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第六十一章:雪崩

一度動き出した流れは、止まりません。


特にお金と人の欲が絡むと、その勢いは加速していきます。

作者も書きながら「ちょっと増えすぎでは……?」と不安になりました。

翌朝。


公債販売窓口が開く一時間前。

ヴァンが登院の廊下から覗き込んだとき、窓口の前にはすでに長蛇の列ができていた。


「…………」


昨日の初日とは、完全に別の光景だ。

最初は閑古鳥が鳴いていたというのに、今日は窓口が開く前から人が殺到している。

学生姿の若者、真新しい軍服の少尉、そして非番らしく私服の襟を立て、凍えた手に息を吹きかけながら並ぶ下士官まで――実に多種多様な人間が列を成していた。


(昨日の夜、帝都で何があったか……火を見るより明らかだな)


ヴァンは無言で列を眺めた。

昨日公債を買った者たちが、周囲に吹いて回ったのだ。

「ロルフ閣下が噛んでるらしいぞ」「あの札、本物だって話だ」「早い者勝ちで配属も選べるとか……」と。

列の最後尾で、誰かが小さく舌打ちした。

「昨日来ときゃよかった……」


昨日まで閑古鳥だったくせに。

一人が飛びつけば、この有様か。

(……分かりやすいな)



その日の「内覧会」はヴァンが主催しなかった。


「ローラン。今日の仕切りはお前に任せる」


前夜、帰ってきたばかりのローランにそう言い渡すと、彼は目を丸くした。


「えっ!? 本当に? 僕が、あの大商会の狸親父たちを相手にするの?」

「ビビってるのか?」

「……全然。むしろ最高の見せ場じゃないか、ヴァン!」


ヴァンはローランの肩を軽く叩いた。


「ただし、段取りは完璧に頭に叩き込んでおけ。大金が動く盤面でヘマをする奴は、三流以下の間抜けだぞ」


「分かってるって!」


ローランは夜を徹して資料を読み込み、当日の朝には商人の顔を作って内覧会の会場へと歩いていった。

ヴァンはその背中を見送ってから、逆の方向へと足を向けた。




ベルンハルトの執務室。


「……ここ、発注のサイクルがズレてますよ」


机の上に広げられた三冊の台帳。ヴァンがインクの跡を指差す。


「第三兵站拠点への馬の配送記録ですが、月曜起算で回すと、補給線の到着日基準と噛み合いません。やばいことになる」


「……ほう」


ベルンハルトは太い眉をピクリと動かし、台帳の数字を鋭く睨みつけた。


「確かにこれでは兵站が詰まるな。助かったぞ、ヴァン。ワシ一人なら危うく見落とすところだった。計算の速さだけは一人前だな」


ベルンハルトは鼻を鳴らし、赤いインクで素早く修正を書き込んだ。

この男は決して無知ではない。むしろ実戦を知り尽くしているからこそ、ヴァンの指摘の正確さを即座に理解し、素直に評価できるのだ。


二人で静かに数字と向き合う時間。

ペンの走る音と、時折、台帳のページをめくる音だけが響く。




昼をわずかに過ぎた頃だった。

バンッ!と、扉が勢いよく開いた。


「旦那ァァァァ!!!」


ワイルドだった。普段のへらへらした顔が、今日は異様な熱を帯びている。

その手には、真新しい紙の束が握られていた。


「ひひっ! あっしもちゃっかり買っちゃいやしたァ! 『銅級』ですけどねェ! これで配給の列に並ばずに――って、そうじゃねえ!」

「落ち着いて話せ。何があった」

「内覧会でァ――あっし、震えが止まりませんでしてねェ……」


ワイルドは一度深呼吸し、声を極限まで潜めた。


「旦那ァ……やべえですぜ……金級の一発目……決まりやした」

「いくらだ」

「……三千万……ですぜ」


静寂。

ヴァンは台帳から目を上げた。


「三千万、ゴールドでさァ」


「……落札者は誰だ?」


ワイルドは生唾を飲み込み、その名を口にするのすら恐れるように声を震わせた。


「コルネリア・フォン・ローゼンクロイツ閣下です」


「…………」


ヴァンは立ち上がった。


(コルネリア……)

大元帥アクィラ・ソルが引き取ったという、戦友の遺児。

そして何より――母フィロメラの遺産であり、帝国最大の軍需拠点である『フィロメラ工房』を実質的に牛耳っている特権階級の女だ。


(今の俺には、まだ彼女の全貌が見えていない)


「……三千万一本で、お前の目標額は超えたぞ」


ベルンハルトが、重い声で言った。


「分かってます」


ヴァンは窓の外を見た。


(なぜ、あの女が動いた?)

純粋な投資か。それとも、俺の動向を探るための牽制か。

どちらにせよ、今の俺にあの女を盤面から排除する力はない。


「旦那ァ、それで、その後の経過なんですがァ」


ワイルドの興奮冷めやらぬ声が続く。


「コルネリア閣下のご落札が場に知れ渡った途端に、残りの商会連が一斉に動きまして……! 昨日まで様子見してた狸どもが、現金かき集めて怒濤の申し込みでして……!」

「……本日分の最終集計は?」

「……八千万」

「…………」

「八千万ゴールドです、旦那ァ!」


ベルンハルトが台帳を閉じた。


「ヴァン。周辺都市への展開はどうする? これ以上は――」


「いや、予定通りやります」


ヴァンは即答した。ベルンハルトが目を細める。


「ただし、『三日間限定』、かつ『発行枚数に上限を設ける』。条件を絞ります」

「ほう。あえて出し渋るか」

「ええ」


ベルンハルトは大きく一つ頷き、再び台帳を開いた。


「……では続きをやれ。第四兵站の馬の発注サイクルがまだ残っているぞ」


「……はい」


ヴァンも静かに椅子を引いた。




その頃、内覧会の会場では。


(落ち着け。落ち着け、ローラン)

壇上に立つローランの手は、かすかに震えていた。

正面には、帝都を牛耳る大商会の主人たちが居並んでいる。


(ヴァン。お前はわざと来なかったんだろ。この盤面を、僕に任せた)


ローランは顔を上げ、商人の笑みを浮かべた。


「ご出席いただき、ありがとうございます。本日は、帝国戦時公債・金級の一番権利について、特別競売形式にてご案内申し上げます――」


その時。

会場内に、低い雑談の声が満ちていた。商会主たちが互いに顔を寄せ、

数字の読みを囁き合っている。

部屋の奥の扉が開いた。

声が、途中で途切れた。


真紅。

身体の線に沿った軍装風のドレスに、黒い外套。高いヒールが石畳を踏む音が響く。


コルネリア・フォン・ローゼンクロイツ。


笑い声が、途中で途切れた。

彼女は誰の目も気に留めず、最前列の席に座り、黒いレースの手袋をした手を膝の上に重ねた。

ただそれだけで、この空間の支配者が誰なのかが決定づけられた。


(まずい。本物の化け物だ)


ローランは内心の冷汗を隠し、深く一礼した。


「……コルネリア閣下、ご光臨賜り光栄に存じます」


コルネリアは答えない。ただ少し顎を上げて、「続けろ」と視線だけで命じた。


「では――競売を、始めます」


百万、五百万、一千万。数字はあっという間に跳ね上がる。

千五百万。

そこで、商会主たちの足並みが止まった。


「二千万」


誰かが慎重に声を上げた。沈黙が降りる。


「三千万」


コルネリアの声だった。

誰も反応できなかった。


「三千万、ゴールド。……ご異議は」


ローランが尋ねるが、誰も声を出せない。


「――落札、コルネリア・フォン・ローゼンクロイツ閣下」


その瞬間、呪縛から解かれたように商会主たちが立ち上がった。

「金級の残りの枠、すぐに申し込みたい!」


「ウチが先だ! 昨日から話を聞いていた!」


怒号と怒鳴り声が飛び交う室内を、コルネリアは静かに眺めていた。

その暗い瞳が、ほんの少し細まる。


(……三千万で、このネットワークを手に入れたつもりかしら)

(いいえ。あなたはここにいない。ということは――)


「使い方を、知っているのね」


誰にも聞こえない声で呟き、コルネリアは猩紅色の裾を翻して部屋を後にした。




夕方。


「……疲れたぁぁぁ」


帰ってきたローランは、宿舎のドアを開けるなり椅子に崩れ落ちた。


「お疲れ」

「ヴァン、聞いてよ! コルネリア閣下が来たんだよ!」

「ワイルドから聞いた」

「それで、三千万! 一発で三千万! 帝都の商会連中が全員ドン引きしてたよ!」


ヴァンは台帳から視線を上げず、短く言った。


「よくやったな、ローラン。お前がいなきゃ成立しなかった」


ローランは口を開け、そして照れ隠しのようにそっぽを向いた。


「……まあ、そりゃ、僕の交渉術あってのものだけどさ」


ヴァンは再び数字に目を落とす。


(八千万)

目標の八倍。これだけあれば、第一段階の兵站ネットワークは余裕で組める。

(コルネリアの動機は追って考える。今は動く必要がない。金がある。それが全てだ)


窓の外で、帝都の夜が静かに降りてくる。

民が動いた。商会が動いた。あの女まで動いた。


(金はある)

(それで十分だ)


ヴァンはペンを走らせながら、窓の外の夜を一度だけ見た。

(コルネリア……)

それだけ考えて、また数字に目を落とした。




【第六十一章・終】

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