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第五十九章:後方の異端

ここでは「静かな時間」と「選択の意味」を描いています。


リヴィアのシーンは、かなり抑えて書いています。

泣き叫ばせることもできましたが、

あえて「声を殺す涙」にしました。

その分、ヴァンの立ち位置――

“何も言わない優しさ”が際立つ形になっています。

図書館は、いつも通り静かだった。


本棚の間を抜ける風。

魔力灯の柔らかい光。

インクと羊皮紙の、落ち着いた匂い。


だが、あの窓際の一番奥――いつもの指定席が、ずっと空いていた。


ヴァンはそれを確認して、別の席に座る。

戦術教本を開く。活字を目で追う。

だが、文字はただの黒い染みにしか見えず、まったく頭に入ってこなかった。


(……リヴィアが来ていない)


第一軍団の駐屯地へ向かっていたリヒャルトの死が、帝国政府から公式発表されて数日が経った。

当然だ。実の兄を惨殺されたばかりの娘が、翌日から平然と学院に来られるわけがない。


(分かっている)


分かっている。分かっているが。


パタン、と。

ヴァンは重い音を立てて教本を閉じた。




三日後、リヴィアが不意に図書館に現れた。


最初、ヴァンは彼女だと気づかなかった。

いつもとあまりに様子が違ったからだ。


足音に、いつもの微かな戸惑いがない。

銀糸のような髪は綺麗に整えられているが、雪のように白い肌はさらに青白く、目の下には痛々しいほどの翳りがあった。

軍校の制服の外套を羽織っているが、その下のドレスには、いつも彼女が嬉しそうに自慢してくる機油の染みが一つもなかった。模型作りで作った指先の小さな絆創膏も、綺麗に剥がされていた。


リヴィアはヴァンを見つけ、ふらりと足を止めた。

今にも倒れそうなほど、細く、頼りない輪郭だった。


「……ヴァン、さん」


「来たのか」


「はい……。少しだけ、ここにいたくて」


「座れ」


リヴィアは、そっと向かいの椅子を引いた。

本は持っていなかった。机の上に、何も広げなかった。

ただ、力なく座っていた。


ヴァンも、何も言わなかった。

図書館の静寂だけが、二人の間に満ちていた。


しばらくして、リヴィアがひび割れたような声で口を開いた。


「……お兄様が、亡くなりました」


「……ああ」


「ノストラの工作員による、卑劣な暗殺だと……帝国政府から、通達がありました」


「……聞いた」


「……そう、ですか」


リヴィアは、机の上で両手をきつく重ねていた。

透き通るような白い指が、血の気が失せるほどに固く組まれ、わずかに震えている。


「父は、翌日から……枢機院での執務に、戻りました」


「……」


「何事もなかったように……膨大な書類を読んで、会議に出て……夕食の席でも、いつも通り私に笑いかけて……普通に、話していました」


ヴァンは黙って聞いていた。


「でも、夜中に……ふと目が覚めて、父の部屋の前を通ったら……」


リヴィアは、そこで一度言葉を詰まらせた。

息を吸う音が、かすかに震える。


「……声が、聞こえました。書斎で一人、声を殺して……泣いていました」


絞り出すような、静かな声だった。

無理やり感情を蓋で押さえつけようとして、限界を迎えている声。


「父は、朝になったらまた『鉄血の軍務総長』の顔をするんです。何も言わないで、何もなかったふりをして、また帝国の為に仕事をするんです」


「……」


「私は……どうすればいいんでしょうか。お兄様がいなくなって、父が泣いていて……私には、何も……」


ポツリ、と。

机の木目に、丸い水滴が落ちた。


リヴィアの華奢な肩が、小さく震え始めた。


ヴァンは、無言で立ち上がった。

机を回り込んで、彼女の横に立つ。

一秒だけ、拳を握りしめ――迷いを捨てて、手を伸ばした。


そっと、彼女の頭を自分の胸元に引き寄せる。


リヴィアの顔がヴァンの外套に触れた瞬間、ついに堰が切れた。


「……っ、あ……うぅ……っ」


声を殺して、泣いた。

図書館だから、声は出さないように必死に堪えていた。

だが、肩は激しく震え、ヴァンの胸元の布地が、彼女の熱い涙でみるみるうちに濡れていく。


ヴァンは何も言わなかった。

ただ、彼女の華奢な背中に、そっと片手を置いただけだった。


(……俺には、慰める資格なんてない)


だが、今ここでそれを語ることは、残酷な自己満足でしかない。


(今は、ただそこにいるだけでいい。お前が泣き止むまでの、ただの場所でいい)


リヴィアはしばらくの間、ヴァンの胸で泣き続け、やがてゆっくりと顔を上げた。

袖で赤く腫れた目元を拭って、恥ずかしそうに小さく呟く。


「……すみません、お洋服を、汚してしまって」


「気にするな。洗えば済む」


「でも……」


「気にしなくていい」


リヴィアは、少しだけ笑った。

泣き腫らした目で、弱く、それでも確かに。


「……ありがとうございます」


ヴァンは答えず、自分の席に戻って教本を開いた。

リヴィアも、しばらくそこに座っていた。

本を読まず、ただ、穏やかな呼吸を取り戻しながら。




その翌週。

軍事学院に、軍上層部からの通達が届いた。


『戦時優秀生、前線参謀部への特別配属推薦』。


開戦の気運が高まる中、有望な学生を早期に前線へ送り込むための異例の措置。

その推薦リストの筆頭には、堂々と『ヴァン・ラーク』の名前が記されていた。


だが。


「断ります」


教官室の空気が、完全に凍りついた。


ヴァンは、差し出された推薦状を机の上に押し返した。

担任教官が、信じられないものを見るように目を丸くしている。


「……ラーク。貴様、分かって言っているのか。これはただの配属じゃない。総司令部直轄の前線参謀だぞ。将来の将官が約束されたような――」


「承知しています。その上で、辞退します」


「理由を聞かせろ」


「後方兵站を希望します」


「後方……だと?」


教官の額に、青筋が浮かんだ。


「貴様、今が何時だか分かっているのか! 帝国とノストラの間で戦端が開きつつあるこの時に、首席クラスの優秀生が泥臭い後方支援を選ぶというのか!」


「はい」


「なぜだ!」


「前線で火の玉を撃つより、後方でやれることの方が多いと判断したからです」


教官は、ヴァンをしばらくの間、怒りと呆れが入り混じった無言で見つめていた。

やがて、深く重いため息を吐き出す。


「……ベルンハルト院長に直接話を通せ。俺の一存では、この推薦状は握り潰せん」


「ご配慮、感謝します」


ヴァンは一礼し、教官室を後にした。


扉を開けて廊下に出た瞬間、周囲の空気が変わるのを感じた。

壁際にいた学生たちが、ひそひそと声を潜めてヴァンの背中を指さしている。


噂は、すでに学院中に回っていた。


「おい、聞いたか。あのラークが前線の推薦を蹴ったらしいぞ」

「マジかよ。臆病者じゃないか」

「『隠し子』なんて噂もあったが、とんだ見掛け倒しだな」

「後方勤務って……安全な場所で荷車の見張りでもするつもりかよ」


嘲笑と、失望の視線。

この「火力と武勲こそが絶対の正義」である帝国において、前線から逃げて後方を選ぶ者は、無能か臆病者の烙印を押される。


ヴァンはすべて聞こえていた。

聞こえていて、歩調を1ミリも変えなかった。


(笑いたければ笑え)


ヴァンは口角をわずかに上げた。


前線で派手に魔法を撃ち合うのが「戦争」だと思っている、単細胞の馬鹿ども。

そういう奴らがいるから、この帝国の軍隊はいつも息切れを起こすのだ。


(これだから助かる)




ベルンハルトの執務室の扉を叩き、「入れ」という低い声に応えて中へ入る。


そこは、紙の地獄だった。


「……くそっ。アクィラ閣下は地図の上で簡単に『前進しろ』と仰るが、その十万の兵が食う飯を運ぶのは誰だと思っているんだ……っ!」


鉄灰色の髪を振り乱し、整えられた八字髭を歪ませながら、ベルンハルト院長――いや、この帝国の『兵站・後勤総長』は、机の上に積み上げられた膨大な物資要請書の山と格闘していた。


ヴァンが入ってきたことに気づくと、血走った目でペンを置いた。


「……前線への推薦を蹴ったそうだな」


「耳が早いですね」


「エレナがひどく驚いていたぞ。当然、私もだ」


ベルンハルトは椅子に深く背を預け、凝り固まった首を鳴らした。


「理由を聞かせろ」


ヴァンは勧められもしないのに、空いている椅子に腰を下ろした。


「戦争の勝敗を決めるのは、前線の馬鹿げた火力ではありません。後方の兵站です。だから、俺は後方に残ります」


ベルンハルトの眉が、ピクリと動いた。


「……青二才が、知ったような口を。で、具体的に何をやるつもりだ」


「帝国の腐りきった補給線の改革です」


ヴァンは机の上にあった白紙の裏紙を一枚引き寄せ、羽根ペンを取った。


「今の帝国の補給線は、主要都市と前線拠点を『長い一本の線』で結ぶ構造です。巨大な輸送隊が、膨大な物資を抱えたまま、この長い直線を端から端まで移動する」


ヴァンは紙に長い線を引き、その上に重い丸を描いた。


「速度は遅く、馬と人の消耗が激しい。途中で敵の遊撃隊に襲われれば一巻の終わり。非効率の極みです」


「……分かっている。そんなことは百も承知だ。それがどうした」


「変えます。俺が」

「……青二才が。具体的に言ってみろ」

「『拠点中継ハブ・アンド・スポーク』方式です」


ヴァンは紙を裏返し、今度は全く違う図を描き始めた。


「中心となる『大拠点』をいくつか作ります。そこから放射状に、網の目のように小さな『中継点』を多数配置する。巨大な輸送隊が長距離をノロノロ運ぶのではなく、短距離を『リレー形式』で繋ぐ形に変えるんです」


ベルンハルトは、無言でヴァンの描く図を見つめていた。


「例えば、拠点Aから拠点Bへの物資は、途中の小さな中継点に荷を下ろして、すぐにAへ引き返す。次の隊がその荷を拾ってBへ運ぶ。輸送隊が全区間を走破する必要がなくなる」


「……」


「馬も人も、疲労が分散される。一つの隊が襲われても、システム全体は止まらない。補給線を断たれるリスクが劇的に下がります」


ベルンハルトは腕を組んだまま、食い入るようにその紙を見つめていた。


「……似たような構想を、ワシも昔、考えたことがある」


「そうですか」


「だがな、小僧」


ベルンハルトは、太い指で机をドンと叩いた。


「致命的な問題がある。中継拠点の数をそれだけ増やせば、莫大な『建設費』と『維持費』がかかる! 特に平時の維持管理コストは軍の財政を圧迫する。以前、アクィラ閣下にこの案に近いものを具申したことがあるが、初期投資の数字を見た瞬間に『却下だ』と一蹴されたわ!」


「その問題には、完璧な解決策があります」


「……ほう?」


ベルンハルトは目を細め、身を乗り出した。


「言ってみろ」


「拠点の維持を、軍ではなく『民間の商人』にやらせます」


「……何?」


「軍が建設した防壁付きの中継拠点を、商人に貸し出すんです。宿屋として、食堂として、貸し倉庫として、民間に開放する。商人たちが商売で利益を上げながら、勝手に拠点を維持管理してくれる。帝国は最初のハコを作るだけでいい。維持費はゼロどころか、莫大な『賃料』が軍に入ってきます」


ベルンハルトは、ぽかんと口を開け、ヴァンを凝視した。


「……貴様、正気か? 軍事施設を商人に貸し出すだと?」


「『軍民共用(デュアルユース)』です。平時は交通の要所の宿場町として機能させ、有事には軍が『優先使用権』を強制発動する契約を結んでおく。さらに賃貸の条件として、倉庫容量の三割は『帝国軍用』として常時空けさせ、食料の一定量の備蓄を義務づける」


「……」


「商人側にとっても破格の条件です」


ヴァンは続けた。


「交通の要所に、帝国軍が建てた頑強な施設を安く借りられる。軍の輸送隊が定期的に利用するから、客足は完全に保証される。野盗が出ても軍が守ってくれる。これほど美味しい商売の拠点は他にありません」


「……つまり、拠点の警備と宣伝すら、商人の自己責任でやらせるというわけか」


「そういうことです」


ベルンハルトは顎髭を強く撫でた。

沈黙が降りた。

だがその瞳には、かつてないほどの強烈な光が宿り始めていた。


「……だが」


ベルンハルトは、わずかに声を震わせて反論した。


「建設の『初期投資』という最大の問題が残っている。どれだけ将来の維持費が浮こうと、最初の中継点を乱立させる莫大な金が今の帝国軍にはない。アクィラ閣下を説得する材料にはならんぞ」


「そこです、院長」


ヴァンは、唇の端を吊り上げた。


「俺には、その莫大な初期投資を、軍の国庫を痛めずに全額集める『資金調達の方法』があります」


「……待て。その『資金調達の方法』とやら、具体的にはどうするつもりだ。ただの絵に描いた餅なら、アクィラ閣下に笑われるのがオチだぞ」


ヴァンは、口角をさらに上げた。


「もちろん、絵に描いた餅ではありません」


ベルンハルトは、息を呑み、目を大きく見開いた。


「……なんだと?」




【第五十九章・終】

続きもお付き合いいただけたら嬉しいです。

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