にはね」
「分かっています」
「それで、どうしたいの? 貴方が直接手を下す気?」
ヴァンはまっすぐに局長の目を見て答えた。
「帝国法に則れば、これだけの重罪は死刑に相当します」
ヴィヴィアンは、くすりと小さく笑った。
「無理よ」
切り捨てるような一言だった。
「仮に決定的な証拠を揃えたとしても、コルネリアはアクィラの養女。軍内部への政治的な影響が大きすぎるわ。彼女に科せられる罰は、どんなに頑張ってもせいぜい失脚と帝都からの追放どまり。帝国の体裁上、それ以上の極刑は出せないわ」
ヴァンの腹の底で、何かが冷たく締まった。
(……分かっていた)
「では、俺はただ指をくわえているだけで」
ヴァンが言いかけた言葉を、ヴィヴィアンが静かに遮った。
「坊や」
「……はい」
「一つ、聞かせてちょうだい」
ヴィヴィアンは魔導骨格の鋭い脚の先端を、そっと床で交差させた。
蜘蛛が獲物を絡め取るような、優雅な仕草。
「彼女が死ぬのではなく」
「身も名も地に落ちて」
「帝都にいられなくなる」
「……それで、満足できる?」
沈黙が、局長室を満たした。
ヴァンはヴィヴィアンを見た。
その目は、問いかけではなかった。
明確な『提案』だった。
(……この人は、もうコルネリアを潰すための道筋を持っている)
(俺に聞いているのは、俺の『覚悟』と『落とし所』を確認しているだけだ)
「……ブルーノとディーターが死にました」
ヴァンは絞り出すように言った。
「あの二人は、俺を守って死にました。コルネリアの命令で仕組まれた、あのふざけた刺殺事件に巻き込まれて」
「知っているわ」
「俺の感情としては、追放だけで足りるかと問われれば……正直に言って、全く足りません」
ヴィヴィアンは何も言わなかった。
「だが」
ヴァンは言葉を継いだ。
「ブルーノとディーターが、どちらを選ぶかと言えば」
「……」
「あいつらなら、そう言うと思います。俺が下手に暴走して、あの女と心中するような結末よりも」
窓の外で、風が吹き抜けた。
ヴァンは、肺の奥底に溜まっていた重い息を、静かに吐き出した。
「身を滅ぼし、名を汚す。名誉を剥ぎ取り、帝都を追放する」
「……それで、構いません。それが最善なら」
ヴィヴィアンは、少しの間ヴァンを値踏みするように眺めていた。
それから、静かに微笑んだ。
いつもの冷酷な笑みとは違う、どこか母性を感じさせるような笑みだった。
「いい子ね」
「……皮肉じゃなければ、褒め言葉として受け取ります」
「そのつもりよ。……坊や」
ヴィヴィアンは窓の方へと視線を戻した。魔導骨格がカシャリと微かに鳴る。
「詳しい話は、まだ早い。今は、貴方には他にやるべきことがあるでしょう?」
「三枚目の欠片の件ですか」
「ええ。それと、前線の膠着と資金繰りの話。あちらも、放置できない危険な頃合いでしょう?」
「同時に三つも動かすのは、胃に穴が開きそうです」
「できるでしょう、貴方なら。いつもそうしてきたじゃない」
「……」
「フィロメラも、いつも同時に三つ四つの問題を抱えて笑っていたわ」
ヴィヴィアンの声が、一瞬だけ懐かしむように遠くなった。
だが、すぐに冷徹な蜘蛛の顔に戻る。
「行きなさい。機が熟したら、また話しましょう」
ヴァンは立ち上がった。
「……最後にもう一つだけ、聞いてもいいですか」
「何かしら」
「コルネリアの、女の恨みの話」
「ええ」
「女の恨みは根が深いと。それは……フィロメラに対する恨みですか」
ヴィヴィアンは、また微笑んだ。
今度は何も言わなかった。
肯定も否定もせず、ただ静かに微笑んでいるだけだった。
廊下に出ると、軍情局の殺気立った喧騒が再び鼓膜を打った。
書類を抱えた文官が、ヴァンの横を足早に通り過ぎていく。
ヴァンは歩き始めた。
(コルネリアの恨みの出所。ヴィヴィアンは全てを知っているが、今は口を割らない)
(いいだろう。今は目の前の盤面を動かすのが先だ)
ヴァンは歩く速度を上げた。
腹の底の熾火は、静かに燃え続けている。
だが、ただ燃やすだけではあの真紅の女は焼けない。毒蜘蛛の糸を借り、盤上の首を真綿で絞めるための『手札』を揃える。
ヴァンは軍情局の重い扉を、思い切り押して外に出た。
弔い合戦の準備は、終わった。
【第七十章・終】
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