第五十六章:蜘蛛の巣
巣の主との対話は、
必ずしも「答え」を与えてくれるものではありません。
それでは第五十六話、よろしくお願いします。
ヴィヴィアンは、組んだ両手の上に顎を預けたまま、しばらくヴァンを眺めていた。
品定めするような視線ではない。
もっと――別の何かを慈しむような、それでいて深淵を覗き込むような目だった。
「……大きくなったわね」
静かな、独り言のような呟きだった。
「あの夜は、あなたがまだ産声を上げたばかりだったのに」
「……」
ヴァンは表情を変えなかった。
だが、記憶の最底辺に沈んでいた光景が、不意にフラッシュバックする。
焼け落ちる炎の夜。歪んで揺れる視界。シンカクの冷たい腕。
悲しげな瞳で、自分を覗き込んでいた女の顔。
転生して間もない、赤子だった頃の微かな記憶が、目の前のヴィヴィアンと重なった。
「目が似てるわ」
ヴィヴィアンの声が、柔らかくなる。
「フィロメラにそっくり。彼女、そういう目をしていたわ。綺麗な目」
「……あなたは」
ヴァンは静かに、だが確かな圧力を持って踏み込んだ。
「あの夜、俺と母の傍にいたんですね」
「……ええ」
「なら、知っているはずだ」
ヴァンの声が一段低くなった。
「教えていただけますか。母の身に、何があったのかを」
「知っていたなんてものじゃないわよ」
ヴィヴィアンは、ほっそりと口元を歪めて笑った。
「ねえ、坊や。軍情局の正門前に石碑があるでしょう。あそこに刻まれた言葉、覚えてる?」
ヴァンは記憶を引き出した。
あの古びた石碑。ずっと、ただの飾りだと思っていた。
「……『真実に、階級なし』」
「ええ」
ヴィヴィアンは頷いた。
「あれを刻んだのは、フィロメラよ。私がこの建物を新しくした時に、彼女が一番最初に言ったのよ。『ヴィヴィ、ここに刻ませてちょうだい』って」
一秒。
二秒。
(母が)
ヴァンの胸の奥で、何かが静かにきしんだ。
「……だとすると」
ヴァンは、さらに言葉を研ぎ澄ませた。
「軍情局のトップであるあなたが、母の死亡についての詳細な記録を持っていないはずがない。真相を、教えてください」
「……旧貴族の叛乱よ」
ヴィヴィアンは、一息で答えた。
「旧権威にしがみついた連中が、フィロメラの魔導工業に危機感を抱いた。彼女の存在が自分たちの利益を脅かすと判断し、排除しようとした。……それだけよ」
「それだけ、ですか」
「それだけ」
短い。
拍子抜けするほどに。
(嘘だ。あるいは、核心を隠している)
ヴァンがもう一歩踏み込もうとした、その瞬間。
ヴィヴィアンが先に口を開いた。
「――リヒャルトは、お前が殺したのか?」
音が、消えた。
呼吸の音すら、やけに大きく聞こえる。
ヴァンが頭の中でけたたましく鳴り響いた警鐘を、冷徹な理性が強引に握り潰す。
呼吸一つ、瞬き一つすら乱さない。ただ、心臓の音だけが嫌にうるさく感じられた。
「いいえ」
間を置かず、瞬き一つせずに答えた。
「それは、本当に?」
「本当に」
「理由は?」
「俺が現場に到着した時点で、リヒャルトはすでに帝都を脱出していました。追いつけるはずがない」
ヴァンは淡々と事実だけを告げた。
「それに、彼を殺すメリットがない」
「そう? 愛しのリヴィアの『お兄様』なのに?」
ヴィヴィアンが、笑みに何か艶やかな猛毒を混ぜた。
「義兄になるかもしれない人間を殺すなんて、随分と度胸のいることじゃない?」
「坊や、リヴィアのことは好きなのかしら」
「今は関係ない話です」
「そうね、関係ないわね」
ヴィヴィアンは微かに笑って、唐突に次の言葉を落とした。
「――シンカクは、帝都にいるの?」
(ッ……!!)
ヴァンの心臓が、破裂しそうなほどの音を立てて跳ねた。
だが、顔の筋肉は1ミリも動かさない。
(なぜ今、シンカクの名前が出る……!?)
圧倒的なプレッシャー。
喉元に、冷たい刃を突き立てられたような錯覚。
事実として、リヒャルトを惨殺したのはシンカクだ。
ヴィヴィアンは気づいているのか? 現場の痕跡から? それとも、シンカクの不在を観測していた?
(落ち着け。絶対にボロを出すな)
ヴァンは、さらりと答えた。
「います」
「どこに?」
「俺の護衛として、常に俺の傍に」
そうだ。シンカクは俺の影だ。帝都を離れて暗殺に向かうはずがない。
それが、ヴァンが用意した完璧な『アリバイ』だった。
ヴィヴィアンは、ヴァンの目をじっと見つめ返し――一つ、頷いた。
「そう」
それ以上、何も言わなかった。
「……よかった」
ふっと、ヴィヴィアンの纏う空気が緩んだ。
「これからも、誰かに聞かれたら同じように答えなさい。『シンカクはヴァン・ラークの護衛として、常に帝都にいる』。それだけ」
ヴァンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(この人は……分かっていて、言っているのか?)
言葉の裏を解析する。
「これからも同じように答えろ」というのは――リヒャルトの死が他殺であると断定され、身辺調査が入ることを予期している証拠だ。
「……局長」
「ヴィヴィアン、と呼びなさいって言ったでしょう」
「ヴィヴィアン」
ヴァンは問いを一本に絞った。
「俺を警戒しているんでしょう。なら、なぜ庇うような真似を?」
「坊や」
ヴィヴィアンの声は、柔らかいままだった。
「警戒しているのと、守っているのは、矛盾しないのよ」
「……」
「続きは、また今度ね」
これ以上の追及は許さない、という明確な拒絶だった。
ヴァンは、唇を一度結んで、引いた。
(今は、押しても無駄だ。これ以上はボロが出る)
「……オグラの件ですが」
ヴァンは話題を変えた。
「彼女は、使えます。帝都での情報網を俺の手で再構築させる」
「知ってるわ」
ヴィヴィアンは涼しい顔で言った。
「あなたが彼女を寝返らせたと聞いた時、正直、驚いたもの。私が想定していたのは、拷問で名簿を吐かせるくらいだったから。あなたはそれより、ずっと上手くやってくれたわね」
「褒めてもらえるとは」
「褒めてるのよ。素直に受け取りなさい」
ヴァンは少しだけ間を置いてから、最後の矢を放った。
「リヒャルトの後ろには、誰がいますか」
「……」
「第一軍団長、マルクスですか」
ヴィヴィアンは、答えなかった。
ただ、その沈黙こそが雄弁な回答だった。
「坊や」
ヴィヴィアンはゆっくりと言った。
「あなたの友人、ローランがノストラから帰ってくるでしょう。そうしたら、自ずと盤面が見えるわよ」
「……今は帰って、休みなさい。あなた、まだ傷が癒えていないでしょう」
言い切った。
有無を言わさぬ、大人の声だった。
「……最後に一つだけ」
「何?」
「今回の件の黒幕は、相応の罰を受けますか」
ヴィヴィアンが、初めて少しだけ間を置いた。
「……ええ」
「相応の、罰を」
それだけだった。
ヴァンは一礼し、踵を返した。
「坊や。また来なさい。おばさんの話し相手が少なくてね」
「……フィロメラの話を、聞かせてもらえるなら」
重厚な扉が、背後でゆっくりと閉じた。
廊下の暗がりに出た瞬間、ヴァンは壁に背を預けて目を閉じた。
(旧貴族の叛乱。それだけ、か)
足りない。
情報が、あまりにも足りない。
シンカクへの言及。
「守っている」という言葉。
目を開ける。
(……まあ、いい)
ヴァンは廊下を歩き出した。
静かに、前だけを向いて。
軍情局の地下深く。
最下層の特別牢は、酷く冷たい。
石の壁。魔力灯の薄い光。鉄格子の向こうに、小さな亜人の影が体を丸めていた。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
規則正しい八本の魔導義肢の音が、石畳に反響した。
それは、まるで死神の足音のようだった。
オグラは、その音を聞いた瞬間、反射的に全身の毛を逆立てて顔を上げた。
「……ヴィヴィアン・クラウス」
格子の向こう。
薄闇の中に、八本脚の巨大な蜘蛛が静かに立っていた。
軍情局長ヴィヴィアンは、組まれた両手を膝の上に置き、一切の感情を排した酷薄な瞳でオグラを見下ろしていた。
先ほどまでヴァンに見せていた「おばさん」の面影は、微塵もない。
そこにあるのは、帝国最強の諜報機関を統べる『毒蜘蛛』そのものだった。
「……軍情局長殿が、こんな掃き溜めに何の用?」
オグラは虚勢を張って、引きつった笑みを浮かべた。
いつもの軽薄な口調を装おうとした。
だが、声は情けないほど震え、語尾は空回りしていた。
圧倒的な格の違い。Aランクの暗殺者ですら裸足で逃げ出すほどの、濃密な殺気が満ちている。
「確認よ」
声の温度が、異常なまでに低かった。
「あなたはリヒャルトの件で、ヴァンに『余計なこと』を吹き込んでいないわね?」
オグラは、自分の指がじわりと冷汗で濡れるのを感じた。
もう、スパイとしての仮面すら維持できなかった。喉の奥が干からびて、いつもの英語交じりの口癖すら出てこない。
「……なんなんだ、あいつは……っ」
ただの怯えた小動物のように、オグラはひきつった声で絞り出した。
「ただの学生には見えない。軍情局の特別監察官なんて、そんな肩書きだけじゃない。あの年齢で、あの盤面の回し方……異常だ」
ヴィヴィアンは、無表情のままオグラを見据えた。
「それは、あなたが知るべきことではないわ」
カシャ、と一本の義肢が鉄格子を軽く叩いた。
それだけで、オグラの肩がビクッと跳ねる。
「一つだけ、忠告してあげるわ、ネズミさん」
ヴィヴィアンの声が、オグラの鼓膜に直接這い上がってくるように響いた。
「もしあなたが、この先誰かに、ヴァンのことや今回の件について一言でも囁こうとしたら」
「……」
「誰もあなたを守れないわ」
オグラは、息を飲んだ。
肺の空気が、完全に凍りついた。
「わ、分かった……」
「賢いネズミは嫌いじゃないわ」
ヴィヴィアンは、ふっと口角だけを上げた。
目は、全く笑っていない。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
八本の義肢が、再び不気味な音を立てて暗がりへと遠ざかっていく。
オグラは膝を抱えたまま、その音が完全に消えるまで、いや、消えてからもずっと、震えを止めることができなかった。
【第五十六章・終】
第五十六話までお読みいただき、ありがとうございます。
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