第三十一章:命で作った隙
今回は、少しだけ重い回です。
書いている途中、実はもう少し血なまぐさいバージョンもあったのですが……
さすがに自分でも「これはちょっと」と思い、いまの形に落ち着きました。
それでも、わりと容赦のない展開になっています。
作者としては楽しく書きましたが、
読む側としては、あまり楽しくないかもしれません。
少しだけ覚悟して読んでいただければと思います。
土煙の向こうから、何かがゆっくりと歩いてきた。
一歩ごとに、石畳が悲鳴を上げて沈んでいく。
その姿を見た瞬間、ブルーノが叫んだ。
「逃げろッ!!」
迷いのない、裂帛の気合いが路地に響く。
「ヴァン様、走れ! 俺が十秒、稼ぐ!!」
「……ああ」
短い間があった。
——ヴァンは、まだ知らなかった。
ブルーノが口にした「十秒」とは、命を削って稼ぐ時間のことだということを。
(……クソッ)
ヴァンは瞬時に周囲をスキャンした。
アイリは立っている。だが、顔色は死人のように白い。
魔力が底をついた状態で、無理やり身体強化を維持している。
(戦力外だ。連れて逃げることすらままならない)
戦術を組もうとした。
一瞬で崩れた。
手がない。
「行くぞ!」
ヴァンは決断した。
「まず走れ! 距離を取れ!」
「でも、ブルーノさんが!」
「走れッ!!」
振り返るな、と理性が叫ぶ。
だが、本能がそれを許さなかった。
傭兵が走っていた。
走る、という言葉が正確かどうか、ヴァンにはわからなかった。
地面を蹴るたびに石畳が粉々に砕け、衝撃波が路地を伝う。
ドォンッ!!
ブルーノが、正面から受け止めていた。
それは格闘戦などという生易しいものではなかった。
ブルーノが全身の魔力を込めて、間に入った。
正面から、まともに受けた。
ドン、という柔らかい音ではない。ガン、という、鉄骨が歪むような嫌な音だった。
ブルーノの巨体が後退した。
両足が石畳を深く抉り、ずりずりと滑りながら、それでも止まった。
一歩、二歩、三歩。
約束した十秒を、まだ守り切っている。
「っ……!」
歯を食いしばる音が、肉を裂くように響く。
ブルーノは反撃の拳を打ち出した。一発、二発。渾身の一撃が傭兵の胸に深く入った。
だが、反応がなかった。
表情一つ動かさず、痛みすら感じていないかのような、濁った瞳だった。
(まずい)
ヴァンが思った瞬間、傭兵の拳がブルーノの顎に叩き込まれた。
ブゥン、と空気が裂ける音。
ブルーノの頭が大きく揺れた。
「ぐっ」
それでも倒れなかった。
歯を食いしばって身体を引き戻し、意地だけで立っていた。
次の一撃が、腹に突き刺さるように入った。
石畳に膝が落ちた。
骨が砕ける生々しい音が、路地に響き渡った。
ブルーノの口から大量の血が噴き出し、その巨体がどうと崩れ落ちる。
十秒、稼ぎ切った。
しかし傭兵は止まらなかった。
踏みつけた。
地震のような衝撃が、路地を伝わった。
ブルーノが動かなくなった。
次の瞬間、傭兵がヴァンの方を向いた。
突進した。
(——速いッ!)
視界に捉えられない。逃げようとヴァンが身を翻した瞬間、大木の丸太のような剛腕が真横から迫っていた。
——ドゴォォッ!!
視界が真っ白になった。
背中が路地の壁に激突し、レンガが粉々に砕け散る。
全身の骨がバラバラになったような激痛が、一気に全身を駆け巡り、ヴァンはゴミのように石畳へ崩れ落ちた。
(……クソッ、間に合ったか……?)
血を吐きながら、ヴァンは冷徹に自身の生存を確認した。
直前、咄嗟に全身の魔力を絞り出し、心臓や頭蓋といった致命的な要害にだけ高圧魔力を流し込んで強化したのだ。Aランクに迫る異常強化個体の一撃をまともに受け、生きているだけで奇跡だった。
だが、この一発でヴァンが立ち上がれなくなったのは事実だ。
傭兵が、止めを刺そうとゆっくり歩み寄ってくる。
そこに。
土煙を裂いて、ディーターが飛び込んできた。
ヴァンの制止など聞こえていない。彼がここで時間を稼がなければ、ヴァンが死ぬと悟ったのだ。
「舐めるなァッ!! 化け物ォォッ!!」
ディーターの右腕の軍服が弾け飛び、魔導回路が限界突破の悲鳴を上げる。
ただの身体強化ではない。全魔力を一点に集束させた、軍用魔闘術の属性付与。
バチバチと青白い雷光が、彼の右拳に収束していく。
「穿てェッ!! 雷撃衝ッ!!」
閃光が弾けた。
会心の一撃。雷を纏った決死の拳は、確かに傭兵の心臓部を捉えていた。
だが。
傭兵は、表情一つ変えなかった。
莫大な雷撃を浴びても、その分厚い魔力装甲にかすり傷一つつけられない。
「あ……?」
ディーターが絶望に目を見開いた直後。
傭兵は、まるで羽虫を払うかのように無造作に裏拳を振るった。
ゴガッ。
嫌な音がした。
ディーターの身体がボールのように吹き飛ばされ、路地の壁に激突する。彼は一度だけ痙攣し、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
(……格が違う。だが……!)
ヴァンは壁際にうつ伏せに倒れたまま、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばっていた。
ディーターが稼いでくれた数秒。
ヴァンは死んだふりをしたまま、体内の残存魔力を、ありったけ右手に圧縮し始めていた。血管が悲鳴を上げ、皮膚が裂けそうになる激痛。
限界まで、さらに限界まで圧める。
アイリが立ち上がった。
魔力はとっくに底をついている。それはヴァンにも見てわかった。立っているのがやっとの、空になった器だ。
それでも彼女は、獣の姿勢で飛びかかる準備をしていた。
——なぜかは、聞かなくてもわかった。
ヴァンを見た。
あいつが死んだら、ビリィはどうなる。
「……ボス」
アイリは、掠れた声で言った。
「報酬、上げてもらうからな。食い扶持も、ビリィの分も含めて……丸ごと面倒見ろ」
(やめろ……お前では死ぬだけだ……!)
声が出ない。ヴァンの右腕の圧縮は、あとほんの数秒足りない。
傭兵がヴァンに向かって再び歩み出そうとした瞬間、二つの影が同時に動いた。
血溜まりの中に伏していたディーターだった。
先ほどの一撃で側頭部を砕かれ、全身の骨が折れているはずだ。死にかけの身体が、まだ動いた。
死にかけの身体が最後のアドレナリンで動いているのか。
彼は死に物狂いで這いつくばり、
前へ進もうとする傭兵のブーツに
両腕でガッチリと食らいついていた。
「行かせ……ない……ッ!」
血の泡を吐きながらの、意地の拘束。
大質量の傭兵の足が、ピクリと止まった。
ほんのわずか、コンマ一秒にも満たない静止。だが、その一瞬が、アイリとヴァンに決定的な『隙』をもたらした。
「キシャァァァッ!!」
アイリが側面から飛び込んだ。
魔力が枯渇し、獣の身体能力だけに頼った突進。両手の爪を最大限に研ぎ澄まし、傭兵の顔面——防具のない『両目』だけを狙って振り下ろした。
——ギンッ!!
硬質な甲高い音が路地に響いた。
眼球すらも異常な魔力で硬化された傭兵の瞳に、アイリの爪は一ミリも通らなかった。
だが、狙いは物理的な破壊だけじゃない。
眼前にアイリの爪が張り付いたことで、傭兵は一瞬だけ、完全に視界を塞がれた。
拘束を振り解こうとする傭兵の無慈悲な蹴り上げが、ディーターの顔面をカチ上げた。
ゴギュッ、と。
絶対に人間が鳴らしてはいけない音が、首の辺りから響いた。
同時に、もう片方の剛腕がアイリを薙ぎ払う。
アイリは空中でまともに打撃を受け、路地の奥の壁に激突して、そのまま動かなくなった。
傭兵の視線が、払いのけたアイリへと向いた。
その一瞬。
傭兵の意識から、完全にヴァン・ラークの存在が抜け落ちた。
二人の部下と、一人の亜人の命。
彼らが文字通り全てを投げ打って稼ぎ出した、たった数秒の時間と、一度きりの『盲点』。
(——今だッ!!)
ヴァンは音を殺し、地を滑るように一歩踏み込んでいた。
限界まで圧縮した高圧魔力が、ヴァンの右腕で暴れ狂っている。
傭兵がこちらを振り向こうとした時には、すでに遅い。
ヴァンの拳は、傭兵の心臓部の上へと、ピタリと押し当てられていた。
狙うは肉体じゃない。その奥の『回路』だ。
「——あ?」
傭兵が目を剥く。
それが、彼が漏らした最期の言葉だった。
彼の体内を循環していた強化魔力が、ヴァンの高圧魔力と衝突し、瞬時に霧散する。
鉄壁だった防御力が、ゼロになった瞬間。
ヴァンの拳の物理衝撃が、生身の肉体を貫いた。
ドォォォォォォォンッ!!
「が、はッ……!?」
次の瞬間、傭兵の口から大量の血が噴き出した。
体中の魔導回路がパチパチと明滅し、火花を散らして完全に消えた。
傭兵の膝がくの字に折れ、前のめりに石畳に叩きつけられた。二度と動かない。
ヴァンは右手を見下ろした。
完全に感覚がなくなっていた。腕全体がじんと痺れ、動かそうとしても指先が微かに震えるだけだ。
まだ動く。それだけは確認できた。
確認しなければ、と頭の片隅で思った。
だが、足が出なかった。
一歩踏み出した瞬間、膝ががくりと折れて、石畳に突っ伏した。
魔力完全欠乏による激しい目眩が、世界をぐるりと傾けた。
遠くから、鎧の擦れる音と足音が近づいてくるのが聞こえた。
路地の入口に、青白い術式の光が差し込む。
巡回隊か。
遅い。
あまりにも遅い。
ヴァンの口の中に、血の味、死ぬほど不味いチョコレートの泥のような苦味が、まだほんのりと残っていた。
(……ああ、やっぱりアレは……ひどい味だった)
……今夜、仕事が終わったら、一番美味い茶菓子を食わせてやる。
俺は嘘をつかない。
そう、約束したというのに。
【第三十一章・終】
このあと彼らがどうなったのか、
気になっている方も多いかもしれません。
大丈夫です。
まだ物語は続きます。
ただし、全員が無事とは限りません。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本日、もう一話更新予定です。
よろしければ引き続きお付き合いください。




