第三十五章:街頭の決着
前回の続きになります。
理屈としては正しいことでも、
どうしても納得できないことというのは、時々あります。
それでも世界は、たいてい理屈の方を選びます。
……だからといって、
全員がそれに従うとは限りません。
昼を過ぎて、まだ少し時間がある。
すり潰した粉末を小瓶の液体に溶かし、軽くかき混ぜる。色が濁ったのを確認し、一気に喉へ流し込んだ。
焼け付くような熱さが食道を駆け抜け、次の瞬間、体の芯から枯渇していた魔力がじわりと湧き上がってくる感覚が広がった。
魔力が戻る。右腕の痛みが遠のく。完全ではないが——動ける。
ヴァンは静かに立ち上がり、外套を羽織った。
廊下に耳を澄ませる。エレナの気配はない。ベルンハルトも出かけているようだった。
好都合だ。
軍情局までは徒歩五分もかからない。
ヴァンはその平和な雑踏の中に、何食わぬ顔で紛れ込んだ。
露店の柱に背を預け、往来を眺める。
誰の目にも留まる、極めて目立つ位置。
——それでいい。
やがて、遠くから近づいてくる人影があった。
地味な外套、油断のない歩き方。周囲の市民とは明らかに違う空気を纏った二人組——軍情局のスパイだ。
その後ろを歩く、一つの人影。
手首と足首には、鈍く光る魔力鎖が厳重に巻かれている。
ヴァンは露店の親父から干し果物を一つ買い、口に放り込んだ。
(間違いない。あの路地裏の化け物だ)
そして、まっすぐに前を向き、ゆっくりと人差し指を立てて——傭兵の胸を指し示した。
「——ッァアアア!」
百メートル先。傭兵の瞳孔が限界まで見開かれた。
怒りではない。本能に刻まれた、血の沸騰するような殺意。
俺はまだ生きている。お前を殺し損ねた俺が、こうして立っているぞ。
ヴァンのその無言の挑発を、傭兵は一瞬で理解した。
「なっ——!?」
スパイたちの視線が、一斉にヴァンへと向く。
彼らの体に、一瞬の迷いが生じた。
本来なら、人目のつかない裏水路を通って移送するはずだった。シュタイン部長が万が一の支援を伏せているのも、裏道だけだ。
なぜ、こいつはこんな大通りの中央に堂々と立っている!?
そのコンマ数秒の動揺が、命取りだった。
ドォンッ!!
傭兵の体が内側から赤く発光し、強烈な空気の波紋が爆発的に弾け飛んだ。
「ぐあッ!?」
突風に煽られ、スパイたちが我に返る。
だが、遅い。
ギギギギギ……ガキィンッ!
拘束の魔力鎖が限界を超えて軋み、千切れた。
「しまっ——防御陣形!」
鎖を解き放った傭兵が、スパイの死角から丸太のような腕を振り下ろす。スパイたちは咄嗟に両腕を交差し、魔力障壁を展開して身を守った。
ドゴォッ!
重い打撃音が響き、スパイ二人が石畳の上を数メートル後ずさる。咄嗟の防御が功を奏し、致命傷には至らなかった。しかし、陣形は完全に崩された。
大通りが、一瞬だけ静まり返った。
次の瞬間、悲鳴が爆発した。
逃げ惑う人々。散乱する荷物。泣き叫ぶ子ども。
傭兵はスパイには目もくれず、荒い息を吐きながらヴァンを真っ直ぐに睨みつけた。
(前回より、遅い。前回より、威圧感が小さい)
ヴァンの高圧魔力が焼き切った魔導回路は、まだ完全には修復されていないのだ。
それでも——腐ってもランクBの化け物だ。
「——来い」
ヴァンは外套を翻し、静かに手招きした。
傭兵が石畳を砕きながら突進してくる。
ヴァンは大きくは動かず、最小限の歩法で身を沈めた。風圧が頬を掠める。
同時に、傭兵の突進の矢面に立たされる形となった二人のスパイが、悲鳴を上げながら背後に立ち塞がった。
(使えるな)
ヴァンは、自分と傭兵の間にいるスパイたちを冷徹に観察した。
「お前たち!」
ヴァンは叫んだ。低く、よく通る声で。
「このままでいいのか! ここで奴を取り逃がせば、この通りの無辜の民が死ぬぞ!」
スパイたちの目が揺れた。
「シュタインの命令と、目の前の現実。どちらを選ぶ!」
「——くそっ! やるぞ!」
煽られたスパイの一人が剣を抜き、もう一人も魔力を練り上げて傭兵に飛びかかった。
二人合わせて、セミランクB相当の戦力。対する傭兵は、回路の損傷したランクB。
十分に、ヘイトを買える。
ドガンッ!
傭兵の豪腕がスパイの盾を殴りつける。スパイが歯を食いしばりながら、必死に正面からの攻撃を耐える。
(今だ)
ヴァンはスパイを完全な『盾役』として利用し、傭兵の意識が前方へ向いたその死角へと音もなく潜り込んだ。
右の掌に、持てる魔力を極限まで凝縮させる。
傷口が開き、滲み出た血が包帯を真っ赤に染め上げる。
構うもんか。
「高圧魔力——ッ!」
無防備な傭兵の背中。魔導回路の結節点に、掌底を密着させる。
ドシュッ!!
打撃音ではない。高圧ガスが狭い管を一気に吹き抜けるような、破砕音。
ヴァンの魔力が針のように尖り、傭兵の回路へ強制侵入し、内側から食い破っていく。
規則正しく流れていた魔力の流れを、根こそぎ掻き乱す。
「ガ、アアアァァァッ!?」
傭兵の巨体がガクンと跳ね上がり、白目を剥いて咆哮する。
だが、前回のように即座に回路崩壊で倒れることはなかった。
怒りに歪んだ顔で振り返り、丸太のような腕がヴァンの頭上に振り下ろされる。
「——ッ!」
ヴァンは咄嗟に身をかわし、石畳を滑るように距離を取った。
風圧が頬を掠め、背後の露店の屋台が木っ端微塵に砕け散る。
(やはり、一撃では決まらないか。損傷してもランクBの魔導回路は、そう簡単には崩れない)
「クソッタレ……! 殺す……! 絶対に殺す……!!」
傭兵は背中の回路が疼くのを抑えるように体を屈め、赤く血走った目でヴァンを睨みつける。
体内の魔力が暴れ、皮膚の下の回路が不規則に青白く光っている。
先ほどの一撃で、回路は完全に不安定になっていた。
だが、それは同時に、負傷した獣の凶暴性を何倍にも引き出すことを意味する。
傭兵が石畳を蹴り砕きながら、まっすぐ突進してくる。
ヴァンは横に飛んで回避しつつ、掌に再び高圧魔力を凝縮する。
(第一結節を崩した今、次は腕の動力分岐点だ)
傭兵の拳が空を切る瞬間、ヴァンはその腕の内側に滑り込み、凝縮した魔力を肘の関節に叩き込んだ。
「ギアアアッ!?」
腕の回路が一気に焼き切れ、傭兵の右腕が不自然な方向に折れ曲がる。
だが彼は痛みを無視し、逆に左腕でヴァンの首根っこを掴もうと襲いかかる。
スパイの一人が決死の斬撃で傭兵の注意を引いた、その一瞬。
ヴァンは宙返りなどという無駄な動きはしない。痛む身体を魔薬で強引に動かし、音もなく傭兵の死角へと回り込む。
スパイの攻撃に気を取られ、踏ん張る傭兵の左膝の裏へ——もう一撃。
「ぐあッ!」
足の回路が崩壊し、傭兵の巨体はバランスを失ってぐらつく。
両腕、両足の分岐回路を次々と掻き乱され、体中の魔力の流れが完全にバラバラになっている。
もはや、正確に術式を放つことも、体を自由に動かすこともままならなくなっていた。
「終わりだ」
ヴァンは低く囁き、残り全ての魔力を右手の人差し指と中指の先端に極限まで凝縮させた。
鋭く尖らせた指先は、高圧魔力で白く煌めき、まるで鋼の刃のような硬さを帯びる。
傭兵が咆哮しながら、最後の力で体当たりを仕掛けてくる。
ヴァンはその突進をわざと受け入れ、体をひねって傭兵の懐に滑り込んだ。
右手の指先には、白熱するほどの魔力が一点に凝縮されている。
煌めく指先が、傭兵の喉元——全身の魔導回路が集束する『制御コア』を、無慈悲に貫いた。
「ッ……!」
傭兵の動きが、ピタリと止まった。
指先から注入された超高圧魔力が、回路の中枢を根こそぎ破壊し、体中の魔力が一気に逆流して爆発する。
大通りが、息を呑んだ。
一秒。二秒。三秒。
やがて、遠巻きに見ていた群衆の中から歓声が上がった。
「おお……!」
「助かったぞ! あの若い役人が倒してくれたんだ!」
「帝国の軍人だ! 化け物を倒したぞ!」
「万歳——!」
拍手と歓声が沸き起こる中、ヴァンは現場から離れようとせず、堂々と傭兵の死体を見下ろしていた。
肩で息をしている二人のスパイが、信じられないものを見る目でヴァンを睨みつける。
「あ、あんた……正気か!? 移送中の重要参考人を白昼堂々殺すなんて……こんな真似をして、タダで済むと——」
「勘違いするな」
ヴァンは振り返り、スパイたちに向かって冷ややかに告げた。
「暴走した化け物から、帝都の民草を守っただけだ」
「なっ……」
「シュタイン部長も言っていたはずだ。数人の犠牲で万の命を救えるなら、それは為すべき選択だと。——俺はただ、『大局のために』最善を尽くしたまでだ」
ヴァンは血に染まった右腕を隠しもせず、歓声の中心に立ち尽くしていた。
軍情局の庁舎。
監察部の一室。
シュタインは顔色一つ変えず、書類に羽ペンを走らせていた。
バンッ!
ノックもそこそこに、部下が血相を変えて飛び込んできた。
「ぶ、部長!」
「騒々しい。なんだ」
「き、緊急の報告です! ヴァン・ラーク特別監察官が——移送中の傭兵を、街頭で制圧しました!」
シュタインのペンの動きが、ピタリと止まった。
「……なんと言った?」
「街頭で、です! 軍情局から徒歩五分の大通りで、傭兵が拘束を破り暴走。そこに偶然居合わせた特別監察官が、民衆の目前で傭兵を撃破。傭兵は……死亡しました!」
ポタ、と。
羽ペンから落ちたインクが、書類を黒く汚した。
シュタインはゆっくりと立ち上がり、信じられないとでも言うように低い声を絞り出した。
「……どこで、やったと言った?」
「な、南区の大通りです。現在、現場には特別監察官を英雄視する民衆が集まっており、本人は現場に留まったままで——」
「どこで、やったと聞いているッ!!」
「だ、だから……軍情局の正門から、三百メートルの場所で!」
シュタインの手から、羽ペンが床に叩きつけられた。パキッという乾いた音とともに、ペン先が折れる。
インクの飛沫が、机の上の書類を汚した。
常に冷徹な無眉の額に、太い青筋がはっきりと浮き上がっていた。
【第三十五章・終】
「大局」という言葉は、便利なものです。
多くのことを正当化できてしまうので。
だからこそ、それに納得できない人間もいます。
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