第三十三章:盤外の清算
前回の戦いから、少し時間が経ったあとの話になります。
戦いが終わったあと、
人はそれぞれ何を考えるのか――そんな回になりました。
エレナは窓際の椅子に腰掛けていた。
膝の上の本は、三十分も同じページのままだ。
「……敵全員、死んだか」
ヴァンが天井の染みを見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「一人だけ、生き残っています」
「軍情局が持っていったか」
「はい。明日には処刑されるかと思われます」
「そうか」
病室に重い沈黙が降りた。
ヴァンは分厚い包帯が巻かれた右腕を、ゆっくりと持ち上げる。
動く。痛いが、動く。
「エレナ」
「はいっ」
「顔に出てるぞ。何か聞きたいことがあるんじゃないか」
ビクッと肩を震わせ、エレナは顔を上げた。その瞳は少し潤んでいて、徹夜で看病していたのか、目の端まで赤くなっていた。
だが、その唇は微かに震えるだけで、言葉を紡ごうとはしなかった。ヴァンがこれほどの惨劇を生き延びた直後だというのに、あまりにも平然としているように見えたからだ。
「……兄さん。なんで、そんなに落ち着いていられるの」
ようやく絞り出した妹の言葉に、ヴァンは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「俺が落ち着いているように見えるか?」
「はい。いつもの、兄さんです」
「そう見せているだけだ。……見せなきゃ、舐められるからな」
エレナはそれ以上踏み込めなかった。兄の纏う空気が、あまりにも冷たく、そして脆く見えたからだ。
コン、と無骨なノック音が響き、ベルンハルトが入室してきた。
「エレナ、今日はもう下がっていい」
「……はい」
エレナは本を閉じ、立ち上がりざまに一度だけヴァンを振り返った。何かを言いかけて、やはり飲み込み、静かに扉の向こうへ消えた。
ベルンハルトはエレナが座っていた椅子を引き、重い腰を下ろした。
「よく生きていたな」
「運が良かっただけです、父上」
短い返答。ヴァンはベッドから義父の顔を盗み見た。いつもより少しだけ、その皺が深く、老いて見えた。
「父上」
「なんだ」
「今回の件について、俺の考えを聞きますか?」
ベルンハルトの灰色の眉がピクリと動いた。
「言ってみろ」
「今回の件、矛先はまずルキウスに向く。だが、盤上の利益だけを計算すれば、ルキウスに批判を集中させることで一番得をするのはマルクスだ。とはいえ……ルキウスも馬鹿じゃない。それを利用した『二重の罠』という線もある。どちらにせよ、決め手となる証拠がない」
ベルンハルトは短く息を吐いた。
「……お前、あの二人の軍団長に手を出す気か」
「決め手の証拠があればな」
「なければ?」
「動きません。今の俺の手札で、軍団長クラスに正面からぶつかるのは割に合わない」
ベルンハルトは目を細め、じっとヴァンの顔を覗き込んだ。
「……本心か?」
「ええ。命あっての物種ですから」
ベルンハルトは鼻を鳴らした。
「ふん。言葉とは裏腹に、随分と凶悪な目つきになったじゃねえか、小僧」
フィロメラの遺産を継ぐ者。その運命の重さが、いよいよこの養子にのしかかってきたことを痛感していた。
「はい」
「ワシは、お前の判断を信じる。……それだけだ」
ベルンハルトの言葉には、軍人としてではなく、ひとりの父親としての響きが混じっていた。
ヴァンは何も答えず、ただ右手の拳を強く握りしめた。
時を同じくして、大元帥府の執務室。
そこには、第一軍団長マルクス・ソルと、第二軍団長ルキウス・ソルの二人が直立不動の姿勢をとっていた。額からは冷や汗が流れ落ち、背筋がびくりと震えるのが隠しきれなかった。
「お前たちは、目障りな者を消すことが『問題の解決』だとでも思っているのか」
アクィラ・ソルは背を向けたまま、氷のような声で言い放った。
「……下官は、そのような覚えはございません」
「下官も、身に覚えがありません」
二人の軍団長の弁明を、アクィラは意に介さない。
彼の指先には、『帝国戦棋』の石駒が一つ、摘まんでいた。
カチッ。
指先に魔力が集中したかと思うと、次の瞬間、石駒は粉々に砕け散った。
「余はむしろ、良い手だと思うぞ」
アクィラは指に付いた石の粉を、帝都の版図が描かれた砂盤の上へとパラパラと振り撒いた。
「目障りなら暗殺すればいい。治安局が嗅ぎ回るなら暴徒を扇動して庁舎を焼け。軍情局が動いたなら、いっそ第一・第二軍団を帝都に引き入れて制圧すればいい」
声は穏やかだった。あまりにも穏やかすぎて、かえって背筋が凍るような殺気を孕んでいた。
「余がこの老いた身体で邪魔だというなら、そのまま謀反を起こせばいい。この席くらい、くれてやる」
「ッ……!」
石畳に、膝を打つ鈍い音が二つ響いた。二人の軍団長が、同時に片膝をついていた。
「閣下!」
「閣下に対し、下官ごときが不忠の心を抱くなど……万死に値します!」
アクィラはゆっくりと背を向け直し、軍靴の踵をカツン、カツンと鳴らしながら、二人の前をゆっくりと歩いた。その一歩一歩の音が、まるで二人の心臓を直接叩きつけるように響く。
「帝国の精鋭を手中に収めながら、たかが政敵一人を潰すのに、このような汚れた手を使う。そんな矮小な器で、この帝国の命脈を余がお前たちに任せられるか?」
圧倒的なプレッシャーの前に、二人は息を呑むことしかできない。
「明日の日没までに、それぞれの管轄軍区へ戻れ。余の軍令なしに、帝都に一歩でも足を踏み入れるな。……前線の冷風で、少し頭を冷やしてこい」
アクィラは冷めた茶杯を持ち上げ、最後にこう付け加えた。
「どうしても考えがまとまらないなら、好きに反乱を起こしてみろ。余はこの帝都で、お前たちがどれほどの腕前を持っているか、じっと見せてもらおう」
二人が逃げるように退室したのち、執務室には再び重い静寂が戻った。
入れ替わるように執務室に現れたのは、近衛統領ガイウス・アウレリアンだった。
「閣下、軍情局より報告が」
「言え」
「捕縛された傭兵ですが……体内に特異な禁忌術式と魔導回路が確認されました。軍情局は処刑を停止し、魔導技術院へ移送し『研究素体』として扱う方針を固めたとのことです」
アクィラはしばらくの間、微動だにせず窓の外を見つめていた。
「ガイウス」
「ハッ」
「その話を、どこかに流せ」
ガイウスは一瞬だけ目を細めたが、すぐに深く頭を下げた。
「……御意」
翌朝。
ヴァンはベッドの上で右手の指を動かしていた。
痛むが、拳は握れる。歩くこともできそうだ。
(一晩待った。そろそろ処刑の知らせが来る頃だが……)
音もなく、窓がスッと開いた。
「おはようございます、旦那ァ」
ひどく場違いな、粘り気のある声。ワイルドだった。その顔にはいつもの飄々とした余裕がない。
ヴァンはベッドから起き上がらず、枕元に置いた革袋を投げた。中から金貨のカチャカチャという重たい音が響く。
ワイルドの目が一瞬だけ光った。
「早起きだな。悪い知らせか?」
ワイルドは慌てて革袋を受け止め、口ではとっさに弁明する。
「いやいや、旦那! 今日は金目当てで来たわけじゃないんですァ!」
だがその言葉とは裏腹に、彼はすぐに革袋を懐にしまい込み、椅子を引き寄せてぺたりと座り、声を限界まで潜めた。
「……まあ、あっしとしては耳の痛い話でさァ」
「捕まえたあの化け物傭兵、処刑されねえそうですァ。軍情局が、魔導技術院へ移送することに決めやした」
部屋の空気が、凍りついた。
「……理由は何だ?」
ヴァンの声は、自分でも驚くほど低く、地の底から響くようだった。
「奴の術式と回路が規格外だったとかで。要するに、貴重な『研究資料』として生かしておくってことでさァ」
ドクン、とヴァンのこめかみで血管が跳ねた。
(処刑されない……?)
ヴァンは枕元のシーツを、一度だけ強く握りしめた。
(ディーターとブルーノが作った時間は、たった数秒だった)
ヴァンの目の前が、真っ赤な怒りで染まっていく。
頭の芯が、静かに白くなっていった。
ディーターとブルーノの顔が浮かぶ。
――術式が珍しいから生かしておく?
ふざけるな。
ヴァンは無言のまま、ベッドの脇に置かれていた外套を手に取った。
「ちょっ、若旦那!? どこへ行くんでさァ! その腕じゃ——」
ワイルドが慌てて立ち上がる。
「軍情局だ」
「待ってくだせえ! まだ傷が治ってないんですァ——」
右腕の包帯から赤黒い血が滲み出ていることなど、ヴァンは気にも留めなかった。
扉を静かに開け、朝の光に満ちた帝都の街へ踏み出す。
帝都は今日も、何事もなかったかのように平和な朝を迎えていた。
露店の活気、馬車の音、登校する生徒の笑い声。
昨日二人が死んだことなど、忘れている。
傷の痛みなど、もはや感じていなかった。ただ、足が前に出た。それだけだった。
【第三十三章・終】
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