第二十六章:縁談と鼠の契約
いつもお読みいただきありがとうございます!
ここ数日、夜の更新を試していたのですが、アクセス傾向を見ていると「なろう」の読者の皆様は、朝の通勤や通学、朝の休憩のタイミングで読んでくださる方が多いようですね。
ですので、皆様の生活リズムに合わせて、明日から更新時間を元の【朝7時】に戻すことにしました!
一日の始まりの、ちょっとした楽しみにしていただけたら嬉しいです。引き続きよろしくお願いします!
今回はまた一人、怪しい人物が増えました。
作者としては「ただの商人」のつもりですが、
さて本当にそうでしょうか。
ワイルドが窓から闇に溶けて消え、さらに数時間が経過した。
ヴァンがそろそろ就寝しようと上着を脱ぎかけた、まさにその時だった。
コン、コン。
重く、遠慮のないノックの音が扉を叩いた。
「ヴァン様。夜分遅くに申し訳ありません。旦那様が書斎でお呼びです」
扉越しの執事の声に、ヴァンは小さく溜め息をついた。
ワイルドが見事な手つきで一つ残らず食い逃げしていった空の菓子皿を横目に、再び上着を羽織って立ち上がる。
(……あの爺さん、本当に仕事が早すぎる)
ベルンハルトの書斎に入ると、大きなマホガニーの机の上が見慣れない様相を呈していた。
書類の束。何枚もの上質な羊皮紙。
それぞれに、美しい令嬢の背後にある家柄の経歴が詳細に記されている。
老将軍は、疲労覚ましなのか、今夜は酒ではなく濃い茶をすすっていた。
「見ろ」
ヴァンは勧められた革張りの椅子に座り、無言で一枚ずつ手に取った。
「……たった一晩で、これだけの候補を揃えたのか」
「そうだ」
ベルンハルトは無表情で答えた。
「アクィラにも話は通してある。お前が『政治的保護を目的とした縁談』を求めている、とな。奴は特に反対しなかった」
ヴァンは羊皮紙に目を落としたまま、静かに頷いた。
(反対しなかった、か。……あの読めない大元帥がどういう意図で黙認したかは不明だが、少なくとも最大の障害は一つ消えた)
机の上の最高級の『釣書』に順番に目を通していく。
魔導鉱石統制局長官の令嬢。
帝国大蔵卿の令嬢。
枢密院議長の令嬢。
魔導技術院首席研究卿の令嬢。
どれもこれも、帝国の中枢を担う怪物たちの娘だ。
「……鉱石統制局は」
「潤沢な資金源だ。帝国の血液たる魔導銀の流通を握っている。だが、有事となれば最前線の需要と大元帥府からの圧力が直撃する部署だ」
「北との戦争が本格化すれば、一発で身動きが取れなくなるな」
「そういうことだ」
ヴァンは未練なく次の紙に移った。
「枢密院は」
「軍法下でも相応の政治的保護が効く。法の知識と貴族院への人脈は本物だ」
「だが、枢密院クラスのしたたかな古狸なら、庇護の対価として俺に相応の『利用価値』を要求してくる。今の俺には、それを示すための実績と時間が足りない」
ベルンハルトは満足げに眉を動かさず頷いた。
「技術院はどうだ」
「純粋な研究畑だ。長い目で見れば工房の奪還に繋がる有望な手だが、政治的な発言力は致命的に低い。時間をかけた挙句、いざという時に我々を守り切れる軍事的な実力がない」
ヴァンはその紙も机の端に置いた。
そして、一番下にあった最後の一枚を取り上げた。
「……軍務総長は」
「帝国軍務の要だ。大元帥に次ぐ立場で、兵站、補給、人事、魔導武装の調達まで全てを管轄する。事実上、軍の行政とカネは全てそこを通る」
「軍務総長の格としては」
「極めて高い。軍団長ですら、予算の面では彼に頭が上がらんほどにな」
ヴァンは、羊皮紙の名前の欄に目をやった。
『リヴィア・リンドガルド』。
軍務総長の、病弱な令嬢。
(軍務総長——軍のカネと物資を全て握る要職)
(病弱な令嬢なら、政治的な野心も薄いだろう。御しやすい)
「……これにする」
ベルンハルトの太い眉が、ピクリと寄った。
茶杯を置き、ヴァンの顔をじっと見た。何かを言おうとして、飲み込んだ。
また茶杯を持ち上げ、湯気を睨みつける。
「……わかった」
やがて、重々しくそれだけを言った。
「ただし、相手が相手だ。私の手には余る。大元帥自身に、直接軍務総長へ働きかけてもらう必要がある」
「わかった。手配を頼む」
「ヴァン、お前……本当にそれでいいんだな? 相手はあの『軍務総長の秘蔵っ子』だぞ」
「ああ。問題ない」
ベルンハルトはもう一度、ヴァンの顔を鋭く見据えた。それは、戦場で指揮官の覚悟を見定めるような目だった。
「……行け。今日はもう寝ろ」
「おやすみ」
ヴァンは静かに立ち上がり、書斎を後にした。
(軍務総長を後ろ盾にできれば、マルクスやクラウス局長からの当面の刺客は防げる。身の安全さえ確保できれば、あとは盤面でゆっくり稼いで、親の遺産である工房の権利を取り戻すだけだ)
廊下を歩きながら、そんな未来図を描く。
現実はそう甘くないとわかっていても、戦略を立てる段階で最良のルートを夢見るくらいは自由だ。
週末。
ヴァンは久々に、帝都の繁華街にある自身の戦棋店に顔を出した。その後ろには、黙ってついてくる二人の憲兵の姿。ブルーノとディーターは相変わらず無言で、ただヴァンの背中を追う。
店に入ると、ローランが雇い人たちと何やら熱心に確認作業をしていた。台帳の数字、在庫の山、棚の配置。すっかり若旦那の顔つきになっている。
「あ、ヴァン! 待ってたよ」
ローランが帳簿から顔を上げた。
「新しい拡張パックの『戦争迷霧』、部品は集まってきてるんだけど――実はね、ちょっとイレギュラーな話が舞い込んできてさ」
「なんだ」
「今日、魔導器の部品の件で直接商談に来た人がいるんだ。オグラって名前の商人でね、かなりまとまった数を持ってきてる。しかも、俺たちがこの前エーリヒ横丁で開拓した仕入れルートより、さらに二割も安いんだ。折角だし、ヴァンも話を聞く?」
ヴァンは店内の様子を見回した。
売り場には今日も熱気があった。巨大な棋盤を囲んで軍団戦のシミュレーションに熱中している学生たち、追加の魔導サプライを選んでいる貴族、スタッフにルールの説明を求めている新規客。
「今、全体の売上はどのくらいだ」
「先週一週間で、基本セットが六十セット。拡張パック込みの客単価が平均で十三ゴールドちょっとだから、週の売上合計はだいたい八百ゴールド弱ってところかな」
悪くない、いや、破格の数字だった。
初期の爆発的なブームからは落ち着き、新しい拡張パックを出していなかったせいでピーク時よりは売上が下がっている。だが、完全に帝都の娯楽として定着し、安定した『金のなる木』になっている証拠だ。
「新しい『霧』の拡張パックを大規模に展開するなら、魔導器の部品は相当数要る。今の仕入れルートの生産力じゃ足りなくなるのは見えている。そこにタイミングよく大口の話が来たってことか」
ヴァンは少し思考を巡らせた。
極端に安い仕入れには、必ず裏がある。出所が不明な商人からいきなり大量調達するのは、毒入りの餌を食うようなものだ。
「そのオグラとやら、今店にいるのか」
「うん、奥の応接室で待ってもらってる」
「俺が直接話す」
奥の商談スペースの扉を開けると、椅子に座っていた小柄な人影がこちらを振り向いた。
――ネズミの亜人だった。
頭の上には、丸みのある小さな耳。椅子の隙間からは、細く長い尻尾が機嫌良さそうにゆっくりと揺れている。
そして特徴的なのは、その愛らしい顔の両頬に刻まれた、三本ずつの対称な『魔力刺青』。まるで猫やネズミの髭のように見える。
表情は人懐っこく、常にニコニコと笑っているように見えた。
「オーッ! やっと来た来たァ」
鈴を転がすような、しかしどこか底知れない軽い声だった。
「あなたがウワサのヴァン・ボーイ? それとこっちがローラン・ボーイね? アタシはオグラ。よろしく~」
語尾がひどく間延びしている。いかにも胡散臭い、異国情緒をワザと押し出したような口調だ。
「ナイス・トゥ・ミーチュー、ってやつねェ~」
ヴァンは表情一つ変えず、向かいの席に腰を下ろした。
薄っぺらい愛想笑いの裏に、ねっとりとした油断ならない気配を感じる。
「世間話は省く。商談の中身を聞こう」
「おっと、ストレートねェ。アタシそういうスマートなボーイ、嫌いじゃないわ。じゃあ直球で言うと――魔導器の部品、大量に持ってるの。今のキミたちの仕入れルートより、二割は安く卸せるわよ。どう?」
「出所は」
オグラは少しだけ声を潜め、片目を瞑った。
「……ノストラ方面の、特別な仕入れ先よ。もちろん、ちゃんと正規の流通品。帝国の厳しい税関の検品もパスしてるわ」
その言葉に、隣のローランがピクリと反応した。
「ノストラから……? ヴァン、北との国境は今、事実上の封鎖状態に近い。そんな大量の部品を正規に持ち込んで、しかも帝都の相場より二割も安くできるなんて、どう考えても計算が合わない。……まさか、密輸じゃないだろうね」
帝国とノストラ。両国は冷戦状態にあり、貿易の壁は極めて高い。
オグラはローランの警戒を鼻で笑うように、長い尻尾を揺らした。
「ローラン・ボーイは警戒心が強いわねェ。安心して、アタシには『灰色の境界線』を渡るちょっとしたコネがあるの。書類は全部揃えて持ってきてるわ。見る?」
オグラは足元の鞄から、分厚い羊皮紙の束を取り出して机に滑らせた。
ヴァンとローランは、素早くそれに目を通す。
関所の検品証明。大蔵省の輸入申告書。魔導品質保証書。
書式は完璧。関税局の正式な烙印も押されている。
ローランが小声で囁いた。
「……信じられない。書類上は、一切の瑕疵がない。完璧な合法品だ」
ヴァンも同じ判断だった。偽造の線も薄い。
だが、盤上の手駒が良すぎる時は、裏に別の意図がある。
「安全性と合法性は確認した。確かに二割引きは魅力的だが、出所の知れない部品を大量調達すれば、万が一発覚した際の政治的リスクも比例して増大する。それを加味すれば、今の高い相場で安全を買うのも悪くない判断だ」
ヴァンの冷ややかな交渉術に、オグラはにこにこと笑みを深めた。
「リスクのケアね、わかったわ。キミ、ホントに軍校生? まるで老練な商人みたい。じゃあ、さらにイイ提案をさせてもらうと――帝都内にあるウチの倉庫、使っていいわよ。保管コスト、タダにしてあげる」
「タダより高いものはない。倉庫の場所は」
「帝都東区の運河沿いに二箇所。どっちも帝都警備隊にちゃんと登録してある、真っ当な建物ね」
ローランが思わず前に乗り出した。
「倉庫込みで二割引き……! しかもノストラの高品質な魔導部品……それは確かに、破格すぎる」
「ただし――」
オグラの尻尾が、ピタリと動きを止めた。
その瞬間だけ、彼女の両頬にある三本ずつの刺青が、微かに赤く光ったように見えた。
「条件があるわ。このディールを受けるなら、戦棋の『地方への委託販売』も、アタシに一枚噛ませてほしいの。ビジネス・パートナーとして、ね」
「委託販売、というのは」
「アタシ、帝都だけじゃなくて帝国各地を回る巨大な隊商のネットワークと繋がってるの。そこにキミたちの『帝国戦棋』を乗せて、地方の貴族や裕福な平民にも売り捌いてあげる。アタシはその売上の手数料をもらう。それだけ。帝都内のキミたちのシマを荒らすつもりは毛頭ないわ」
ローランが鋭く眉を寄せた。
「……最初からそれが狙いか。安価な部品の卸売りは、ただの撒き餌。本当にやりたかったのは、うちの戦棋の販売網に食い込むことだったってわけだ」
「シャープねェ、ローラン・ボーイ。商人の息子ってのは伊達じゃないわ」
オグラはクスクスと笑った。
「まあ、そういうこと。ウチが本当に美味しい思いをしたいのは、そっちの利権よ」
ローランはヴァンを見た。判断を委ねる目だ。
ヴァンは脳内で高速で計算盤を弾いた。
(……帝都内のシマには一切触れさせず、地方の新規開拓だけを任せる。リスクはあちら持ちで、こちらは純粋な売上の上澄みだけを掬い取る……条件としては完璧すぎて、逆に虫唾が走るな)
ただ、目の前のネズミの底が読めない。
(……このネズミ、どこまでが純粋な商人で、どこからが『別の何らかの組織』の回し者だ?)
ヴァンは一切顔には出さず、淡々と口を開いた。
「手数料の率は」
「地方売上の、一割五分」
オグラは短い指をヒラヒラと振った。
「帝都の売上には一銭たりとも手を出さないわ」
ヴァンは視線を外さずに次を問う。
「地方で抱える在庫の管理責任は」
「アタシが全部被るわよ。売れ残りの返品は受け付けない代わりに、輸送中の破損や不良品が出たら、ウチの商会が全額補填する」
「……いいだろう。契約の代書人を通して、正式な契約書を作る」
「もちろん。むしろ、お互いのためにそうしてほしいわねェ」
ローランが隣で、ハラハラした様子で小声で囁いた。
「……ヴァン、本当にいいの? うますぎる話だけど」
ヴァンは短く答えた。
「やる。ただし、契約書の文言が一字一句固まってからだ」
オグラは満足そうに、尻尾をパタリと一度、椅子に打ち付けた。
「ディール」
短い異国の言葉が、応接室に落ちた。
オグラは立ち上がり、小さな手を差し出した。
ヴァンも立ち上がったが――その小柄な亜人の手は握らず、ただ冷ややかに見下ろした。
「握手は、法務代書人が互いの署名を確認した後だ」
オグラは差し出した手をピタリと止め、それから面白そうにクスクスと笑って手を引っ込めた。
「オーケー、オーケー。警戒心の強いボーイねェ。でも、そういうビジネスライクなところ……最高にクールよ」
底の知れない笑顔のまま、オグラはひらひらと手を振って部屋を出ていった。
商談を終え、店外の空気を吸いに出ると、ローランがヴァンの隣に並んだ。
「……あのネズミのオグラさん。ただ者じゃないよね」
「そうだな」
「地方を網羅する隊商ネットワークを持ってて、帝都に自前の倉庫まで登録してる大商人が、わざわざうちみたいな立ち上げたばかりの小さい店に、直接頭を下げて商談に来る? 普通、ありえないよ」
「来ないな。普通は」
「じゃあなんで……」
ヴァンは目を細め、帝都の空を見上げた。
昼間の空は、煤煙のせいで少し白く濁っていた。
「さあな。裏で誰が糸を引いていようが、ビジネスとしては悪い話じゃなかった。今はそれで十分だ」
ローランはしばらく黙ってから、腹を括ったように頷いた。
「……まあ、そうだね。利益が出るなら、相手が誰だろうと売るのが商人だ」
店の中から、熱狂的に棋盤を挟む客たちの歓声が漏れてきた。
ヴァンは扉の取っ手を握りながら、静かに思考の奥底にピンを留めた。
(ネズミの亜人で、敵国ノストラ方面の太い密輸ルートを持っている。……それだけでも、頭の片隅に記憶しておく価値はある)
それ以上の深追いは、今はしないことにした。
【第二十六章・終】
今回は新しい商人、オグラが登場しました。
一見すると陽気で軽い人物ですが、
あの笑顔の裏に何があるのかは、まだわかりません。
もし少しでも「このネズミ、怪しい」と思っていただけたなら、
作者としてはしてやったりです。
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