第五十四章:試される者
今回は、その「責任」と「選択」を問われる場面です。
事態は個人の対立を超え、
派閥同士の駆け引きへと広がり始めました。
夕暮れの大通り。
ヴァンは人波を縫うように足を速めていた。
軍情局まで、あと三街区。
「――ヴァン」
不意に声がした。
前方の路地裏から、見慣れた影がヌルリと歩み出てきた。
ヴァンはピタリと足を止めた。
「……シンカク。どこへ行っていた」
「少し、郊外へ」
郊外。
その瞬間、視線がシンカクの右手に落ちた。
黒い手袋に覆われていて直接は見えない。だが、血の匂いがした。
「……リヒャルト・リンドガルド」
「はい」
シンカクは、悪びれる様子など微塵もなく、淀みなく答えた。
「お前が殺ったのか」
一秒。
「はい。排除しました」
ヴァンは、しばらく声を出せなかった。
足元の石畳を見て、茜色の空を見て、もう一度石畳に視線を落とした。
怒鳴りつけたかった。
実際に、喉の奥まで怒号がせり上がっていた。
(――待て。冷静になれ、整理しろ)
深く、深く息を吸い込む。
(怒鳴っても仕方ない。問題は、なんで勝手に動いたかだ)
ゆっくりと息を吐き出す。
「……リヒャルトには手を出さなくていいと、言ったはずだ」
「帝都の中だけの制限だと判断しました」
「……は?」
「彼は帝都を出て、マルクスの駐屯地へ逃げようとしていました。強力な後ろ盾を得れば、後々必ずあなたの脅威となる。それは明白でした」
淡々と、事実だけを述べるような声だった。
「あなたは、彼を殺したがっていました。でも、リヴィアの兄だから、迷っていた」
ヴァンは、息を呑んだ。
「……は?」
「だから、私が代わりに殺しました。私なら、誰の兄でも迷いません。これで問題は解決しました」
(――待て待て待て待てッ!)
ヴァンの頭の中で、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
(こいつ……今、空気を読んだのか!?)
普段は比喩も冗談も一切通じないポンコツのくせに、なんでこういう場面だけ察しがいいんだ!?
いや、違う。空気を読んだんじゃない。俺の微細な表情や心拍数から『殺意』と『躊躇』を物理的に観測して、勝手に『最適解』を導き出しただけだ!
「それは――根本的な読み違いだ、この大バカ……ッ!」
ヴァンは頭を抱えそうになるのを必死で堪えた。
「……私が、バカ」
シンカクが、かすかに小首を傾げる。
「いいか、よく聞け。証拠もない段階で軍務総長の嫡男を殺せば、今度は帝国軍全体が俺を殺しに来る。それは『解決』とは呼ばない」
シンカクが、わずかに小首を傾げた。
「……理解できません」
「何がだ」
「あなたの迷いの理由が。昨日、あなたは確かに『義兄さん』という呼称を用い、リヴィアへの配慮を見せていました。判断が鈍っていると見ました」
ヴァンは深々と溜息をついた。
「――あれはただの皮肉だ」
「ジョーク」
「そうだ。言葉の裏にある空気を読め」
「……空気」
シンカクはもう一度首を傾けた。
「では、どうすれば」
「次から誰かの首を刎ねる前に、必ず俺に【最終確認】を取れ。絶対だ」
シンカクは一拍置き、深く頭を下げた。
「……了解しました。失礼しました」
(……済んだことだ)
(どうする)
「他に知っている人間はいるか」
「いません」
「目撃者は」
「いません」
「……そうか」
ヴァンは少しの間、沈黙して思考を巡らせた。
「分かった。当分、お前は宿舎から一歩も出るな」
「外出禁止、ですか」
「そうだ。買い出しも外食も全部禁止だ。部屋に引き籠っていろ」
「……了解しました」
「飯は俺が運んでやる」
「……了解しました」
念を押し、ヴァンは踵を返した。
「どこへ行くのですか」
「後始末だ」
シンカクは一礼し、路地裏の影に溶けるように消えた。気配も音も完全に断つ――彼女の十八番だ。
ヴァンはその背中を見送り、大きく息を吐いた。
(さて――)
軍情局へ向けて、改めて歩き出そうとした、まさにその時だった。
「――ヴァン・ラーク特別監察官殿とお見受けする」
路地の入り口に、制服姿の軍人が三人、音もなく立っていた。軍情局の人間ではない、枢機院直属の親衛部隊だ。
「……いかにも」
「枢機院へのご同行を願いたい。ロルフ・リンドガルド軍務総長閣下からの【特命】である」
ヴァンは背後のシンカクに『動くな』と視線で制止し、静かに頷いた。
(仕事が早すぎるぞ、義父殿……!)
暗い大理石の外壁。長く続く回廊には歴代の軍務総長たちの肖像画が並び、額の中から無表情に見下ろしてくる。
案内された部屋は、重苦しい空気に満ちていた。
高い天井。磨き上げられた巨大な執務机。
ロルフ・リンドガルドは、机の向こうに座っていた。
金縁の単片眼鏡。白髪交じりのオールバック。胸元に勲章が並んだ濃紺の将官服。
目が合った瞬間、空気が、重い。
(――重い。これが、帝国の均衡を保つ男の覇気か)
「座れ」
低く、腹の底に響く声だった。
ヴァンは一礼し、静かに着席した。
「お前と、私の息子リヒャルトは、ひどく折り合いが悪かったそうだな」
開口一番だった。
前置きも、貴族的な世辞も一切ない。
ヴァンは表情を僅かにも崩さず、静かに答えた。
「ご子息とは、戦術論で何度か意見が食い違ったことは事実です。まだ十分な対話の機会を得られておらず、残念に思っております」
「残念、か」
ロルフの単片眼鏡の奥の目が、剣呑に細められた。
「――昨夜、リヒャルトは私兵を連れて帝都を発った。そして夜明け前、野営地にて何者かの襲撃を受け、護衛もろとも惨殺された」
ヴァンは、目を見開いた。
息を呑み、絶句した。
「……惨殺、ですか? 落馬事故ではなく?」
「初耳という顔だな」
「今、初めて伺いました。大通りでは馬の暴走だと噂になっていましたので……」
ロルフは、ヴァンの顔をじっと眺めた。
机の下では、指先が無意識にペンの軸をギリギリと握り締めている。皮膚の下の血流や心拍数まで値踏みするような、恐ろしく静かで鋭い目だった。
ヴァンは微塵も動揺を見せず、その視線を真っ直ぐに受け止めた。
「……そうか」
ロルフはそれだけ言うと、机の引き出しから一通の封書を取り出し、音もなくヴァンの前に滑らせた。
「読め。差出人は第一軍団長、マルクス・ソル殿下だ」
ヴァンは封を切り、手紙に目を通した。
(――なるほどな。よくできている)
内容は、極めて丁寧で貴族的な文面だった。
『ロルフ総長閣下。さて、ご子息リヒャルト少佐と准娘婿ヴァン・ラーク殿が、闇商人の件を巡り相当に揉めていると聞きます。このままでは醜聞となるのは必定。どちらの肩も持ちませんが、上級者として火種を摘みたく、調停の宴を設けたく思います。ヴァン殿とは私も遺恨がありますが――ここは水に流す契機とさせていただければ。何卒、ご高配を賜りますよう――』
(俺がオグラを捕まえる前に書かれた【親書】か。今じゃ立派な“動機の証拠”だ)
ヴァンは静かに手紙を机に戻した。
「――何か言いたいことはあるか」
ロルフが腕を組み、深く背もたれに体を預けた。
「第一軍団長からの親書。そして、息子の不自然な死。帝都の雀どもが、これをどう囀るか分かるな」
「はい。私に動機と機会があったと」
「そうだ」
ロルフの単片眼鏡が、冷たい光を反射した。
「私は中立だ。娘の婚約者であろうと、私から無条件の庇護を与えられると思うな」
「護っていただかなくとも結構です」
ロルフの片眉が、ピクリと上がった。
ヴァンは背筋を伸ばし、毅然と続けた。
「以前、軍務総長の後ろ盾を求めたのは事実です。ですが今は、私自身の足で立てます。無実の罪で潰されるつもりはありません」
「……大きく出たな」
「事実を申し上げているだけです」
ロルフは、単片眼鏡を指で押し上げた。
「もう一つ聞く」
「はい」
「――リヴィアがこの件を知ったとき、お前をどう思うと考える?」
静かだが、殺気に近い圧力だった。
部屋の温度が、一瞬にして数度下がった気がした。
ヴァンは、視線を逸らさなかった。
「……正直に申し上げます。最初にリヴィア嬢に近づいたのは、軍務総長という背景が欲しかったからです。それは否定しません」
ロルフは何も言わなかった。
「ただ、今は違います」
「『違う』と言うだけなら、その辺の詐欺師でもできる」
「はい」
ヴァンは、言葉に力を込めた。
「証明は、総長の庇護がなくとも、この程度の罠は噛み砕いてみせます。……それと、リヴィア嬢の件ですが。彼女が噂を聞いてどう判断するかは彼女の自由です。ですが、私から逃げるつもりは毛頭ありません」
「……」
「それが、私の覚悟です」
ロルフは、しばらく沈黙した。
広すぎる執務室に、古時計の秒針の音だけが重く響いていた。
「――スパイの件だ」
不意に、ロルフが静かに口を開いた。
「あのスパイを表舞台に引き出せ。全ての証言を公式な法廷記録に残す。それで、この件の不透明な幕引きができるだろう」
ヴァンは、机の上の手紙をもう一度見た。
(――なるほど。罪をオグラ一人に押しつけて『スパイの暗躍』として処理し、俺への疑いを晴らす。楽なやり方だな)
(だが、それは駄目だ)
「それは、お断りします」
「……なぜだ」
「オグラが今、軍情局の地下で口を閉じているからこそ――本当の黒幕は焦ってボロを出しているのです。彼女が表舞台に出た瞬間、証言は全て黒幕の『都合のいい方向』に誘導され、もみ消される。真相は闇に葬られます」
ヴァンは顔を上げ、総長を見据えた。
「総長が仰る方法は、真犯人の用意した台本通りに踊るのと同じです」
ロルフの暗い瞳が、わずかに動いた。
「……根拠はあるのか」
「今は、まだありません」
「では、ただの青臭い推測だ。推測で、軍務総長たる私に講釈を垂れるのか」
「推測でも、筋が通っているなら賭ける価値はあるはずです」
ロルフは腕を組んだまま、氷のような視線でヴァンを睨み下ろしていた。
長い、長い沈黙だった。
やがて。
「――下がれ」
短く、それだけを命じた。
「失礼いたします」
ヴァンは立ち上がり、深く一礼して踵を返した。
「ヴァン・ラーク」
「……はい」
「お前の話は――筋が通っている部分も、ある」
それだけ言って、ロルフは視線を書類の山に落とした。
続きの言葉はなかった。
枢機院の重い扉を出た瞬間、ヴァンは大きく息を吐き、すぐさま足を速めた。
(急げ)
思考をフル回転させながら、回廊を大股で歩く。
(ロルフが急に『オグラを使え』と言い出した理由は一つだ――既に誰かが総長に耳打ちしている。ルキウスか、マルクスか、それとも別の誰かが。オグラが喋った瞬間、リヒャルト殺しの罪は全て俺に被せられる。盤面は、もうそこまでセットされている)
軍情局の方角へ、ヴァンの足は自然と駆け足になっていた。
(オグラが今、地下牢でどういう状態にあるか――一刻も早く確認しなければならない)
(そして、絶対に喋らせてはいけない。少なくとも、俺が黒幕の首根っこを掴むまでは)
すっかり日の落ちた帝都。
冷たい夜風を切り裂きながら、ヴァンは軍情局へと走った。
【第五十四章・終】
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