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第五十七章:凪の一週間

第五十四章から続く一連の流れは、ここでひとまず一区切りとなります。

政争、諜報、そして個人の感情が交錯する中で、ヴァンがどの立ち位置に立つのか――その「軸」を描くパートでした。


第五十五章・第五十六章では、軍情局という巨大な組織と、その頂点に立つヴィヴィアンの存在感を前面に出しています。

彼女は単なる「上司」でも「敵」でもなく、もっと曖昧で危うい立ち位置にいる人物です。その両義性が今後どう作用するかを意識して読んでいただけると嬉しいです。


軍情局の重い扉を出た瞬間、ヴァンは深く息を吐いた。


帝都の冷たい空気が、肺の奥まで入り込んでくる。

血と鉄の匂いに満ちた地下牢に比べれば、少し埃っぽい街の空気すら美味く感じられた。


(……とりあえず、俺の出番はひとまず終わりか)


後は、ヴィヴィアンがやる。ヴィヴィアンが、全部を握っている。

俺が無理に動く必要はない。そういうことだろう。


(……なんだか、いいように使われた気もするが)


釈然としないものを胸の奥に押し込み、ヴァンは歩き出した。




宿舎の部屋は、ひどく静かだった。


ローランの荷物はあるが、本人はいない。

今頃、オグラの家族を護衛してノストラ国境へ向かう馬車に揺られているはずだ。


ヴァンは上着を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。

何もない、白い天井を見上げる。


(俺、帝都に来た理由ってなんだったっけ)


答えはすぐに出た。

母フィロメラの死の真相を探ること。

そして、大元帥である親父に会って、「なんで俺を捨てたんだ」と一発殴ってやること。


(……で、結果がこれか)


自分の護衛が二人死んだ。

他国のスパイを一人捕まえた。

軍務総長の息子が消えた。

恐ろしい軍情局長に目をつけられ、挙げ句の果てに勲章までもらった。


何一つ、片付いてない。


「……やれやれ」


ヴァンは腕で目を覆った。

まあいい。焦って死んでは元も子もない。


そう結論づけて、意識を手放した。

その夜は、珍しく夢を見なかった。




それから、一週間が過ぎた。


相変わらずの座学。

夜はヴァレリアン家で飯を食って。

放課後は店に立つ。


「……ローランの奴、早く帰ってこないか」


ヴァンはカウンターの奥で、拡張パック『補給線』の在庫を数えながらぼやいた。

ローランがいないせいで、全部一人だ。


「店長! この『重装歩兵』のコマ、もうワンセットないか!?」

「三日後に入荷する。予約表に名前を書け」

「おいおい、また待ちかよ!」


客層は、開店当初より随分と広がっていた。

学生だけでなく、非番の若い将校までもが軍服姿で顔を出すようになっている。

『帝国戦棋』は今や、帝都の軍人たちの間でちょっとしたブームになりつつあった。


愛想笑い一つ浮かべないヴァンの無愛想な態度は、血の気の多い軍人たちからすれば「媚びない店長」として逆に好感を持たれているらしい。


(……まあ、金が入るなら文句はないが)


チャリンと売上金を金庫に放り込みながら、ヴァンは小さくため息をついた。




一つだけ、帝都を覆う不穏な影があった。


リヒャルト・リンドガルドの死。

その噂は、瞬く間に帝都中に広まっていた。


「視察中の落馬事故」という軍の公式発表を信じる者は少なく、「何者かの襲撃を受けて護衛ごと惨殺された」という噂が、まことしやかに囁かれている。


ヴァレリアン家の食卓でも、その話題は避けられなかった。


「リヒャルトが死んだか……。きな臭いことこの上ないな」


ベルンハルトは肉を切り分けながら、低く唸った。


「軍務総長のご子息だぞ。落馬で死ぬようなタマじゃない。裏で誰かが糸を引いているとしか思えん」


「帝都の治安が、随分と乱れておりますわね」


エレナが、カトラリーを静かに置いて答えた。その目は、珍しく翳りを帯びている。


「……リヴィアお嬢様が心配ですわ。あの方、お体が弱いのに」


父ベルンハルトにそう相槌を打ってから、エレナはヴァンの方へと顔を向ける。その瞬間、彼女の声から冷たい氷が溶け落ちた。


「ねえ、兄さん。……兄さんは、会いに行かなくていいの?」


ヴァンは何も言わず、黙ってスープを飲んだ。


(……リヴィア)


あれから、学院の図書館でも彼女の姿を見かけていない。

当然だ。実の兄が死んだのだから。


(……会いに行くべきか?)


だが、今は時期が悪すぎる。

リンドガルド家は今、嵐の中心にある。下手に接触すれば、かえって彼女を巻き込むことになる。


(もう少しだけ、待て)


ヴァンは、その判断を腹の底に深く沈めた。




数日後、アイリが退院した。


「ちっ……やっと病院の不味いメシから解放される」


病院のベッドから降りたアイリは、口の悪さとは裏腹に、随分と顔色が良くなっていた。


「まだ戦えないぞ」とヴァンが釘を刺すと、「分かってるよ」と即答した。


「でも、自分の足で動ける。それだけで十分だ」


ビリィが姉の腕にしっかりと抱きつきながら、ヴァンを見上げた。


「ねえボス、ビリィ達の新しいお家ってどこ?」


「ワイルドに手配させた。あいつに案内してもらえ」


「ワイルドって、あのヘラヘラした変なおじさん?」

「そうだ」

「……信用できるの、あいつ?」


「仕事はする男だ」


「ふうん……」


アイリは少し考えてから、ヴァンを真っ直ぐに見た。


「なあ、ボス。オレたちの家賃とか、生活費はどうすんだよ」


「当面は俺が出す」


「……なんで」


「先行投資だ。お前が完全に治って働けるようになったら、治ったら死ぬほど働いて返せ」


アイリはしばらくヴァンを睨みつけていた。

それから、狼耳を少し垂らしながらぽつりと言った。


「……分かったよ」


それだけ言って、そっぽを向いた。


素直な感謝の言葉など、一切口にしない。

ヴァンも、そんなものは求めていなかった。




事実、ワイルドは有能だった。


下町から少し離れた、治安がそこそこ良くて目立たない物件を完璧に見つけてきた。


ただ。


「あっしとしてはァ、先に手付金を頂けませんとォ、大家に顔が立ちませんでしてねェ……」


揉み手でお辞儀を繰り返すその姿は、相変わらず胡散臭い。


「……払う。だからその笑い方、やめろ」

「ひひっ! 痛み入りますゥ! いやはや、商売柄、このへりくだり方はもう骨の髄まで染みついておりましてェ」


手付金をせびり取った後、ワイルドは「お近づきの印に」とヴァンを食事に誘った。


連れて行かれたのは、大通りから二本入った裏路地にある、薄汚れた屋台だった。

木のベンチに、メニューは安い臓物の煮込みと黒パン、そして水で薄めたような蜂蜜酒だけ。


「旦那ァ、ここの煮込みはですねェ、帝都広しといえどもそうそうお目にかかれない絶品でして……」


「お前が俺から巻き上げた金で『奢れる範囲』で選んだだけだろうが」


「ひひっ……お見通しですゥか」


ヴァンは呆れながらも、木のスプーンで煮込みを口に運んだ。


「……悪くないな」


「でしょうでしょう!」


ワイルドが満面の笑みを浮かべた。


(……まあ、悪い男じゃない)




そんな一週間だった。

気づけば、少しだけ肩の力が抜けていた。




シンカクの潜伏先へ顔を出すのは、週に何度かの習慣になっていた。


食料と、魔導回路のメンテナンス用の消耗品を届けるためだ。

その日も、ヴァンは裏街の安宿の扉をノックした。


「入れ」


鍵が開く音と共に、シンカクの声がした。


彼女が使っている部屋は、相変わらず余計なものが何もない。

寝台。小机。窓。生活感というものが一切排除されていた。


ヴァンは荷物を机に置き、壁にもたれかかった。


「なんか変わったことはあったか」


「一つあります」


シンカクは、仮面をヴァンに向けた。そこには一切の感情も、瞳の揺らぎすら存在しない。


「フィロメラの遺した別の工房の場所を、思い出しました」


ヴァンは思わず、ピクリと眉を動かした。


(……シンカクが、記憶を取り戻した?)


「……なんで今まで思い出さなかったんだ」

「必要がなかったので」

「今は必要なのか」

「はい」


シンカクは短く答えた。


「リヒャルトを斬った時、剣が欠けました。これでは硬いモノを斬る時、手間取ります。新しい剣が要ります」


(あの筋肉バカの護衛どもを全滅させるのに、無理な使い方でもしたか)


ヴァンは小さく息を吐いた。

理由が彼女らしすぎて、疑う気にもなれない。


「フィロメラ工房のことか? それなら軍情局の管轄だぞ」


「違います。自分ひとりで武器を作っていた隠れ家です」


「……分かった。場所は?」


「覚えています。行けば、分かります」


「俺も行く」


ヴァンが即答すると、シンカクは首を横に振った。


「駄目です。ヴァンは遅い。足手まといになります」


「俺の方こそ却下だ。お前を単独で動かして、またどこかの貴族の首が飛んだら俺が胃潰瘍になる。護衛として俺の傍から離れるな」


「……」


シンカクは数秒間、沈黙した。

ヴァンを見つめ、何かを計算しているようだった。


「分かりました。ヴァンに同行します」


「よし、決まりだ」


ヴァンは壁から背中を離した。


「日程は追って決める。出発の準備をしておけ」

「了解しました」

「それから」

「何ですか」


ヴァンは部屋の出口で足を止め、振り返った。


「刀が欠けたなら、もっと早く言え。使い物にならない武器で俺の護衛ができるか」


シンカクは少しだけ間を置いた。


「……次からは、早く言います」


「そうしろ」


ヴァンは部屋を出た。


廊下の窓から、赤い夕陽が差し込んでいた。


(フィロメラが、個人的に武器を作っていた拠点)


ヴァンは足を止める。

母は、あんな時代に、一体何を作り出そうとしていたのか。


答えは、行けば分かる。


ヴァンは再び歩き出した。

夕陽が、路地の石畳を赤く染めていた。




【第五十七章・終】

第五十七話までお読みいただき、ありがとうございます。


続きもお付き合いいただけたら嬉しいです。

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