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第五十五章:巣の主

情報を握る者。

規則を操る者。

そして――全てを見通す者。


今回は、そんな「巣の主」との対面です。

軍情局の正門前。

ヴァンは通りから少し離れた建物の陰に背を張り付け、視線だけを前に向けていた。


(――厄介なことになっているな)


正門の前で、二人の男が鋭く対峙していた。


一人は、コンラート・アイゼンハルト。

帝国軍事学院の教育総監にして、マルクス派閥の重鎮。そして今は、マルクスの代理人としてこの場にいた男。


もう一人は、ディートリヒ・シュタイン。

軍情局監察部部長。剃り上げた頭と消えた眉。腕を組み、軍情局の門を塞ぐように仁王立ちしている。


「――コンラート教授。規則は規則です」


シュタインの声は、鉄板のように平坦で冷たかった。


「局長不在中、地下の囚人への接見は部長級以上の合議、もしくは事前承認が必要です。いかなる外部からの要請であろうと、例外は認められません」

「規則、か」


コンラートは、鷹揚に、だが腹の底に響く声で応じた。


「私は軍務総長閣下の代理として参っておるのだぞ。それでも局の規則が優先されるというのかね、シュタイン部長」

「はい」

「……ふむ」


コンラートは顎髭を撫でた。


「それは、暗にこういう意味ではないのかね。そのノストラのスパイは、君たち軍情局にとって『都合の悪い証言』をする。だから、我々外部の人間には会わせたくない――と」

「邪推です」

「そうかね」

「ただの規則です。軍情局の規範は帝国軍の全ての部門に優先します。さっさとお引き取りください」


二人の間に、火花が散るような剣呑な空気が流れた。




(――どうする)


ヴァンは壁の陰から、思考を高速で巡らせた。


(俺が今ここで介入すれば、オグラの口を塞ぎたいという『動機』をマルクス派に晒すことになる。かといって放置すれば、シュタインがいつコンラートの圧力に屈して接見を認めるか分からない)


八方塞がりだ。

腕を組み、踏み出しかけた、その時だった。


遠くから、規則正しい馬蹄と軍靴の音が聞こえてきた。


(――ん?)


ヴァンは顔を上げた。

赤い。


一隊の兵が、完璧な隊列を組んで通りを進んできた。

『赤備え』――軍情局直属の最強の精鋭部隊だ。


その中央を、一台の馬車が進んでいた。

普通の馬車よりも車体が一回り以上大きく、窓には分厚いベルベットのカーテンが引かれていた。


赤備えの隊列が、正門前でピタリと止まった。

シュタインとコンラートが、同時に振り返った。




馬車の扉が開いた。

姿よりも先に、声が響いた。


「――あらあら。私が留守にしていた数日の間に、随分と局の前が賑やかになっているじゃなァい」


女の声だった。

低く、艶やかで、酷く落ち着いている。

そして――声の底に、ねっとりとした『笑い』が滲んでいる。


「コンラート教授。あなたのような方がこんな埃っぽい所へお越しだなんて……うちの地下室にでも、何かご興味が?」

「い、いや――これは、ロルフ総長閣下の代理として……」

「そう。ご苦労様」


たった一言。

それだけで、コンラートの反論を完全に封じ込めた。


赤備えの隊長が敬礼する。

シュタインが、正門の前で深く頭を下げた。


「――局長。お戻りをお待ちしておりました」

「報告は後で聞くわ。今は、コンラート教授をお見送りしてちょうだい」

「……承知いたしました」


コンラートが、忌々しげに何かを言い返そうと口を開いた。


「教授」


女の声が、冷たく遮る。


「お引き取りを」


コンラートは、口を半開きにしたまま石像のように固まった。

やがてギリッと奥歯を噛み締め、無言で踵を返した。屈辱に塗れた、悻々たる背中だった。




馬車と赤備えの隊列が、正門をくぐって軍情局の奥へと消えていった。


ヴァンは壁の陰で、その光景を静かに見送った。


(――あれが、軍情局のトップか)


クラウス局長。その名前と権力は知っていたが、姿を見たのは初めてだった。

いや、姿すら見ていない。馬車の奥から声が聞こえただけだ。


(「クラウス」という姓から男を想像していた。まさか女性だったとは)


ヴァンが思考を巡らせていた、その時。

背後の路地から、微かな衣擦れの音がした。


「旦那ァ」


声がかかるより早く、ヴァンは振り返りざまに裏拳を放ちかけて――ピタリと寸前で止めた。


「わわッ!? あっしですよ旦那、あっしィ!」

「……ワイルドか」


ヴァンは拳を下ろし、小さく息を吐いた。


「近づく時は足音を立てろ」

「出してやしたよォ、旦那が考え事に夢中になってただけで!」


ワイルドは汚れた帽子を手でくるくる回しながら揉み手をし、へらへらと卑屈な笑いを浮かべた。


「それで、何の用だ」

「局長がお呼びですよォ。どうぞ、中へ」

「今、馬車が着いたばかりだろう。いつ俺を呼んだ」

「到着される前から、旦那がここにいることなんてお見通しだったんじゃないですかねェ。あの方は、そういう御方なので。ひひっ」




軍情局の内部は、昼間だというのに酷く薄暗かった。

地下へ続くような長い回廊を進むにつれ、窓が減っていった。魔力灯の薄暗い橙色の光だけが、冷たい石の壁を照らしていた。


最奥にある局長室の扉は、重厚な黒檀でできていた。


「――どうぞ」


ワイルドが恭しく扉を開けた。


「では、あっしはここで。ひひっ」

ギィィ……と、扉が背後で重々しく閉ざされた。




広い部屋だった。

だが、異常なまでに暗い。


巨大なマホガニーの執務机の上には、書類の山が崩れそうに積まれている。

三方の壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされ、窓には分厚い遮光カーテンが引かれており、外の光は一筋も入らない。


部屋の奥に、確実に『人』の気配はあった。

だが、暗すぎて姿が判然としない。


「――クラウス局長」


ヴァンは部屋の中央で立ち止まり、声をかけた。


「特別監察官のヴァン・ラークです。お呼びでしょうか」


返事の代わりに。

暗がりから、異様な音がした。


カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。



(――なんだ?)

それは、人間の足音ではない。規則正しい、硬質な金属音。

薄暗い魔力灯の光の中へ、ゆっくりと『それ』が姿を現した。


本棚の暗がりから、それはゆっくりと姿を現した。




ヴァンは、半歩下がりかけて踏みとどまった。


背中から生えた、八本の金属の脚。

鈍く光るその巨大な『魔導骨格』が、蜘蛛のようにワシャワシャと床を叩き、中央の『人体』を宙に浮かせるようにして運んできている。


その中央の人体――黒いドレスを着た女の体は、まるで糸の切れた人形のように、両腕も両脚もだらりと垂れ下がっていた。指先一つ自力では動かせない、完全な麻痺状態。

彼女の体を支え、動かしているのは、背髄に直接接続された八本の異形の義肢だけだった。


(巨大な蜘蛛……ッ)


本能的な悪寒が背筋を走った。

だが次の瞬間――魔力灯の光の下に晒されたその『女の顔』を見て、ヴァンは目を細めた。


(――知っている顔だ)


脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。

自分がこの世界に生まれた直後。炎に包まれた屋敷。シンカクに抱えられて脱出する揺れる視界。

あの夜、悲しそうに覗き込んでいた――女の顔。


「……」

「あら、ふふっ」


女は、だらりと首を傾けたまま、艷やかに笑った。

まるで絹のようになめらかで、骨の髄まで響くような柔らかい声だった。


「あなたにとっては、『初めまして』よね、坊や」




八本の義肢が、執務机の前でピタリと止まった。


女は、異形の足に支えられてはいるものの――その佇まいは息を呑むほどに優雅だった。

動かない手足も、病的に白い肌も、魔力灯の光の中でどこか退廃的な芸術品のような美しさを放っている。


「……クラウス局長」


ヴァンは、乾いた唇を開いて静かに言った。


「軍情局、局長」

「ええ、そうよ」

「……クラウスという姓から、てっきり厳つい初老の男を想像していました」


一秒の間があった。


「ふふっ、あはははっ」


ヴィヴィアン――クラウス局長は、本当におかしそうに笑い声を上げた。


「坊や、感動の再会の第一声がそれ? 随分と失礼な挨拶ね」

「見誤っていました。申し訳ありません、局長」

「いいわ。そういう物怖じしない正直なところ、嫌いじゃないわよ。ヴィヴィアンと呼んでいいわよ、坊や。『局長』なんて堅苦しい呼び方、あなたには似合わないもの」


八本の義肢が、器用にカシャ、カシャと動いて執務机の裏へと回り込んだ。

その中の一本の足が器用に椅子を引き、宙に浮いていたヴィヴィアンの身体を、壊れ物を扱うようにゆっくりと座面に下ろす。

だらりと垂れたままの彼女の両腕を、義肢が丁寧に拾い上げ、机の上で指を組むような自然な姿勢にセッティングした。


机の向こうで、ヴィヴィアンは組まれた両手の上に顎を乗せ、ヴァンをじっと見つめた。


「さて」

「はい」

「私が帝都を空けていた短い間に、色々と派手にやってくれたみたいね」

「……少しばかり」

「ふふっ、『少し』、ね」


ヴィヴィアンの声が、一段低くなった。


「私の可愛い特別監察官の坊やが、白昼の路上でA級相当の暴走傭兵を素手で叩きのめして勲章をもらい。軍務総長のドラ息子が護衛ごと野営地で惨殺され。そして、ノストラの大物スパイがうちの地下牢に転がっている」


ヴィヴィアンは首だけをわずかに傾け、蜘蛛が獲物を絡め取るような笑みを浮かべた。


「……どう少なく見積もっても、『少し』じゃないわよね?」

「……ええ。少し、多すぎました」

「正直でよろしいわ」


ヴィヴィアンは笑ったまま、ヴァンから一切視線を外さなかった。


その深淵のような瞳の奥は――少しも、笑っていなかった。


「――座りなさい、坊や。おばさんに、お伽話を聞かせてちょうだい。隠し事なしで、全部ね」




【第五十五章・終】

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