第三十四章:勝負手
少しだけ、読者の皆さまに聞いてみたいことがあります。
たとえば――
誰かを殺した犯人がいたとして。
けれど「もっと大きな利益のため」という理由で、その罪が裁かれないとしたら。
皆さまは、こういう出来事をどう思いますか。
それでは第三十四話、よろしくお願いします。
帝都の朝は、いつも通りだった。
ヴァンは血の滲む包帯を外套の下に隠し、一歩、また一歩と軍情局の庁舎へ歩を進めていた。
背後からはワイルドが小走りでついてくる。その軽薄な顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
「若旦那ァ、中に入る前に、あっしから一つだけ耳に入れておきたいことがあります」
「言え」
「局内を仕切っているのはクラウス局長じゃねえんでさァ。今は……監察部部長のディートリヒ・シュタインが代理を務めておりやす」
「シュタイン」
「へえ。頭も眉も綺麗に剃り上げた、骨太で痩せぎすの男でさァ。パッと見はどこにでもいる平凡な中年官僚ですが……」
ワイルドは声を潜めた。
「業務能力は折り紙付きで。監察部ってのは、軍の高官から帝都の貴族まで片っ端から監視する部署。あの男が局内に睨みを利かせれば、蛇に睨まれた蛙。ただ……極めつけの石頭でさァ。一度決めたら梃子でも動かねえ。融通ってもんが一切通じない男で」
ヴァンは何も答えず、ただ前を見据えて歩き続けた。
軍情局。
重厚な石造りの壁と、無表情な警備員が立ち並ぶ入り口を、ヴァンは制止を無視して正面から踏み込んだ。
「お、おい! 立ち入り——」
「特別監察官だ」
懐からバッジを突きつける。警備員は弾かれたように口を噤んだ。
廊下を進む。すれ違う局員たちが外套から滴る血に気づき、ざわめきながら道を空けた。
監察部の重厚な扉を、ヴァンはノックもせず押し開けた。
「——これはこれは」
書類の山に埋もれた執務机。そこに座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
ワイルドの言った通りだった。禿頭に無眉。体は痩せているが骨格が太い。そして、一度見たらすぐに忘れてしまいそうなほど、特徴のない顔。
ディートリヒ・シュタインはインクで汚れた指を組み、椅子に座ったままヴァンを見据えた。
「ヴァン・ラーク特別監察官でしたか。……ずいぶんと痛ましいお姿で」
「移送命令を撤回しろ」
ヴァンは机の前に立ち、シュタインを見下ろして言い放った。
「昨日の路地裏の襲撃犯だ。処刑を取りやめ、魔導技術院へ移送するという命令を今すぐ取り消せ」
シュタインは書類から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。そして背を向け、窓の外へ視線を向けた。
「あの傭兵の体内に刻まれた術式は、ノストラ固有のものです。未知の術式を解析できれば対抗策の確立、ひいては帝国の魔導兵への応用も可能になる。……すべては『大局』のためです」
「大局の前では、個人の感情は——」
その言葉を遮るように、ヴァンが吐き捨てた。
「大局のために二人の兵士を死なせた。今日はそれが大局だった。では次は?」
沈黙。
ヴァンは続けた。
「今日、大局のために二人を消耗品として扱えるなら、明日は十人が消耗品になる。来月は百人かもしれない。それで動じないあなたは、確かに有能な官僚でしょう。だが——それが積み重なった先に何があるか、一度でも考えたことがありますか」
ヴァンの声が一段と低くなった。
シュタインは振り返り、眉のない額に微かな皺を寄せて淡々と答える。
「任務を完遂するために犠牲となること。それが士卒の天職であり本分です」
「任務を完遂することが本分だろう。犠牲になることじゃない」
ヴァンは即座に切り捨てた。
「俺の部下たちは任務を果たした。だが、あんたが今やっているのは、彼らの死を後から都合よく利用し、踏みにじる行為だ」
「感情論ですね」
シュタインの低い声が部屋に響く。
「大局の前では、個人の感傷など無意味です。あの傭兵は帝国にとって有益な研究素体となる。移送命令は、決して撤回しません」
「そうか」
ヴァンは深く息を吸い込み、懐から一つのバッジを取り出した。
クラウスから直接授かった、特別監察官の証。
「軍情局における『特別監察官』の権限は、各部の部長と同格のはずだ。——ならば、俺の権限で動かしてもらう」
ヴァンはバッジを高く掲げ、部屋の隅に固まっていた数名のスパイたちを睨みつけた。
「特別監察官ヴァン・ラークの名において命じる。本件の移送を即時凍結し」
部屋の空気が張り詰めた。スパイたちが互いの顔を見合わせ、動揺を見せる。
しかし、シュタインは微塵も焦る様子を見せず、静かに一歩前に出た。
「——本官が警告する」
一段と重く、威圧的な声が響いた。
「確かに特別監察官の権限は本官と同格だ。だが現在、局長不在におけるすべての『代理権限』は本官が掌握している。大局を乱し、彼の命令に従う者がいれば……軍規に基づき、極刑も含めた厳重な処分の対象とする」
空気が凍りついた。
誰も動かない。当然だ。将来を天秤にかけ、傷だらけの若造に味方する者などこの局内にはいない。
ヴァンは無言のまま、ゆっくりとバッジを懐にしまった。
「大局のために、どうかご自愛ください、監察官殿」
シュタインの官僚的な労いの言葉が、ひどく耳障りだった。
「そうか。よく分かった」
ヴァンはバッジを懐にしまい、凍りついた瞳でシュタインを見据えた。
「あんたの言う『大局』とやらが、すぐに思い知らせてやる」
ヴァンは踵を返し、部屋を後にした。
ヴァンは足を止めずに廊下を進み、庁舎の外に出た。
冷たい朝の空気が頬を撫でた。
ワイルドが慌てて後を追ってきた。
「ワイルド」
「はいっ! あっしがここにいますァ!」
ヴァンは立ち止まり、懐から金貨の袋を取り出してワイルドの胸に押し付けた。ずっしりとした重さに、ワイルドが目を剥く。
「調べてほしいことが二つある」
「若旦那……?」
「一つ、午後の移送ルートと目的地。二つ、あの傭兵が使っていた術式の詳細だ。どうやら術式らしいが、副作用や限界値など、とにかく弱点をすべて調べ上げろ」
「若旦那、まさかそれを調べて……」
「頼む」
短く、静かに。
ヴァンは深く、頭を下げた。
ワイルドは一瞬だけ息を呑み、金貨の袋をしっかりと握りしめた。
「……わかりやした。後ほどお屋敷に伺いやす」
昼過ぎ。ヴァンの私室の窓から、ワイルドが音もなく滑り込んできた。
机の上には見慣れない小瓶が並び、中には虹色に揺らめく液体や、乾燥させた得体の知れない植物が置かれている。ヴァンは乳鉢で何かをすり潰していた。
「……若旦那。その匂い、魔薬部のクリークの旦那と同じ匂いがしやすぜ。まさか、あの爺さんからクスリを?」
「師匠の所には行っていない」
ヴァンは手を止めずに、淡々と答えた。
「あそこに行けば、あの爺さんまでこの泥沼に巻き込むことになる。これは俺の個人的な清算だ」
「左様で。報告しやす」
椅子に座って待っていたヴァンに、ワイルドは声を落として言った。
「移送は午後三つ時。帝都南区を出て、西の水路沿いを通り、魔導技術院の第七分室へ向かいやす。護衛はスパイがたったの『二名』でさァ」
「二名?」
ヴァンは乳鉢から顔を上げ、冷たく嗤った。
「……俺を『誘って』いるんだよ」
「誘う?」
ヴァンはすり潰した毒薬を、慎重にガラスの小瓶へと移し替えた。
「俺は奴の部屋を出る時、『思い知らせてやる』と吐き捨てた。だから奴は、わざと隙だらけの餌をぶら下げたんだ。俺が怒りに任せて移送車を襲撃すれば……『特別監察官の反逆行為』として、堂々と俺を極刑に処すことができる」
ワイルドは息を呑んだ。飄々とした仮面が剥がれ落ち、本気の焦りが顔を出す。
「罠だってんなら、なおさら——」
「続きを頼む」
ヴァンは外套を羽織りながら、遮った。
「へえ。目立たせないためか、あるいはあの傭兵が重傷で厳重な拘束下にあると踏んでのことか。そして、例の術式についてですが……」
ワイルドの顔が険しくなる。
「血液を直接魔力に変換するノストラの禁忌術式。こいつには致命的な欠陥がありやす。他人の血を吸えねえ状況だと、自分の血を燃やすしかなくなり、すぐに燃料切れを起こす。おまけに……魔力変換の副作用でひどく理性を失いやすくなり、最悪の場合は暴走して自滅しやす」
「なるほどな」
ヴァンは目を閉じた。
あの路地裏でディーターとブルーノが削り取った命の時間は、確実に奴の限界を早め、理性を奪っていたのだ。
「以上でさァ。……あっしが言えることは」
ワイルドは静かに、そこで言葉を切った。
ヴァンはゆっくりと目を開いた。
「ありがとう。今は金がない。次に会ったとき、必ず払う」
「いいえ、旦那」
珍しく、ワイルドは真面目な顔をした。
「今朝いただいた分で、今回は十分過ぎまさァ。……これ以上受け取ったら、あっしまで『共犯』になっちまう」
「そうか」
ワイルドは立ち上がりかけ、躊躇い、もう一度腰を下ろした。
「若旦那、あの……もしかして、若旦那は」
口が開いたまま、閉じた。
ヴァンは視線をずらさなかった。
「知らない方が、お前のためにいい」
ワイルドの喉が、上下した。
「傷も残っておりやすし、後が難しいことになるかと存じやすが」
「俺と俺の人間を、盤上の駒として消費したやつらがいる。なら、そいつの盤ごと引っ繰り返してやる。それだけだ」
ヴァンの静かな決意に、ワイルドは一瞬だけ呆けたように顔を見つめ、やがて芝居がかった手振りで大げさに笑い声を上げた。
「——いやァ、若旦那! これが血気盛んってやつでさァ! 傷だらけで局に乗り込み、たった一人で大立ち回りを演じようたァ、特別監察官の名に恥じねえ御器量で!」
「やかましい」
「いや本当に! 普通の人間にはできやせんよ! あっしなら三回ほど卒倒しておりやした!」
「お前は後方から叫んでるだけだろ」
「いやァ、後方支援も立派な任務ということで!」
ヴァンは短く鼻を鳴らした。
「もし俺が途中でやめたとしても、そうやって褒めるのか」
「もちろんでさァ!」
ワイルドは即答した。
「潮時を読んで引くのも、大した器量ってもんでさァ! あっしは若旦那がどんな選択をなさっても、全力でお世辞を申し上げやす!」
笑ったわけではない。ただ、ほんの少しだけ胸のつかえが下りた気がした。
「帰れ」
「はいっ! では若旦那の御武運をお祈りしますァ!」
ワイルドが消え、部屋に再び静寂が降りる。
ヴァンは机に広げた地図を見下ろした。
護衛はたった二人。
窓の外には、残酷なほど美しい帝都の青空が広がっていた。
あの傭兵は、今日死ぬ。
【第三十四章・終】
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