第三十二章:盤上の代償
皆さま、週末はいかがお過ごしでしょうか。
昨日から続いている戦闘の、その後の話になります。
現場だけでなく、帝都の各所でも少しずつ波紋が広がっていきます。
リヴィアは、帝都の石畳を走っていた。
貴族の令嬢にあるまじき姿だった。
ドレスの裾は泥で汚れ、息は上がり切って胸が苦しく、咳き込みそうになるのを何度も堪えた。綺麗に結われた髪もぐちゃぐちゃに乱れている。
すれ違う人々が驚いて道を空けたが、彼女は立ち止まらなかった。
屋敷に飛び込んだとき、出迎えた侍女が悲鳴をあげかけた。
「お、お嬢様!? どうされましたか、お顔が真っ青で……病弱のお体が!」
「兄は!」
「リヒャルト様は本日お出かけで……」
「お父様は、枢密院の総長執務室ですわね?」
「は、はい。ですが本日は大変お忙しい日程で――」
「馬車をお出しなさい。今すぐに!」
リヴィアはそれだけを言い残して、馬車へと駆け出した。
(図書室のローラン君と、婚約者のヴァン様は——同一人物だった。わたしは、取り返しのつかない勘違いをしていた!)
向かう先は——父のいる枢密院だ。
枢密院の廊下は、重苦しい静寂に包まれていた。
ロルフ軍務総長の執務室前。
副官が、血相を変えて飛び込んできたリヴィアを見て狼狽した。
「リヴィアお嬢様! 本日の閣下は極秘の軍議が――」
「少しだけでいいの! 通して!」
副官が困り果てて扉を叩こうとした瞬間、中から父の低い声が響いた。
「入れ」
ロルフは書類の上に視線を落としたまま、荒い息をついて駆け込んできた愛娘を見た。
「リヴィア!?」
帝国の心臓を動かす鉄血の男が、血相を変えて立ち上がった。
「どうした、その乱れたドレスは。顔色も異常に赤い。また発作が起きたのか!?」
「お父様、一つ……お願いがあります」
ロルフは片眼鏡の奥の目を細め、顔を上げた。
娘の息が乱れている。頬に異常な赤みがさしている。
この子がここまで感情を露わにする時、何かが裏で動いている。
「聞こう」
「破談の件……撤回できませんか」
部屋が静まり返った。
ロルフは何も言わなかった。ただ、じっと娘を観察していた。
昨日あれほど断固として「嫌だ」と言い切った娘が、一夜明けて逆のことを言っている。
何があったのか。何に気がついたのか。
ロルフが問いかけようと口を開きかけた、その時だった。
「――閣下!! 失礼いたします!!」
ノックもそこそこに、別の伝令将校が執務室に転がり込んできた。
声が、尋常ではないほど上ずっていた。
「言え」
ロルフの低い声に、執務室の空気が一瞬で凍りついた。
「ヴァン・ラーク特別監察官が、帝都内にて襲撃を受けました!! 現場は壊滅状態、ヴァン閣下は現在……生死不明とのことですッ!」
リヴィアの喉から、声にならない息が漏れた。
頭の中が、真っ白になった。
ロルフはすでに立ち上がっていた。
「馬を出せ。近衛と軍情局より先に現場の状況を押さえろ」
「はっ!!」
「リヴィア」
「……お、お父様……」
「続きは後だ」
それだけ言って、父は疾風のように部屋を出て行った。
リヴィアはその場に取り残された。
(生死不明)という言葉が、呪いのように頭の中で何度も繰り返されていた。
第二軍団長ルキウスの私邸。
静かな室内で、巨大な影が石造りの盤の前に座っていた。
「小生、今一度申し上げますが」
身長二メートルの巨漢、ブルータスは、分厚い指で不器用に『帝国戦棋』の駒を動かした。
粗骨な顔に無理やり乗せた金糸の片眼鏡が、ずり落ちそうになっている。
「古書にも『石橋を叩いて渡る』という金言がございます。いえ、確か……叩き割ってから進む、でしたかな?」
「叩いて安全を確認してから渡るんだ、ブルータス」
ルキウスは盤面を見つめたまま、冷静に訂正した。
「さようでしたか。しかし閣下、本日の御客人……少々遅刻が過ぎるのではありませぬか?」
「……そうだな」
ルキウスは手元の駒を、指先で弄んだ。
今日の茶会は、工房の支配権を誇示し、ヴァンを牽制するための重要な場だ。
遅れるなら使者を寄越すのが貴族の礼儀。連絡もなく現れないなど、あり得ない。
「はぁ……閣下」
壁際の影から、ひどく気怠げな声が降ってきた。
側近の凶刃、シュンだった。
細身の軍装に身を包んだ彼女は、目の下に重い隈を作りながらため息をつく。
「客人が来ないなら、茶会は中止にしませんか。早く終わらせて定時に帰りたいのですが」
「もう少し待て、シュン」
その時、廊下を走るけたたましい足音が響いた。
扉が乱暴に開かれ、青ざめた副官が膝をつく。
「軍団長閣下!! ヴァン・ラーク閣下が、当邸に向かう道中で何者かの襲撃を受けました!!」
室内が、凍りついた。
ブルータスの手が止まり、眼鏡がカチャリと盤に落ちる。
シュンの気怠げな瞳に、すっと刃物のような鋭さが宿った。
ルキウスは少しの間、沈黙した。
そして、その聡明な頭脳で瞬時に状況を弾き出した。
(私邸へ向かう道中で暗殺された、だと?)
世間はどう見るか。
『ヴァンと対立している第二軍団長が、茶会に呼び出すふりをして暗殺を仕掛けた』――矢印は、真っ直ぐに自分へ向く。
「……誰だ。誰が私に泥を塗った」
ルキウスの声から、いつもの温和な余裕が消え失せていた。
焦燥と、底知れぬ怒り。
「シュン!」
「はい」
「兵をまとめろ! 今すぐ現場へ向かう。私を陥れようとした馬鹿の痕跡を、塵一つ残さず拾い上げろ!」
「……残業確定ですか。最悪です」
「ブルータス、貴様も来いッ!」
怒りからか、ルキウスの口から完璧な敬語が剥がれ落ちた。
「お、お待ちを! 小生、本日こそは閣下に盤上で勝てる手応えを感じておりましたのに!」
「お前は負けたことがない手応えを毎回感じているだろうが! 行くぞ!」
普段の蒼白な貴公子からは想像もつかない血走った目で、ルキウスは私邸を飛び出した。
ベルンハルト院長が老教授との茶杯を置いたのは、使者が扉を叩いた直後だった。
報告を耳打ちされた瞬間、温厚な老将の顔から表情が抜け落ちた。
「すまん、急用だ」
謝罪もそこそこに廊下へ出たベルンハルトは、振り返りざまに怒号を飛ばした。
「憲兵隊に全員通知! 現場に全員集めろ、現場の路地を完全封鎖しろ! 証拠の一片たりとも、他の派閥に渡すな!!」
大元帥府の執務室。
近衛統領のガイウスが、静かに報告を終えた。
アクィラ・ソルは、手元の書簡を読む手を止めなかった。
「死んだか」
「生死は現在確認中とのことです」
「……そうか」
書簡のページが、一枚めくられる。
しばらくの沈黙があった。
「ガイウス。近衛から数人連れて現場に行け」
「御意。……様子を見てこい、とのことで?」
「まだ死んでいるとは決まっていない」
アクィラの声は、ひどく平坦で、それゆえに絶対的な重さがあった。
「余が人を送るのは、確認のためだ。生きていれば拾ってこい。死んでいれば……誰がやったか、その痕跡を根こそぎ抉り出してこい」
「……承知いたしました」
現場に最初に着いたのは、治安管理局の巡回隊だった。
路地の入り口に立った隊長は、あまりの惨状に息を呑んだ。
両側の強固な石壁が広範囲にわたって消し飛び、巨大なクレーターができている。
魔力の残滓がバチバチと大気を焦がし、血と焦げた肉の臭いが鼻を突く。
倒れている人間が十人。
誰も、立っていなかった。
「……何があったんだ、ここは」
隊長は震える声で呟き、我に返って叫んだ。
「生存者を確認しろ! 治癒術師を呼べ! 早く!!」
隊員たちが瓦礫の中へ飛び込む。
壁際で倒れている亜人の少女。
血溜まりの中で息も絶え絶えの若き憲兵。
そして、原型を留めないほどに全身の骨を砕かれながら、後衛を庇うように倒れ伏している大柄な憲兵。
地獄だった。
その後十分の間に、軍情局の徽章を持った者たちが現れた。
近衛軍の装甲兵が現れた。
第二軍団長の私兵が現れた。
激怒した顔の憲兵隊の増援が現れた。
路地の入り口に、帝国の中枢権力が一気に雪崩れ込んできた。
「……なあ。明日付けで、傷痍軍人として田舎に帰る書類を出してもいいだろうか」
巡回隊の隊長は、後に同僚の酒場でそうこぼしたという。
気がついたのは、見慣れない天井の下だった。
「……お兄様?」
震える声がした。
ヴァンは重い首を動かした。
ベッドの横の椅子に、エレナが座っていた。
いつもは氷のように冷たい彼女の顔が、今は痛ましいほどに歪み、青ざめている。
手には、血に染まったタオルが握られていた。
「生きてるか、俺は」
「……はい、兄さん。ですが、肉体の許容量を超える限界まで、途方もない量の治癒魔術を強引に流し込みました。だから、まだ絶対に動いては駄目です」
ヴァンは身体を起こそうとした。
右腕が、千切れるように痛い。
左腕も、背中も、呼吸をするだけで肺が焼けるように痛んだ。
「他の三人は」
エレナは、スッと視線を落とした。
長い銀髪が、彼女の表情を隠す。
「ディーターは、即死でした。ブルーノは……現場から搬送され、懸命に処置を施しましたが、今朝未明に……息を引き取りました」
「アイリは?」
「重傷ですが、命に別状はありません。別の部屋で眠っています」
部屋が、静まり返った。
エレナはそれ以上何も言わず、ただヴァンの無事な方の手を両手で包み込んでいた。
ヴァンは天井を見た。
脳裏に、ディーターの顔が浮かんだ。
絶望的な実力差を前に、それでも俺を守るために飛び出していった若者の顔が。
「走れ」と一言だけ残し、命の盾となったブルーノの背中が。
(なぜ、やつらは)
あそこまでやった。
ヴァンには分かっていた。分かっていたが、それでも理不尽だった。
扉が開き、重い足音が部屋に入ってきた。
ベルンハルトだった。
数日で見違えるほど老け込んだような疲労が、その顔に刻まれていた。
「……起きたか、小僧」
「父上」
「なんだ」
「なぜあの二人は、死ぬと分かっていて俺を庇った」
ベルンハルトはベッドの横に立ち、静かに言った。
「士卒にとって、任務の完遂は命より重いからだ」
「命より重い誇りなど、あるものですか」
「あるのだ、ヴァン。それがこの帝国の現実だ」
ベルンハルトの声は低く、悲しげだった。
「彼らはお前という『個人』のために死んだのではない。護衛という『任務』を全うするために死んだのだ。それが、彼らの存在証明だからだ」
また、沈黙が降りた。
ヴァンは、包帯でぐるぐる巻きにされた自分の右手を見た。
魔力を全て集めて、敵の回路に叩き込んだ感触が残っている。
それでも、足りなかった。
あの場で足りなかったのは、技術でも、運でもない。
(俺の『覚悟』が足りなかったんだ)
最初から、最悪の場合は全員の命を切り捨てて逃げる算段だった。
護衛の憲兵も、アイリも、盤面をコントロールするための『消耗する駒』だと思っていた。
(これはゲームじゃない)
頭では分かっていたつもりだった。
だが、本当には理解していなかった。
(二人は、俺の傲慢な判断ミスで死んだ)
それだけが、絶対の事実だった。
ヴァンは、痛みに軋む身体を無理やり起こした。
エレナが止めようとしたが、ヴァンは首を振った。
(今回のは俺の完全な読み違いだった。自分は賢いプレイヤーだと驕り、実戦を甘く見ていた。その代償が、二人の命だ)
これからは違う。
二度と、駒を一枚たりとも失わない棋士になる。
そして——盤面を引っかき回した連中には、流した血の十倍を返す。 宣戦布告でも、怒りでもない。ただの、決定事項だった。
部屋の外では、帝都が激しく動いていた。
各派閥が情報を集め、陰謀を巡らせ、次の一手を打ち始めている。
その巨大な台風の目の中に、今、ヴァン・ラークが立っていた。
包帯を巻かれた右手で、ヴァンは窓の外を見た。
夕暮れが終わり、帝都に冷たい夜の帳が下りていた。
(ディーター)
(ブルーノ)
声に出さずに、呼んだ。
返事はなかった。当然だった。
「……高くついたな」
ポツリとこぼしたその言葉は、誰に向けたものでもない。
自分自身への戒めだった。
(次は、ない)
闇夜を見つめる少年の瞳から、かつての飄々とした光は、完全に消え去っていた。
【第三十二章・終】
戦いの結果が、それぞれの場所に少しずつ広がり始めました。
そして今回の出来事は、ヴァンにとっても
大きな転機になった回でした。
皆さま、週末はゆっくり過ごせましたでしょうか。
物語の続きも、これから少しずつ進んでいきます。
もし面白いと感じていただけたら、
フォローや★評価で応援していただけると嬉しいです。




