第五十三章:飴玉のあとで
一度張り詰めたあとには、
少しくらい息抜きも必要ということで。
今回は、帝都での小休止。
「――で、どうする気ですかい」
「追わない」
ヴァンは窓の外を見たまま、淡々と答えた。
「第一軍団の駐屯地に飛び込んだなら、むしろ好都合だ。あいつ、自分で旗を選んだ」
「好都合、ですかァ?」
「奴が帝都に戻る時――戻ってきた時に仕留める」
ワイルドは胡散臭そうに眉をひそめた。
「……旦那、それ、笑顔で言ってるのが一番怖いですよォ」
「そうか? まあいい、下がれ」
「へへっ、ではお暇しやすァ――」
ワイルドは揉み手をしながら三歩下がり、扉の向こうに消えた。
病院の病棟は、ツンとした消毒液の匂いがした。
ヴァンは白い扉を軽くノックする。
「アイリ、入るぞ」
「……チッ、ボスかよ。来るなら足音くらい鳴らせ」
返ってきた声は、以前よりずっと張りが戻っていた。
扉を開けると、アイリはベッドの端に腰かけていた。
腹部と左腕にはまだ痛々しい包帯が巻かれていたが――しっかりと自分の足で立っていた。
頭の狼の耳が、ヴァンを見てピクリと前を向いた。
「来るなら来るって言えよ」
「言ったら逃げるだろ」
「逃げるかよ、この体で」
アイリは不満げに鼻を鳴らした。
ヴァンはパイプ椅子を引き、彼女の向かいに座った。
「歩けるようになったか」
「廊下くらいならな」
「思ったより動けるな」
「……褒めんな、気持ち悪い」
アイリはそっぽを向いたが、耳だけは忙しなく動いている。ヴァンは少し笑った。
「早く治して戻ってこい。うちの陣営は、お前がいないと困る」
「――ハッ」
アイリが、皮肉げに唇の端を曲げた。
「ビリィも戻ってきたし、もうオレは用済みだろ。誰があんたの護衛なんかするかよ」
「お前以外に頼めるやつがいない」
「嘘つけ」
「本当だ」
「……」
アイリは目を逸らした。
それから、膝の上のシーツをギュッと握りしめ、ぼそりと言った。
「……あの時無理したせいで、魔導回路がやばいんだよな。次また無理したら、本当にただのサンドバッグになるって医者に言われた」
「知ってる」
「知ってて言うのかよ」
「言ってみただけだ。冗談くらい分かるだろ」
アイリが、耳をぺたんと伏せた。
「……分かってる」
「そうか」
「分かってて、ムカついただけだ」
ヴァンは小さく息を吐き、話題を変えた。
「……ビリィはどこだ?」
「廊下の突き当たり。日当たりがいいからって、そこで日向ぼっこしてる」
「呼んでくる」
ヴァンが立ち上がりかけた時、アイリが鋭い声で制した。
「待て」
「なんだ」
「回路の治療の話――本当にできるのか?」
アイリの目は、すがるような、疑うような、複雑な色をしていた。
「試してみる。保証はしない」
「……失敗したら?」
「失敗しないように慎重にやる」
「その言い方、全然安心できないんだが」
「俺は医者でも魔導師でもない。だが、無理やり通す、やれる可能性はある」
アイリは数秒黙った。
狼の耳が、ゆっくりと伏せられる。
「……頼む」
聞こえないくらい、小さな声だった。
ヴァンは何も言わずに頷き、病室を出た。
ビリィは、廊下の窓際にある丸椅子に座っていた。
膝を抱えて、外の景色を眺めている。
さらさらとした金色の髪が、午後の柔らかい光を受けてきらきらと輝いていた。
「――ビリィ」
振り返った瞬間、少女の大きな目がぱっと輝いた。
「ボスだ!」
「久しぶりだな。体調はどうだ?」
「うん! でも、ちょっとだけ眠い」
「そうか。なら、少しだけ付き合ってくれるか」
「うん!」
(……『ボス』、か)
ヴァンは内心で苦笑した。
以前はたしか『ヴァンさん』と呼んでいたはずだが、完全にアイリの口調がうつっている。
(……姉の教育が悪すぎる)
空いている処置室を借りた。
ビリィをベッドに座らせ、目を閉じさせる。
(高圧魔力――出力を極限まで絞れ)
ヴァンは右手をビリィの胸元にかざした。
ノストラでの非道な人体実験によってズタズタにされた魔導回路の位置を、魔力の流れで探っていく。
欠乏し、澱んだ魔力の水脈。
詰まった細い水路に、少しずつ、少しずつ泥を押し流すように自身の魔力を注ぎ込んでいく――
「……んん」
ビリィが小さく声を上げた。
「痛いか?」
「ううん、ちょっとくすぐったい」
「我慢しろ」
「うん」
ヴァンは額に汗を滲ませながら、精密なコントロールを続けた。
ゆっくりと、魔力の流れが変わっていく感覚があった。
完全な修復ではない。だが――致命的な詰まりは、確実に緩んだ。
「――よし、どうだ」
ビリィがゆっくりと目を開けた。
少しの間、自分の両手を不思議そうに見つめていたが。
それから――。
「……あったかい」
花が咲くように、笑った。
白い歯を見せて、満面の笑みで。
「体の中が、すごくあったかいよ、ボス!」
「……そうか」
ヴァンは静かに手を引いた。
(――よかった)
表情には出さなかったが。
(……少し、楽になったな)
処置室を出た瞬間。
指先の痺れが、じわりと肘まで這い上がってきた。
(――精度を上げた分、抑制が甘くなった)
ヴァンは足を止めた。
(――?)
手がかすかに痺れている。
魔力が指先でざわついている。
(……暴走の兆候か)
壁に手をついた。
目を閉じる。
高圧魔力を、内側に向けて押し込む。
ぎりぎりと、体の内側が軋む感覚。
(抑えろ――)
三十秒。
ゆっくりと、波が引いた。
ヴァンは息を吐いた。
(……無茶をした自覚はある)
それだけだった。
菓子屋は、病院から少し歩いた大通りにあった。
ヴァンは色とりどりの丸いキャンディを紙袋に包んでもらいながら、ふと自分の横の空間を見た。
(――そういえば、今日は朝からシンカクを見ていないな)
いつもなら、鬱陶しいくらい三歩後ろをキープしているはずの気配がない。
ヴァンは思考を打ち切り、代金を払って店を出た。
「――で、褒美の飴玉は何味がいい?」
病室に戻り、ベッドのアイリとビリィを前にしてヴァンが聞いた。
アイリが即答した。
「肉」
「飴玉と言っただろ」
「肉味の飴玉でいい」
「子供には甘いものが相場だろ」
「オレも食うからやっぱり肉!」
「お前の分は聞いてない」
「なんでだよ!?」
ベッドの上で騒ぐアイリの袖を、ビリィがちょいちょいと引っ張った。
「ねえ、ねえ、わたしあのキャンディ食べたい。丸くて、色がいっぱいついてるやつ!」
「丸いキャンディだな、分かった」
「はいはい、ビリィはそれで決定な」
アイリが腕を組んで、ふんぞり返った。
「で、オレの肉は?」
「お前は患者だろ。重湯でもすすってろ」
「なんで!? 患者だからこそ肉食って精をつけるべきだろ!」
「売ってない」
「探せ!」
「探さない」
アイリは耳をピンとそり立てて牙を剥いた。
「――ボスっていつもそう! オレにだけ塩対応!」
「元気に口答えできる証拠だ」
「褒めてないだろそれ!」
姉妹のやり取りを見て、ヴァンは小さく息を吐いた。
(まあ、元気そうで何よりだ)
部屋に戻り、色鮮やかなキャンディの袋をビリィに渡した。
「ほら、約束の品だ」
「わあ! 綺麗!」
ビリィが目を輝かせて袋を開けようとした瞬間、ヴァンはわざと意地悪く手を伸ばした。
「俺にも一つだけもらうぞ」
その手が伸びるより早く、アイリが横からガシッとヴァンの手首を掴んだ。
「おい、ボス! ビリィの分だぞ、手ぇ出すな!」
「俺が金を出して買ったんだぞ。一つくらいいいだろ」
「駄目だ! オレは妹の味方だ!」
「お前が後で独り占めしたいだけだろ」
「ちっ……バレたか」
アイリが舌打ちをして手を離した。
すると、ビリィが袋から赤いキャンディを一粒だけ取り出して、ヴァンの手のひらにちょこんと乗せた。
「……一個だけね」
「ありがとう」
ヴァンが微笑んだとたん、アイリがギャーギャーと騒ぎ出した。
「おいビリィ! 裏切り者! なんでボスにはあげるんだよ!」
「だって一個あげるだけだもん」
「オレにもくれ!」
「お姉ちゃんにはあとでね」
「なんでオレだけ後回しなんだよォ!」
夕暮れの病室に、心地よい笑い声が響いた。
帰り道。
帝都の空は、すでに深い茜色に染まっていた。
石畳に、ヴァンの長い影が伸びている。
賑やかな大通りを歩いていると、路地裏で軍用ジャケットを羽織った下士官らしき男たちが、ひそひそと立ち話をしている声が、ふと耳に飛び込んできた。
「――おい、聞いたか?」
「ああ、リンドガルド家の少佐殿のことだろ?」
ヴァンの足が、ピタリと止まった。
「昨日、帝都を出た直後に――」
「馬が暴走して、落馬したとか何とか」
「いやいや、襲われたって話も聞いたぞ。部隊ごと全滅したらしい」
「何だそれ、じゃあどっちなんだよ」
……馬の、暴走?襲撃?
ヴァンは表情を消したまま、路地裏に視線を向けた。
普通の服を着た、ただの市民たちだ。
(死んだ?)
頭の中で、その言葉が冷たく転がった。
(帝都を出た直後に?)
(どちらにせよ、出来すぎだ)
昨夜、リヒャルトは逃げた。マルクス派の軍事力を頼って。
そして――夜が明ける前に死んだ。
(……逃げた先で、口を塞がれたか?)
だが、ヴァンの脳裏に、もう一つの可能性が稲妻のように閃いた。
(今日、あいつを見ていない)
胸の奥を、嫌な汗が流れ落ちる感覚。
足が、自然と早くなった。
視線を上げ、宿舎の方角を鋭く睨みつける。
【第五十三章・終】
黒幕は逃げ、
そして――その直後に「消えた」。
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