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第九十九章:収拾不能

戦場では、勝敗がついたあとに妙な火種が残ることがあります。

とくに、あれだけ派手にやられたなら、兵士たちの自尊心が黙っていないでしょう。

アクィラ・ソルは浮きを見つめていた。

動かない。

池の水面は、秋の光を静かに反射している。


元帥府の裏庭。

石畳の縁に腰を下ろし、釣り糸を垂れるにはちょうどよい池だ。

護衛すら遠ざけた、最高権力者の数少ないプライベートな時間である。


「……貴様、ついに焼きが回ったか」


隣から声がした。

低く。しかし、帝国大元帥に対する「遠慮」というものが一切存在しない声で。


「ヴァンなどという青二才に兵を預けて。一体何を考えている」


アクィラは舌打ちした。


「大声を出すな、ベルンハルト。魚が逃げる」


「魚が逃げる、だと」


ベルンハルトは釣り竿を荒々しく膝に置いた。

かつて同じ戦場で泥水をすすり、死線を共にした長年の戦友だからこそ許される、極めて無礼な態度だった。


「ワシは今、お前の正気を疑っているんだがな」

「疑え。だが、余は至って正気だ」

「……貴様」

「見ればわかるだろう。あのガキに、誰かが噛みつこうとしていることぐらい」


しばらく沈黙した。

二人分の釣り糸が、水面に揺れていた。


「……わかっている」


ベルンハルトが低く唸った。


「だからこそだ。条件が悪すぎる。一万の精鋭に、五千の素人だぞ。負けて当然の戦いをさせるつもりか」


「負けて当然の戦いで、みっともなく負けるだけなら問題はない」


アクィラは静かに言った。


「派閥の均衡だ。ガス抜きとしてはそれで十分だろう」

「――自分の息子を、政治の駒として使い潰すのか」

「ベルンハルト」


アクィラの目が、初めて浮きから離れた。

横を向いた。

静かな目だった。凪いだ、底知れぬほど深い、捕食者の目だった。


「口を慎め、老兵。その口の利き方、時と場所が違えば反逆罪に問うこともできるぞ」


ベルンハルトは黙った。

ギリッと釣り竿を握り直す。

二人はまた、無言で水面を見た。


――石畳を踏む足音が近づいてきた。


超越者であり、元帥府の侍女長を務めるヒルデガルドだった。

その後ろに、軍服姿で顔面蒼白の連絡将校が続いている。


「元帥閣下」


ヒルデガルドが静かに頭を下げた。


「演習の方から、少々急ぎの報告が」


「何事だ」


アクィラは釣り竿を持ったまま、振り返りもせずに言った。


ベルンハルトが弾かれたように立ち上がった。

椅子が石畳を引っ掻く甲高い音が響く。


「演習で何かあったか! ヴァンは……あの子は無事か!」


将校は一瞬だけ表情を引き攣らせた。

それから、極めて慎重に言葉を選んで口を開いた。


「……演習の枠を越え、両軍が制御不能の大乱闘に陥っております」

「何」

「ヴァン・ラーク閣下率いる新兵部隊が、ギュンター閣下率いる精鋭部隊を――」

「――完全に包囲、いたしまして」


アクィラが釣り竿を置いた。

ことり、と石畳に硬い音が響く。


「誰が、誰を包囲したと?」

「ヴァン・ラーク閣下の部隊が、ギュンター閣下の部隊を、です」

「五千で、一万をか」

「……は、はい」


アクィラは将校の顔をしばらく見た。


「もう一度、説明しろ」

「五千の兵が、一万の兵を包囲した」

「その経緯をだ」

「……順を追って、説明させていただきます」


元帥府の裏庭に、主を失った釣り竿が二本、置き去りにされた。




一方、演習場は完全に茶番と化していた。


現場の収拾が、まったくついていなかった。

当然である。演習の勝敗はとうに決している。

それでも、戦いだけは終わっていなかった。


「ロスト」の判定を受けて退場したはずの帝国軍の古参兵たちが、防護用の魔導器を赤く光らせたまま起き上がり、再び戦列に殴り込みをかけていたのである。


「自軍が袋叩きにされているのを、横で寝て見ていられるか」


だが、ヴァン軍の新兵たちも黙っていなかった。

光り輝く体のまま、起き上がってきた「死体」に飛びかかり、取っ組み合いの喧嘩を始めていたのだ。


もはや戦術も陣形もあったものではない。

ただの、光る死体たちによる大乱闘である。


天幕の中では、筆頭判定官である白髪の老将が深く頭を抱えていた。


「軍務に就いて五十年になるが……」


「少ない方が多い方を包囲するのも、死体が殴り合うのも、初めて見た」


隣の審判組も引きつった顔で頷いた。


「どう裁定すればよろしいのでしょうか? 帝国の誇りを重んじますか? それとも、あの理解不能な新戦術を評価しますか?」


三人の指揮官たちは、左右に分かれてお互いを睨みつけていた。

泥まみれのギュンターとコーマン。そして、一人だけ傷一つないヴァン。

誰も先に口を開かなかった。


そこへ、新たな足音が近づいてきた。

重く、威圧感のある足音。

第一軍団長マルクスと、第二軍団長ルキウスであった。


「……おいおい、なんだこれは」


マルクスが報告書を広げ、眉間を揉んだ。


ルキウスは横からのぞき込んで、面白そうに眉を上げた。


「少ない方が多い方を、袋叩きにしたのか」


それからヴァンの方を向き、労うように肩をぽんと叩いた。


「無事か、ヴァン」

「はい、ルキウス閣下」

「そうか。それは重畳だ」


マルクスはまだ報告書を睨んでいた。

視線を紙から外さず、ギュンターの方を向かずに言った。


「俺様に詳細を聞かせろや」


ギュンターが一歩前に出た。

背筋を伸ばし、泥だらけの顔を上げる。


「――私の判断ミスです」


ルキウスが微かに眉を動かした。


「コーマン殿の進言を聞かなかった。それが一点」

「もう一点は、全軍の油断。相手が新兵であるという、根拠のない慢心」

「そして……ヴァン・ラークは、我々をそこへ意図的に誘導した」


ギュンターは、一拍置いた。


「……やり口は決して褒められたものではない。俺がやるかと言われれば、絶対にやらない。だが、効いた。完敗です。以上」


マルクスが初めてギュンターの顔を見た。何も言わなかった。

視線をコーマンに移す。

コーマンが一礼して口を開いた。


「私も同意見です」

「加えて申し上げるならば、ギュンター閣下と私は、今回の演習に『政治的な意味』を持たせすぎました。それが判断を鈍らせた。指揮にも誤りがありました」


コーマンは少し間を置いた。


「……しかし、最後の魔法砲撃。あれは特筆に値します。あの曲射軌道……射程をもう少し伸ばせる技術があれば、実戦でも非常に有効な戦術となるでしょう」


マルクスとルキウスが、再び報告書に目を落とした。

二人でしばらく無言で文字を追う。

読んで。

読んで。


「……判定を出せや」


マルクスが審判組に命じた。


「まず勝敗を確定させろ。細かい話はそれからだ」

「は、はい! ただちに!」

「では、自分はこれで失礼します」


突然のヴァンの言葉に、天幕の全員が振り返った。


「自分の部隊の様子を確認したいので」


「待て」


マルクスが呼び止めた。


「お前が帰ったら、誰に詳しい話を聞けばいい」


「ギュンター閣下と、コーマン殿が適任かと。敗者の分析を聞く方が、よほどためになるでしょう」


ヴァンは平然と言い放った。


「……それに、俺はただ、死体になってまで殴り合っているアホな部下どもが心配なだけですので」


沈黙が流れた。

複数の視線がヴァンに集中した。

呆れたような目。感心したような目。苦々しい目。そして、ひどく面白がっているような目。


ヴァンは特に気にしなかった。

一礼する。

踵を返す。




【第九十九章・終】

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