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幕間Ⅱ 仮面の下の帰路

今回は、仮面の下にいる存在を少しだけ描きました。


魔力を持たない者が、

なぜ強者として在り得るのか。



宿屋の天井は、雨染みだらけだった。


古い木材の軋む音。鼻を突く黴の匂い。

隙間風が時おり、薄い窓枠をガタガタと鳴らす。


ビリィは重い瞼を開けた。

ひどく体が重かった。起き上がろうとして、細い腕がプルプルと震えた。


「……っ、」


うまく動かない。いつものことだ。深く息を整え、魔力が巡るのを待つ。


視線を横に向けると、粗末な椅子に人が座っていた。白い全覆式の仮面。銀色に近い美しい髪。呼吸すらなく、完全に静止している——まるで精巧な彫刻のようだ。


「……目覚めましたか」


仮面の女が、抑揚のない声で静かに言った。


「……は、はい」

ビリィの声が少し震えた。


シンカクという名前だと聞いた。

姉のアイリが頼んだ人だと聞いた。自分をあの地獄から助けに来てくれたのだと、聞いた。


頭では、全部信じている。

ただ、あの研究所の血塗られた回廊の光景を思い出すと、恐怖で膝が自然と内側に縮こまってしまうのだ。


「具合はどうですか」


「……少し、マシです」


「嘘です。顔色が悪い」


シンカクは立ち上がった。

いくつかの薬剤の瓶を持ってきて、ビリィの前に無言で差し出す。


ビリィは受け取るたびに小さく礼を言いながら、中身を飲み干した。

全部、泥のように苦い。

顔をしかめると、シンカクが水の入った器を渡してきた。


「……ありがとう、ございます」


「飲めば少し楽になります」


「……これ、全部、私の『魔力欠乏症』の薬ですか」


「はい」


ビリィは、空になった瓶をぼんやりと眺めた。


「……シンカクさんは、すごく強いんですよね」


「強い部類に入ります」


「そんなに強くても、私の病気は治せないですか」

幼い声が、少し沈んだ。


「……私は、このまま死ぬんでしょうか」


シンカクは少し考えてから答えた。


「私は魔力を持っていません。だから、治せません」


「え……?」

ビリィは驚いて目を見開いた。

「魔力が、ない……?」


この魔導至上主義の帝国において、強者とはすなわち強大な魔力回路を持つ者のことだ。魔力を持たない人間なんて、欠乏症の自分のような者くらいだと思っていた。ましてや、あの地獄の研究所を単身で壊滅させたこの人が。


ビリィが混乱していると、シンカクは淡々と続けた。


「ですが、帰還すれば、治せる者がいます」


ビリィがバッと顔を上げた。

仮面の向こうの目は見えない。表情も読めない。でも、その平坦な声には、一切の虚飾がなかった。


「……本当に?」


「はい。嘘は言いません」


短い断定。ただそれだけだった。

でも、ビリィはその言葉を聞いて、詰まっていた息が少しだけ吸い込めるような気がした。



ビリィの呼吸がようやく整った頃、シンカクは立ち上がった。


「移動します」


「……え、今からですか?」


「早く帰った方が安全です」


それがシンカクの全ての説明だった。

ビリィが「はい」と頷く前に、すでにその小さな体は軽々と抱き上げられていた。

軽い。だが、鋼鉄の揺り籠のように安定している。絶対に振り落とされる気がしない。


宿屋を出ると、夜の冷気が容赦なく頬を刺した。

シンカクは走り始めた。


馬車よりも速い。いや、風そのものだ。帝都への道が猛烈な勢いで後ろへ流れていく。


「ひゃ――っ!」


「舌を噛みます。喋らない方がいいです」


「わかりました……っ」


暴風が耳を打つ。目を開けていると涙が飛んでいく。

ビリィはシンカクの華奢だが鋼のように硬い肩口に、小さな顔をうずめた。


揺れる。凄まじい速度で景色が飛んでいく。

気を紛らわせないと、胃の中の苦い薬を吐いてしまいそうだった。


「……お、お姉ちゃんは、」


「話してもいいです」


「……お姉ちゃんは、なんで助けに来なかったんですか。あなたに頼んだってことは、来られなかったから、ですよね」


シンカクは、超高速で木々の枝を蹴り渡りながら、一切息を切らさずに答えた。


「アイリは現在、ヴァンの傍らに待機しています」


「ヴァン?」


「雇い主です。現在、ヴァンの傍を離れられない状況でした」


「……お姉ちゃんが、誰かに雇われてるんですか」


「はい」


「……」


「えっと、その……あっ、ごめんなさい! じゃあ、そのヴァンって……どんな人なんですか?」


シンカクは少し考えてから答えた。


「約束を必ず守る人です」


感情の籠もらない、事実のみを述べる回答。

ビリィはその言葉を、小さな胸の中でゆっくりと転がした。



時は、二日前の夜に遡る。

ビリィは、研究所の暗い牢獄の天井を今でも鮮明に覚えていた。


施錠された分厚い鉄扉。

隣の区画から、時おり聞こえてくる鈍い悲鳴と、肉が焼けるような嫌な音。

絶望に慣れるしかなかった。ずっと、そこに繋がれていた。


そしてその夜、扉が爆ぜた。

物理的に『吹き飛んだ』のだ。強固な魔力錠が粉々に砕け散り、鉄の扉が紙くずのように壁に激突した。


ビリィは部屋の隅で丸く縮こまった。同じ房に入れられていた名も知らぬ亜人の男も、恐怖でガタガタと震えていた。


「……な、なんだ、お前。何をしに来た!」

男の方が、なんとか声を絞り出した。


土煙の中から現れた白い仮面の人間が、正確にビリィを見下ろした。


「アイリの妹ですね」


「……は、はい」


「連れて帰ります」


それだけ言って、シンカクはビリィを抱き上げた。

亜人の男が声を上げる。


「待て! 外には武装した守衛が山ほど――」


シンカクはすでに振り返り、歩き始めていた。

男は慌てて立ち上がり、扉口まで追って、そこで完全に硬直した。


破壊された魔力錠の残骸。ひしゃげた扉。

そして、その先の廊下。


廊下の冷たい石床には、暗赤色の染みが延々と続いていた。

等間隔ではない。飛沫と、肉片と、引きずられたような跡が混じり合い、向こうの曲がり角まで続いていた。


染みの傍らに転がる、原型を留めていない複数の『肉の塊』。


男は言いかけた言葉を、恐怖のあまり完全に飲み込んだ。

シンカクが消えた方向を、ただ腰を抜かしたまま見送るしかなかった。




――その数十分前。


シンカクが研究施設に潜入した当初の目的は、極秘裏の奪還だった。

天井裏、換気路、死角になる壁の継ぎ目。

一歩ごとに、重心を均等に分散する。足音はない。呼吸音もない。魔力反応はゼロ。


誰にも気づかれていない。

所長室の真上に到達したとき、下から苛立ったような声が聞こえた。


『この施設は、すでに軍情局のクラウスに目をつけられている! 手仕舞いにするぞ。実験体は全部処理しろ! 関係者も同様だ。知っている人間は少ない方がいい』


シンカクは天井裏で静止した。


『処理』。

『実験体』。


仮面の奥で、冷徹な思考が瞬時に結論を出した。


ビリィは実験体だ。

処分されれば、取引は崩れる。アイリは離れる。

ヴァンの戦力が減る。

ヴァンが死ぬ可能性が上がる。

……それは困る。


ならば。

シンカクは音もなく、鋭い刃を逆手に握った。


どうせ、ここから生きて出て行く者は全員、ヴァンにとっての敵だ。

敵が勝手に処理を始めるなら、自分が全て処理しても結果は同じ。


自分の方が、圧倒的に速い。


天井裏の影が、ふっと揺れて消えた。




警報が鳴る暇すらなかった。

廊下に、銀色の刃が閃いた。


最初の一人は、振り返る前に首が落ちた。

次の二人は、武器を構える前に胴体が上下に分かれた。


声は、なかった。悲鳴を上げる間も、なかった。

刃が皮革を断つ音、骨に入る音、それだけが、暗い回廊にわずかに響いた。


次の角。次の区画。

シンカクは止まらない。

白刃の輝きが廊下の端から端まで一瞬で走り抜け、また次の獲物へと跳ね返る。


ただ一人だけ。便所から出てきたこの施設の看守長だけが、異常を察知した。

彼は廊下に広がる血の海と、転がる部下たちの残骸を見て、即座に自身の魔導回路を限界まで解放した。


「なんだ貴様はぁッ!」


全身の筋肉が膨張し、ランク準A級の莫大な魔力が不可視の分厚い『魔力防壁シールド』となって彼を包み込む。


(馬鹿めが! 雑魚は殺せても、完全武装した準A級の俺の防壁を破れるかよ!)


絶対の自信と共に、看守長が腰の魔導剣を抜こうとした、その瞬間。


――パリンッ。


硝子が爆発したような、甲高い破砕音が鼓膜を打った。

看守長の視界が、ぐらりと反転する。


(……え?)


天井と床が、ぐるぐると入れ替わる。

回転する視界の先に、分厚い魔力防壁を展開したまま直立する『首のない大男の胴体』が見えた。

その切断面から、遅れて噴水のように鮮血が噴き出す。


(……ああ、あれ、俺の体か)


何が起きたのかすら理解できない。準A級の防壁ごと、豆腐のように叩き斬られたのだ。

それが、看守長の最後の思考だった。

ドサリと頭部が床に落ちる音すら、シンカクは振り返らずに次の区画へと歩み去っていた。




地獄の施設から脱出し、ビリィを回収して数十分後。

森の中で、ビリィは完全に動けなくなった。


魔力欠乏症の重い発作だ。

地面に座り込んだまま咳が止まらず、口の端から赤い血が滲んだ。


シンカクは周囲の安全を確認してから、ビリィの隣に膝をついた。


「休息を取ります」


「……ご、ごめんなさい。私が弱いせいで、足を引っ張って……っ」


「謝罪は不要です。体力の限界です」

無表情の仮面のまま、事実だけを告げた。


しばらく待ち、ビリィの呼吸が少し落ち着いてから、宿場町で、代書と伝令を請け負う小さな店を見つけた。


薬剤を買う。

そして、『ヴァン』へ状況を報告する必要があった。


しかし、シンカクは体内に魔力を一切持たない。自身の力で通信用の使魔を発動させることはできなかった。

故に、代行業者を頼るしかなかった。


店の主人は、異様な仮面の女と虚弱な少女を見て、目に強欲な光を宿した。


「……使魔? 一回、五ゴールドだ」


通常価格の五倍という、完全なぼったくりだった。

だが、シンカクは迷わず金貨を五枚取り出した。値切るという発想がない。


主人はニヤリと下品な笑みを浮かべ、一枚の小さな羊皮紙と羽ペンをカウンターに突き出した。


「ほれ。文字は自分で書け。書き終わったら、俺が魔力を込めて飛ばしてやる」


シンカクは無言でペンを受け取ると、一切の躊躇なく、紙面の中央にだけ文字を走らせた。


『状況変化。ビリィ救出済。帰還中』


宛名も、挨拶も、装飾語もゼロ。極限まで情報だけを削ぎ落とした、事実のみの文字列。

彼女はペンを置き、紙片を主人に押し返した。


主人はそれを受け取り、その羊皮紙に自身の魔力を込め空へ放つ。

小さな光の鳥が、夜空の彼方、帝都の方向へと溶けていった。

主人はその光を見送りながら、内心で舌を出し、大笑いした。

(馬鹿な女だ。たった十文字足らずの伝言で五ゴールド! 今日はついてるぜ!)




――そして、現在。


「……着いたら、会えますか。お姉ちゃんに」


背中で揺られながら、ビリィが力なく聞いた。


「会えます」


「……あなたが言うなら、そうなんだと思います」


シンカクはそれ以上答えなかった。

ビリィは安心したように、再び仮面の縁に顔をうずめた。


冷たい夜風が、耳元で鋭く鳴っている。

ヴァンの待つ帝都は、まだ遠かった。





【幕間Ⅱ・終】

シンカクという存在の謎と実力、

少しでも感じていただけましたでしょうか。


気に入っていただけましたら、

応援や評価をいただけると嬉しいです。

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