第六十七章:頂に座る男
ようやく、顔を合わせることになりました。
威圧感の塊のような人物ですが、
同時に「父親」でもあります。
屋敷の中は、死んだような静寂に包まれていた。
足音を消して、石造りの廊下を歩く。
廊下の先。テラスへと続く半開きの扉から、光が差し込んでいる。
ヴァンの足が、ピタリと止まった。
(……なんだ、これは)
(……この屋敷の管理者名義は空白だった。だが、定期的に手入れされていた。——なるほど、そういうことか)
外に人がいる。
日向に向けられた椅子に座り、ただ背中を向けているだけだ。
ただの、背中。
それなのに、視界に入った瞬間、ヴァンの呼吸が浅くなった。周囲の空気の質量が、急激に跳ね上がったかのような錯覚。
理屈ではない。
本能が告げていた。
——これは、同じ生き物じゃない。
アクィラ・ソル。
帝国最高執政官。武装部隊総司令。
そして俺の、父親。
(……なるほどな)
ヴァンは小さく息を吐き、強張る筋肉を無理やりほぐした。
(こういうのが、頂点に立つのか。触れなくても分かる。圧が違う)
一秒だけ間を置き、ヴァンはテラスへと足を踏み出した。
「……失礼します、大元帥閣下」
ヴァンは、わざと軽い調子で声をかけた。
「ヴァン・ラークです。このたびはご挨拶が遅れまして」
アクィラは振り返らない。日向の中に、ゆっくりとティーカップを傾けていた。
「何用だ」
低く、地を這うような声だった。それだけで、ヴァンの鼓膜がびりりと震えた。
「散歩です。帝都の路地を歩いていたら、ここまで来てしまいました。風景が独特だったもので、ついふらりと」
「続けろ」
「はい?」
「でっち上げを、続けろ」
ヴァンは、少し間を置いた。
「……やっぱり無理でしたか」
「この『空白の屋敷』に、正面から生きて入れる人間は限られている。シカランの矢をくぐり抜けた貴様が、迷い込んだとは思えんな」
見透かされている。
——嘘を重ねる気は、起きなかった。
ヴァンは小さく肩をすくめた。
「……まあ、そうなりますよね」
アクィラが、ここでようやく振り返った。
金色の目だった。
静かで、深く、一切の感情が読み取れない。ただ獲物の急所だけを正確に見据える、猛禽の眼光。
「座れ」
ヴァンは全身にかかる重圧に耐えながら、向かいの椅子を引いて静かに座った。
しばらく、沈黙が続いた。
アクィラは帝都の屋根瓦を眺め、ヴァンはその横顔を観察した。
「……恨んでいるか」
唐突な問いだった。
「幼い頃、一度も顔を見せなかった。帝都に呼び寄せてからも、会おうとはしなかった。余を恨んでいるか」
怒りも、謝罪の色もない。ただの状況確認のような、冷徹な声。
「……はい」
ヴァンはまっすぐに見返して答えた。
「あります」
「正直だな」
「取り繕っても一秒で見抜かれる相手に、嘘をつくのは効率が悪いので」
アクィラは、少しだけ目を細めた。
「貴様の身分は二重に厄介だ」
アクィラは視線を外さずに言った。
「私生子というだけで、旧貴族には目障りな存在になる。その上、貴様はフィロメラの子だ」
声の温度が、ほんのわずかに変わった気がした。
「フィロメラの遺産を欲しがる者は星の数ほどいる。フィロメラの子だ、貴様は。それだけで的になる。余が近づけば、的に印をつけるのと同じだった」
弁解ではない。謝罪の言葉など一つもない。
(……変な親父だ)
ヴァンは内心で毒づいた。
(だが、理にかなっている)
「母のことを、聞いてもいいですか」
アクィラは視線を虚空に向けた。
「……よく、笑う女だった」
岩みたいな声が、ほんの少しだけ緩んだ。
「誰も気にも留めないものを見て、突然笑い出す。理由を聞くと、長々と理解不能な理論が始まる。余には半分も分からなかった。だが、退屈はしなかった」
アクィラの目が、現在ではなく、十数年前の過去を見ている。
「天才というのは、常に何かを見つけている。あの女の隣にいると、世界が少しだけ広く見えた。……特別な女だった」
「……旧貴族が反乱を起こした年でしたね」
「余は前線にいた。あの女は身重で、逃げる体力がなかった。……それだけのことだ」
ヴァンはテラスの石畳を見つめた。
(分かっていた事実の確認だ。なのに、妙に胸が詰まる)
「学院で、己を証明しろ」
アクィラの声が、再び冷徹な総司令のものに戻った。
「箔をつけてから出て来い。貴様のその異端の戦術、軍団長を張れるだけの地力はすでにある。そうなれば、次期大元帥候補の一人として盤上に乗せてやる」
ヴァンは顔を上げた。
「……俺は、そんな野心はありませんよ」
「そうか」
アクィラは、今度は明確に、少しだけ笑った。
その頃、屋敷の外壁の向こう側。
シカラン・レイセンは、抉れた、へし折れた木立の中心に立っていた。
周囲一帯の地形が変わるほどの破壊痕。だが、標的の肉片はおろか、血の一滴すら残っていない。
(……消えた?)
背筋が冷える。
——違う。あれは陽動だ。
では、本命の標的はどこへ向かった?
(この奥におられる、大元帥閣下ッ!!)
シカランは血相を変え、屋敷の正門へと全速力で駆け戻った。
右目の魔導器が限界まで赤く輝き、索敵を一気に広げる。
屋敷の奥、テラスの付近。
いた。大元帥の巨大な魔力のすぐ傍に、見知らぬ魔力反応が一つ、張り付いている!
(私の目を掻い潜って、閣下の懐まで……!?)
「大元帥閣下!!」
シカランは叫びながら、屋敷の庭に躍り出た。
「ご無事ですか!!!」
走りながら、すでに両腕を広げている。
空間が悲鳴を上げ、莫大な高圧魔力が一瞬で極太の弓と弦を編み上げる。狙うはテラスの侵入者。引き絞られた絶弓は、放たれればテラスごと不審者を蒸発させる。
その矢尻が、侵入者に向けられた、その瞬間。
ズン、と。
テラスの縁に、岩山のような巨影が立ち塞がった。
アクィラだった。
大元帥は何も語らない。ただ静かに、一歩前へ出た。
——それだけで。
シカランが引き絞っていた『絶弓』の射線が、その圧倒的な背中によって完全に塞がれた。
無言の、「撃つな」という圧力。
「シカラン」
低い声が、庭全体を震わせた。
「弓を下ろせ」
シカランの指が止まった。
「……し、しかし、不審者が!」
「余の客だ」
圧倒的な一言。
シカランは唇を噛み、手の中の巨弓を霧散させた。
「……申し訳、ありません」
深々と頭を下げた。
アクィラはヴァンを玄関まで連れて歩いた。
扉を開けると、そこには弓を収め、彫像のように直立するシカランが待機していた。
アクィラが立ち止まり、口を開く。
「シカラン。こいつはヴァン・ラーク。軍情局特別監察官だ」
次に、ヴァンを見る。
「ヴァン。こいつはシカラン・レイセン。コルネリアの猟犬だ」
それが、ヴァンとシカランの初めての対面だった。
シカランの右目の魔導器がカチリと音を立てた。残った左眼が、射抜くようにヴァンを睨みつける。
「……ヴァン・ラーク。あなたが、御大姉の憂慮の種ですか」
ヴァンは不敵に笑い返した。
「光栄だな。面識もないのに、随分と気にかけてもらっているらしい」
一触即発の空気が流れる。
アクィラはそんな二人を意にも介さず、ヴァンに向かって言った。
「この屋敷は封鎖されている。余の許可なく入れる者はいない」
「はい」
「だが……貴様が来る分には構わん」
ヴァンは瞬きをした。
「どうせ埃を被ったまま放置されている。来るついでに、少し掃除でもしていけ」
それだけ言うと、アクィラは踵を返した。どこにも振り返らず、傷だらけの大きな背中を向けて、屋敷の奥へと消えていった。
(……あれが、帝国の頂点)
ヴァンはしばらく、その背中が消えた暗がりを見つめていた。
屋敷を出て、石畳の道を歩き出す。
背中にシカランの鋭い殺気を感じたが、追ってくる気配はなかった。大元帥が「客」と呼んだ以上、彼女に手を出せるはずがない。
(今日は、フィロメラの遺品も工房の手がかりも手に入らなかった)
(……次は、来ていいらしい)
ヴァンは小さく息を吐いた。
石畳の道を歩き出すと、木立の陰からシンカクが現れた。
無傷だった。
それ以上は、互いに何も言わなかった。
【第六十七章・終】
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