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幕間四:想定外の刃

誰が仕掛けたのか。

誰が利用したのか。

そして、誰が「想定外」だったのか。

――昨夜・リヒャルト――


廊下は、気味が悪いほど静まり返っていた。


追跡に向かわせた私兵たちが戻ってきた。だが、誰の手にも男の姿はない。


「……逃げられました」


「……本官が直々に、行く」


リヒャルトは短く応じ、背中に回した拳をギリギリと握り締めた。


(……まずいな)


冷や汗が背筋を伝う。

ヴァン・ラークは、「オグラ」の名を口にした。そして、こちらの動揺を確かにその目で見た。見た上で――逃げたのだ。


(見られたな)


窓の外の暗闇を睨みつける。

その時だった。


「――お兄さま?」


廊下の奥から、か細い声がした。

薄手のショールを羽織ったリヴィアが、扉の陰から不安げに顔を覗かせていた。


「何か……騒がしい音がしたような気がして。誰か来たんですか? ヴァンさんが……来て、捕まえようと……?」


青い瞳が、怯えたように揺れている。

リヒャルトは一拍だけ呼吸を止め、いつもの「優しい兄」の表情を作った。


「違うよ、リヴィア」


「不審者が庭に迷い込んだだけだ。もう私兵が追い払ったから、何も問題はない」

「……ヴァンさんじゃ、ないんですか?」

「ああ。彼は――今日は来なかったようだな」


リヴィアの肩が、わずかに落ちた。安堵と落胆が入り交じった、ひどく無防備な顔だった。


リヒャルトは妹の隣に歩み寄り、その細い肩を軽く叩いた。


「遅い時間だ。夜風は体に毒だろう、部屋に戻りなさい」

「……はい」

「風邪を引くといけないからな」

「……お兄さまこそ、お顔の色が少し……」

「私なら問題ない」


妹を部屋まで送り届け、その扉が静かに閉まるのを見届ける。

リヒャルトは扉の前で、一秒だけ目を閉じ――すぐに冷徹な軍人の顔に戻った。


(――時間がない)


踵を返し、足早に自室へと向かった。




深夜の帝都。

数騎の馬の蹄の音が、冷たい石畳を叩いていく。




コルネリア・フォン・ローゼンクロイツは、自室の豪奢なソファに深く腰を下ろしていた。

緋色のネグリジェの上に、黒いレースの外套を羽織り、片手で優雅に頬杖をついている。


「――座りなさい」


リヒャルトからの一通りの報告を聞き終えても、彼女の表情は微塵も動かなかった。

指先が、椅子の肘掛けを静かに叩いている。


トン。トン。トン。


「……状況は理解したわ」


やがて、冷たい声が落ちた。


「一つ確認するけれど。あなたが軍情局に捕まった場合――私への影響は当然として、第一軍団への影響も分かるわね?」

「……はい」

「そして、お父様への影響も?」


リヒャルトの喉が引きつるように鳴った。


「帝国軍務総長ロルフ・リンドガルド。あなたのお父様が中立を保っているからこそ、今の帝国の均衡は保たれている。その息子が、ノストラのスパイと繋がっていたとなれば……全部、まとめて吹き飛ぶわよ。あの男、そこを突いてくるわね」


リヒャルトの顔から、一気に血の気が引いた。


「……まさか。あの男一人でそこまで……」

「あのドブネズミは、そういう真似をする男よ」


コルネリアは立ち上がり、冷酷に彼を見下ろした。


「行き先は一つしかないわ。今すぐ帝都を出て、マルクスの駐屯地へ向かいなさい」

「……それは」

「今のあなたには、確固たる背景シェルターが必要よ。第一軍団の傘の中に潜り込めば、軍情局といえどそう簡単には手が出せない。あなたが時間を稼いでいる間に、こちらで『証拠』を処理するわ」


リヒャルトは深く首を垂れた。


「……分かりました。すぐに出発します」

「ええ」


コルネリアは、赤く塗られた唇を三日月のように歪めた。


「道中、気をつけてね」




扉が閉まり、リヒャルトが去った。

コルネリアは窓の外、帝都の夜景を見下ろした。


「――影」


部屋の暗がりから、黒装束の暗殺者が音もなく進み出た。


「はっ」

「リヒャルトが帝都を出るわ。道中で処理しなさい」

「……御意。手法は」

「ヴァン・ラークの仕業に見せかけるのよ。どうせあの男は今夜、リンドガルド邸の近くで暴れていた。動機も機会も、いくらでもでっち上げられるわ」

「承知いたしました」

「派手にやりすぎないこと」


暗殺者は深く頭を下げ、再び影の中へと溶けていった。




――夜明け前・行軍――


リヒャルトは副官と二十名の精鋭を率いて、帝都の南門を密かに抜け出していた。


街道は使わず、農道や獣道に近い小径を選んで進む。

馬を並べた副官が、不安げに声をかけてきた。


「長官……このルートでは時間がかかりますが」

「目立って軍情局に捕捉されるよりはマシだ」

「はっ」


夜明けの深い霧が立ち込めている。

一刻ほど進んだ頃、前方から二つの影が現れた。帝国軍の若い巡回兵だった。


「――リンドガルド少佐殿!」


相手はすぐに敬礼した。リヒャルトは馬上から鷹揚に頷く。


「ご苦労。夜明けの巡回か」

「はっ! 最近、この辺りで荷馬車を狙う盗賊が出没しておりまして」

「そうか。気をつけろよ」

「ありがとうございます!」


二人の巡回兵が道を譲り、一行は通り過ぎた。

馬を進め、巡回兵の姿が霧の中に完全に見えなくなった頃――リヒャルトは前を向いたまま、冷たく命じた。


「副官」

「はい」

「後ろの二人。処理しろ」


副官は一拍だけ息を呑み、すぐに頷いた。


「……御意。手法は」

「盗賊の仕業に見せかけろ。見られたら困る」


後方から三名の兵が静かに隊列を離れた。

ほどなくして、短い悲鳴すら上がらぬまま処理が終わった。


リヒャルトは前だけを見据えていた。

地平の端が、白々と明け始めていた。




――払暁・野営――


街道から外れた林の中に、一時的な野営地を設営した。

見張りを数名立たせ、リヒャルトは天幕の中で短い休息を取るべく目を閉じた。


(第一軍団の陣地にさえ着けば――)


意識が泥のように沈みかけた、その時だった。


「――長官!」


天幕の入り口がバサリと捲られ、副官が血相を変えて飛び込んできた。


「何事だ」

「不審者が、営地に侵入しました! ただ一人で……こちらへ向かってきます!」

「単独の不審者だと?」


リヒャルトが天幕の外に出ると、異様な光景が広がっていた。


十数名の完全武装した兵士たちが、半円状に包囲陣を敷いている。

その中心。


銀色の長い髪。

顔を完全に覆い隠す仮面。


女は、周囲の剣呑な殺気など一切存在しないかのように、ただ静かに立っていた。


「――お前が、リヒャルト・リンドガルドか」


静かな声だった。


「そうだ。……貴様、何者だ?」


「黒幕の名前を言え、ヴァンに危害を加える者は、殺します。だから、あなたを殺します」


会話が成立していない。

女は淡々と告げた。


リヒャルトは眉間に皺を寄せた。


「何を狂ったことを……」


「長官」


横から副官が震える声で耳打ちする。


「あの女……魔力の気配が、一切ありません。完全にゼロです」


「魔力がないだと? なんだ、あれは?」


この二十名は全員B級以上、半数はA級の精鋭だ。魔力量ゼロの女一人、片手間で済む。

単身で、武装した精鋭二十名の只中に踏み込んでくる正気ではない女。

リヒャルトは興味を失い、踵を返した。


「……好きにしろ。処理しておけ」


一人の兵士が下卑た笑いを浮かべ、制式軍刀を抜いて女に歩み寄る。


「魔力なしの女が粋がりやがって。手足を落としたら、温かいうちに少し遊んで――」


ヒュンッ。


銀色の軌跡が、空間を断ち切った。

兵士の笑いが凍りつく。


ズバッ!!


「……あ?」


兵士の上半身と下半身が、ズレた。

大量の血飛沫を撒き散らしながら、男の体が二つに分かれて地面に崩れ落ちる。


血の滴る太刀を下げたまま、女は抑揚のない声で言った。


「邪魔をするなら、あなたたちも殺します」


「――ッ!! 撃てェッ!!」


副官の絶叫と共に、兵士たちの魔力が一斉に爆発した。


ドンッ! ドンッ!

強化魔法による踏み込みの爆音。だが――


「長官、逃げ――ッ!!」


副官がリヒャルトの前に身を挺して飛び出した瞬間――気づけば、すでに何人かの首が宙を舞っていた。女は一直線にリヒャルトへと肉薄している。


ズガンッ!!

副官の胴体が、太刀の一閃で両断される。

だが、その一瞬の淀みが、リヒャルトに魔法を発動する猶予を与えた


「隠行ッ!!」


リヒャルトの姿が空間に溶け込むように消失する。


直後、生き残った後衛の魔導兵たちがシンカクに向けて一斉に魔法を乱射した。

「死ねェッ!!」

火球、氷の槍、真空の刃が雨あられと降り注ぐ。シンカクの追撃は、その圧倒的な弾幕によって一時的に阻まれた。


爆炎と土煙が野営地を包み込む。


爆炎の中。


女は、すでにその場にいなかった。


「——どこだ!?」


「右! 右から——」


スンッ。


二つの音が、連続した。


A級の兵士が二人、ほぼ同時に膝を折った。

首筋から、真横に、一線の赤が走っていた。


一刀。

一刀。


二人が倒れた。


後衛の二人が、咄嗟に得物を切り替えようとした。


切り替わらなかった。


スッ——。スッ——。


二つの、短い音がした。


二人が、崩れた。




一分後。


野営地に立っている者は、もう誰もいなかった。


シンカクは手の中の太刀を見つめた。刃がボロボロに欠け、使い物にならなくなっている。

無造作に地面へ投げ捨てると、足元に転がっていた兵士の死体から、新品の制式軍刀を引き抜いた。


静寂。


リヒャルトは、少し離れた大木の陰に背を張り付け、息を殺していた。

隠行魔法で完全に姿を消し、魔力の波動すら極限まで抑え込んでいる。


(なんだ、あれは……!)


全身から脂汗が噴き出している。

(だが、姿は消した。やり過ごせる――!)


ザク、ザク。


足音が、近づいてくる。


一歩。また一歩。

迷いなく。一直線に。


シンカクは、目に見えないはずのリヒャルトの、まさに『真正面』でピタリと足を止めた。

仮面の奥の視線が、彼を正確に射抜いている。心臓の音すら聞こえそうだった。


リヒャルトは、歯を食いしばった。


(もう終わりか?)


(——死ぬのか?)


ちがう。


まだだ。


「——ッ!」


隠行を、破った。


魔力が、弾けた。


右手の短刀が、女の喉元に向かった。


女の体が、ほんの僅か、傾いた。


後発先至。


ガンッ——!


右手首から先が、ない。


短刀が、土の上に落ちた。

指がついたまま。


「——あ」


声が、出た。


膝から崩れた。


地面に手をついた。

右手首から、血が噴き出していた。


視野が白くなった。


「——ァ、ァアアアッ!!」


悲鳴が、林の中に響いた。


女が、見下ろしていた。


「もう一度聞く」


同じ声だった。


「黒幕の人間は、誰か」


「き、貴様——ッ 本官は少佐だ、父上は——父上は軍務総長で——ッ!」


「もう一度聞く」


「金だ! いくらでも出す! 軍の地位も、権力も、お前が望むものを全てやる!」


女は、答えなかった。


「……命だけは。名前を教えれば、命だけは——助けてもらえるか」


女は、少しの間、黙った。


「——できない」


「……え」


「あなたも、後ろの奴も。私が殺す」


リヒャルトは、その言葉を聞いた。


(——死ぬ)


(絶対に、死ぬ)


死を悟ったリヒャルトが、最後にして最大の魔力を腕に集中させ、短刀を突き出した。


最後の魔力が、左腕に集まった。


「——ふざけるな、ァッ!!」


拳を、振った。


女の体が、すっと沈んだ。


シンカクの刃が、一閃した。


リヒャルトは、倒れていた。


喉から、空気が漏れる音がした。

それが、止まった。


林の中に、風が吹いた。


女は、制式軍刀を一度だけ振った。

血が、散った。


そのまま、歩いた。


振り返らなかった。




――明け方・コルネリア――


リヒャルト出発から数刻後。

追跡させていた暗殺者が、血相を変えてコルネリアの元へ戻ってきた。


「――殿下!」

「報告なさい。リヒャルトは片付いた?」

「それが……我々が到着した時には、既に野営地の二十二名全員が……息絶えておりました」


コルネリアの眉がピクリと動いた。


「全員? あなたたちが手を下す前に?」

「はい。傷口を調べましたが、全て『極めて高速の刃物』による一撃。しかも……現場に魔法の残滓ざんしが一切ありませんでした」


コルネリアは冷たい目を細め、思考を高速で巡らせた。


(――一撃必殺の神速の剣技)


この帝国で、そんな芸当ができる人間は片手で数えるほどしかいない。

その中で、真っ先に思い浮かぶのは。


「……ルキウスの懐刀。准S級剣士、『瞬』」


コルネリアの口角が、静かに持ち上がった。


(ヴァン・ラークの仕業にしようと思っていたけれど、もっと面白い手札が降ってきたわね)


「影よ」

「はっ」

「現場の偽装は必要ないわ。そのままにしておきなさい。そして、軍情局や各派閥に『真実』を仄めかすのよ」

「……真実、ですか?」

「ええ」


コルネリアは窓辺から朝日を見つめた。


「『第一軍団に助けを求めようとしたリヒャルトを、第二軍団の暗殺者が口封じのために惨殺した』――そういうシナリオよ」


第一軍団と第二軍団が、帝都の郊外で直接血を流した。

これで、引けなくなったわね。


「本当に、賑やかになってきたわね」


朝の光の中で、コルネリアの楽しげな笑い声だけが響いていた。




【幕間四・終】

ヴァンの知らないところで状況が動き、

その結果だけが彼の元に届く。

ここから先は、情報のズレと認識の差が

大きな流れを生んでいく局面になります。


続きもお付き合いいただけたら嬉しいです。

面白いと感じていただけたら、フォローや★評価で応援よろしくお願いします。

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