第六十九章:真紅の女
ようやく、例の人物との正面対面でした。
あの場で正体を明かしたのは、
単なる挑発というより「すでに盤面を握っている」という自信の表れです。
ヴァンは「元帥府」の廊下を歩いていた。
数日前、ここへの強行偵察は空振りに終わった。だが、その時の下見で警備の穴は見つけている。
元帥府の廊下は、昼間でも薄暗い。窓が少なく、石造りの壁に等間隔で燭台が並ぶのみ。わざと閉じた造りになっている。
(ここを抜ければ、北棟だ)
ヴァンは歩調を崩さず、壁の構造や警備兵の配置を頭の中で再構築していく。
(問題は、制限区画である北棟の内側の構造だ。本格的に潜り込む前に、せめて扉の向こう側の下見が必要だ)
思考を巡らせながら、角を曲がろうとした、その時。
カツン、カツン。
硬質な靴音が、向こうから近づいてきた。
最初に目に入ったのは「色」だった。
真紅。
燭台の薄暗い灯りの中で、その色だけが暴力的なまでに際立っていた。
真紅の、体に沿う軍服風のロングドレス。肩に羽織った黒いロングマント。
軍靴が、石畳を冷酷に叩く。
その後ろに、一歩下がってシカランが続いていた。
弓は持っていない。だが、彼女の左目がヴァンを捉えた瞬間、全身の筋肉がかすかに連動したのが見えた。
(……っ)
ヴァンは内心で、舌打ちしそうになった。
(よりにもよって、こんな場所で。今の俺が最も顔を合わせたくなかった相手だ)
「あら」
女が、足を止めた。
ヴァンから数歩の距離。口元には、優雅で完璧な笑みが張り付いていた。
温度のない、造花みたいな笑み。
「ヴァン・ラークさん……でいらっしゃいますわね」
声は、ゆったりとしていた。語尾が、微かに甘く伸びる。
「コルネリア・フォン・ローゼンクロイツです。これが……初めてのご挨拶になりますかしら」
ヴァンは一歩だけ前に出て、軍人として完璧な角度で頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。軍情局特別監察官、ヴァン・ラークです」
「遅れたなんて、そんな。こちらこそ、お噂はかねがね伺っておりましたのに、なかなかお目にかかれなくて残念でしたわ」
コルネリアはゆっくりと近づいてきた。
足音が、ほとんどしない。靴音よりも先に、むせ返るような存在感がヴァンの肌を打った。
「あの『戦時公債』の采配も拝見しましたわ。本当に……素晴らしい発想でしたこと。あれだけの短期間で、あれだけの額を吸い上げるとは」
「お褒めの言葉、光栄の至りです。殿下におかれましても、多大なるご出資をいただきまして」
「当然のことですわ。沈まない良い船には、早めに乗っておくものですもの」
ふわりと、コルネリアが笑った。
「少し、お時間よろしいかしら。せっかくですし、お茶でも……」
「お心遣い、感謝いたします」
ヴァンは即座に、しかし柔らかく言葉を遮った。
「ただ、本日は軍情局の別件がございまして。また折を見て、こちらから改めてご挨拶に伺わせてください」
「あら、残念」
コルネリアは眉を少し動かした。
『残念』という言葉に、残念そうな気配が一ミリも含まれていない。
「お忙しいのですわね」
「お恥ずかしながら」
「いいえ、結構なことですわ。暇な人間は、たいてい碌でもないことを考えておりますものね」
沈黙が、ふっと落ちた。
コルネリアは廊下を、さりげなく見渡した。
右。左。
警備兵の姿は、ない。
カツン。
一歩、踏み出した。
ヴァンとの距離が、不自然なほどに縮まる。
ヴァンは動けなかった。
蛇に睨まれた蛙、足が床に縫い付けられたような錯覚。
コルネリアの目が、至近距離からヴァンを覗き込んだ。
その目の奥は、深い泥のようだった。
笑みのまま、赤い唇が動いた。
「……私が、ずっと探していた人間」
低い声だった。
猫撫で声が、一瞬で冷えた。
「それは、私ですわ」
ヴァンの視界が、一瞬、真っ白に飛んだ。
音が、遠のく。
鼓膜の奥で、自分の心拍数が一つ、二つと跳ね上がる音だけが響いた。
コルネリアは微動だにしなかった。
『最初から分かっていたでしょう?』とでも言うように、ただその事実を、この無防備な距離で宣告したのだ。
(ブルーノ)
(ディーター)
(血塗れになったあの路地)
——全部、こいつか。
感情が、腹の底でドス黒く沸騰し始めた。
——殺せ。という声が、静かに聞こえた。
(駄目だ)
ヴァンは一秒で、その沸騰する思考に分厚い鉄板で蓋をした。
(シカランがいる)
(ここで動けば終わりだ)
「……そうですか」
ヴァンは言った。
驚くほど平坦な、乾いた声が出た。
「わざわざお教えいただき、ありがとうございます」
コルネリアの目が、微かに動いた。
「……それだけ?」
「はい」
「怒らないのかしら? あなたの忠実な犬たちを殺したのは、私だと言っているのよ?」
「怒っていないとは、一言も言っていません」
「あら」
「今ここで怒りを顔に出すことが、自分にとって得だと思えないだけです」
コルネリアは少しの間、ヴァンを眺めていた。
まじまじと見つめた。珍しい虫を見るように。
「……なるほど」
それだけ言って、一歩退いた。
また甘い笑みが戻った。だが、今度は先程よりも少しだけ、熱を帯びた笑みだった。
「賢い子ですわね」
「恐縮です」
「その賢さ……フィロメラに、よく似てるわ」
ヴァンの視線が、その名前が出た瞬間だけ、僅かに揺れた。
コルネリアはそれを見逃さず、愉悦を噛み締めるように続けた。
「あの女も、決して怒らない人だったわ。何を言っても、何をされても、見下すように笑って返すの。心の底では煮えくり返っているくせに……本当に、虫酸が走る女だったわ」
粘ついた響きが混じっていた。
「……」
「あら、私は嫌いではなかったわよ、あの人のこと。誤解しないでちょうだい」
「誤解するかどうかは、私が判断します」
「ふふっ」
コルネリアは、短く笑った。
「では、またいずれ。お忙しい特別監察官殿」
「ええ。失礼いたします」
ヴァンは完璧な挙礼をし、踵を返した。
もう、ここにはいられない。
「ヴァン・ラークさん」
背中越しに、コルネリアの声が追ってきた。足は止めない。
「前線の方……ご存知かしら」
「どちらのお話ですか」
「進軍が、止まりつつあるようですわ。二城を落としたところで、膠着に入りそうだと聞きましたの」
ヴァンは歩き続けた。
「そうですか」
「ノストラも、やはり易々とは引かないものですわね。戦争というのは……長くなると、お互いに損をするばかり。賢い人間なら、早めに出口を探すものですわ」
廊下の先で、角が見えた。
「公債の資金……いつまでうまく回るかしらね?」
ヴァンは角を曲がった。
コルネリアの声が、石畳の上に消えていった。
ヴァンが去った後の薄暗い廊下。
コルネリアは、ヴァンが消えた角をじっと見つめていた。
「……惜しいわね」
彼女は、ぽつりと呟いた。
「あの子が少しでも若さゆえの衝動を見せて、私に掴みかかってきてくれれば……正当防衛で、今ここで塵にしてあげられたのに」
背後に控えていたシカランが、静かに一礼した。
「見事な自制心でした。あの年齢で、あれほどの殺意を完全に抑え込むとは」
「ええ。可愛げのない子。……本当に、あの母親そっくりだわ」
コルネリアの赤い唇が、忌々しげに歪んだ。
元帥府の外に出ると、秋の冷たい空気が顔に当たった。
ヴァンはそのまま、何歩か歩いた。
それから、人気のない壁際に寄りかかり、深く、長く息を吐いた。
(……くそっ)
胸の中で、押さえつけていたものが静かに燃え上がっていた。
純粋な、どろりとした殺意だった。
(ブルーノは)
(ディーターも)
(頭では理解していた。だが、張本人から直接煽られたのは今日が初めてだ)
ヴァンは額に手を当てた。
(落ち着け。今できることを、考えろ)
コルネリアが最後に言ったこと。
前線の膠着。戦争の出口。資金の流れ。
(戦争が止まれば、公債が崩れる。投資家が不安になり資金を引き上げる可能性がある。俺の計画した補給線改革が完成する前に、軍の資金が詰まる)
(あの女は分かっていて、言っている)
(揺さぶりだ)
元帥府の門が、遠くなった。
真紅の残像が、まだ目の裏に焼き付いていた。
(コルネリア・フォン・ローゼンクロイツ)
ヴァンは歩き始めた。
帝都の石畳を踏みながら、頭の中で崩れかけた盤面を強引に並べ直した。
(俺の感情を動かして、ミスを誘発させたかった)
(だが俺は乗らなかった。だから、『資金』と『前線』の爆弾を置いていった)
ヴァンは空を見上げた。
(……ローランを急がせる必要がある。資金の流れを強固にしなければならない)
(前線の真の情報も早急に。局長の手も借りる必要がある)
(そして三枚目の欠片。北棟への潜入)
(穴が開きそうだ)
胸の底の暗い炎は、まだ燃えていた。
だが、今はまだ、ここに置いておく。
いつか、必ずあの真紅の女を盤上から引きずり下ろす、その時のために。
【第六十九章・終】
ゲームなどで、圧倒的に優勢な状況になると、
つい相手を煽ってしまうこと、ありませんでしょうか。
今回のあれは、だいたいそんな感じです。
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